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消えていった あたしの友よ |
《蛇足》この歌は、フランス植民地主義の暗黒面から生まれた名作です。
1954年5月7日、ディエンビエンフーの敗北で、フランスがインドシナの植民地を失うと、それに刺激されて北アフリカのフランス植民地では一挙に独立闘争が燃え上がりました。
フランスの保護領だったチュニジアとモロッコは、1956年3月に独立を勝ち取りましたが、その間に位置するアルジェリアでは泥沼の戦いとなりました。その原因は、フランス本国とアルジェリアとの特殊な関係にありました。
アルジェリアには3つの海外県が置かれ、そこに住むコロンと呼ばれるヨーロッパ系住民(植民者)には、フランス本国の国民と同等の権利が与えられていました。
いっぽう、住民の大多数を占めるベルベル人やアラブ人などの先住民は、差別と抑圧を被っていたのです。
1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、同年11月1日に各地で蜂起し、武装闘争を本格化させていきました。
これに対して、フランス政府は本国から兵力を送り、独立派やその支持者と見なした人物を激しく弾圧、民族解放戦線側も農場や学校への襲撃、インフラ破壊、軍人や警察官の殺害などを行い、その戦いは凄惨を極めました。
フランス政府は次々と兵力を増派し、その数は1958年6月には陸海空軍約51万人と補助兵力13万人に達しました。
これほどの大軍を投入しても解放戦線を屈服させられなかったのは、この戦いが宗主国フランス対アルジェリア解放戦線という単純な図式ではなかったからです。親仏派の先住民対独立派の先住民という民族紛争でもあり、これに先住民に融和的なコロン対強硬派のコロンとの争いも加わりました。
戦争はいっこうに収束の気配が見えず、フランスの国論も、独立を容認するグループと、アルジェリアはフランスと一体で絶対に失えないとするグループに二分されました。
フランス政府は独立容認の方針を打ち出しますが、軍部とコロンの激しい反発を受けて、当事者能力を喪失しました。
この危機を乗り切る切り札として担ぎ出されたのが、対独戦の英雄ド・ゴール将軍。彼は大統領に就任すると、アルジェリアの民族自決を認める政策を発表、国民投票では75パーセントがこれを支持し、流れはほぼ決まりました。
しかし、極右過激派のコロンや軍人はこれに従わず、OASという秘密軍事組織を作り、アルジェリアやフランス本国でテロ活動を活発化、何度かド・ゴール暗殺を企てましたが、失敗しました。
ド・ゴール暗殺計画については、フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』や、それを映画化した同名のユニヴァーサル作品(フレッド・ジンネマン監督)で世界的な話題になりました。
アルジェリア駐留軍は、ド・ゴールの政策を受け入れず、本土侵攻を企て、あわや内戦という状態になりましたが、ド・ゴールは強硬な態度を貫き、また駐留海空軍の離反などもあって、事態はどうにか収まりました。
1962年3月に和平交渉締結、その後フランス本国での国民投票、アルジェリアでの住民投票において、圧倒的多数で独立が採択され、独立が最終的に決まりました。
和平交渉締結後も、OASはアルジェリアにおいてテロを激化させ、解放戦線も報復テロを行ったため、ほとんどのコロンがフランス本国に脱出しました。支持基盤を失ったOASは、敗北を認めざるを得なくなり、やがて停戦に至りました。
この戦争は何度か映画化されましたが、1966年9月公開のイタリア映画『アルジェの戦い』がとくに有名です。
ジッロ・ポンテコルボ監督は、当事者や目撃者、残された記録文書に基づき、アルジェリア市民8万人と軍の協力を得て、この戦争をドキュメンタリータッチでリアルに描き、世界に衝撃を与えました。
同年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。授賞式のとき、フランス代表団は"反仏映画"だとして反発、フランソワ・トリュフォー監督を除く全員が退席したという逸話が残っています。
戦争の記述が長くなりましたが、これによってこの歌が生まれた背景がわかりやすくなるかと思います。
エンリコ・マシアス(Enrico Macias)は、本名ガストン・グレナシア(Gaston Ghrenassia)。エンリコ・マシアスという芸名を使うようになったのは、フランス本国に移住してからです。
1938年12月11日、アルジェリアのコンスタンティーヌで生まれました。父はヴァイオリニストで、ガストンも15歳のときから父と同じオーケストラでギタリストして舞台に立つようになりました。
ガストンは、オーケストラの指揮者で音楽上の師でもあったシェイキ・レイモンの一人娘スージーとのちに結婚しました。
1961年、ガストンが22歳のときから戦争が狂乱の度を深め、アルジェリア独立に反対していた義父シェイキ・レイモンが解放軍によって暗殺されます。それと前後して、同年の親友や親類の何人かも次々と殺されました。
ガストンはアルジェリア脱出を決意、1961年7月29日、妻スージーとともに難民船でフランスに渡りました。
その船中で、郷里や亡くなった友への思いをテーマとした曲を作ります。
フランスでは、一時パリ郊外のアルジャントゥイユに住み、次いでパリ市内に移転し、生活の資を得るためにカフェやキャバレーを回って演奏しました。要するに流しをしていたわけです。
そんな生活のなかで、運良くレコード・映画会社パテの音楽プロデューサー、レイモン・ベルナールの知己を得ることができました。
1962年、初吹き込み。そのときの作品は『さらばわが故郷よ(Adieu mon pays)』で、これは難民船で作った曲の1つでした。テレビでこの歌を披露すると、大評判になり、この歌はアルジェリアから移住したコロンたちのシンボルソングのようになりました。
『消え去りし友(Compagnon Disparu)』をリリースしたのは翌年で、これも難民船で作った曲の1つでした。
その後、『恋ごころ』『思い出のソレンツァラ』など、世界的ヒット曲を連発して歌手としての地位を確立したマシアスは、50年間にわたって世界中を演奏旅行して回りました。しかし、アルジェリアへの入国は、ついに認められませんでした。
岩谷時子の日本語詞は、友という言葉は使われているものの、女性の失恋歌のような印象を受けます。
しかし、原詞では「同い年の友」「街角の死」という言葉が使われています。また、末尾は「君のことを考えるとき、私が苦しむのはまちがっている。なぜなら、君は死を超えて私のなかに生きているからだ」となっており、同年の友の死を悼む歌だとわかります。
作詞のアンヌ・ユルグェンについては、調べましたが何者かわかりませんでした。マシアス自身か妻スージーの筆名、もしくはふたりの共同筆名かと思いますが、正確なところは不明です。
(二木紘三)