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1 黒い花びら 静かに散った |
《蛇足》昭和34年(1959)7月に東芝レコード(のち東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)から発売。
のちに数々の大ヒット曲を生んだ"六・八コンビ"こと永六輔と中村八大のコラボによる最初の作品であり、伝説の破滅型歌手・水原弘のデビュー・シングルであり、かつ第1回日本レコード大賞の受賞作品でもあります。
『黒い花びら』の誕生については、次のような話が伝わっています。
ジャズの芸術性追究に行き詰まり、スランプに陥っていた中村八大は、相談のためにかつてのバンド仲間、渡辺晋を訪ねました。渡辺晋は渡辺プロダクションを主宰し、芸能界に大きな力を持っていました。
路線の違いから、一度は袂を分かった2人でしたが、渡辺晋は、すぐに東宝のプロデューサー・山本紫郎を紹介してくれました。
当時は、渡辺の妻で渡辺プロダクションの副社長・渡辺美佐が仕掛けた『日劇ウエスタンカーニバル』が大人気で、若い世代にロカビリー・ブームが続いていました。その人気に便乗しようと、東宝が企画したのが、夏木陽介を主演に据えた『青春を賭けろ』でした。
この映画にはいくつかの曲を入れる計画でしたが、アメリカのヒット曲を使えば高い使用料を取られるので、すべてオリジナル曲で行こう、という話になっていました。そして、ロカビリー世代にアピールする曲を作れる者がいないかという相談が渡辺晋のところに来ていたのです。
渡辺から紹介を受けた山本紫郎は、中村八大を知らなかったので、力量を見るために、翌日までに歌詞のついた作品を10曲作ってくるよう求めました。
1日で10曲作るだけでも難題ですが、もっと困ったのが、ジャズ一筋でやってきた中村には、作詞家に伝手がまったくなかったことです。途方に暮れて道を歩いていると、ばったり会ったのが面識のある永六輔でした。
中村が文化放送のジャズ番組でパーソナリティを務めていたとき、永も放送作家として関わっていたのです。
中村が事情を話して協力を頼むと、作詞の経験が皆無だったにもかかわらず、永は「それはおもしろいね、やろうよ」とすぐ引き受けました。
2人はその足で中村のマンションに行き、曲作りにかかりました。それは、たとえば明るい曲、暗い曲といったテーマだけ決めて、中村はメロディ、永は詞を別々に作るというユニークな方法でした。
それぞれが10曲分作ったあと、この曲にはこの詞が合いそうだ、この詞ならこの曲がいいだろう、といったふうに話し合い、そのあとで曲または詞を歌えるように手直ししたのです。
直しと並行して、中村が編曲して曲を仕上げていき、事前に呼んであった3人の写譜屋にオーケストラ用の譜面を作ってもらいました。
中村は次の日、突貫作業で作った10曲を持って東宝撮影所の直行、山本に楽譜を手渡しました。作品が認められて、中村は『青春を賭けろ』の音楽監督に採用されました。
映画の主題歌には、『青春を賭けろ』と『黒い花びら』が採用されました。最初は夏木陽介に歌わせる予定でしたが、曲調が変わっているので、彼には合わないだろう、ということになりました。
『青春を賭けろ』はロカビリーだし、『黒い花びら』は3連符を多用したロッカバラード風のアレンジだったので、通常の歌謡曲とは違う独特の味わいを出せる歌手が必要だったからです。
そこで中村八大は、自分が出演していた銀座のジャズ喫茶『サンボ』に、ロカビリーでデビューした歌手たちを集めて、『黒い花びら』を歌わせてみました。そのなかで、群を抜いてうまかったのが水原弘でした。即座に起用決定。
『黒い花びら』をA面、『青春を賭けろ』をB面として、6月にレコーディング、続いて東芝レコードで営業会議。
営業マンたちへの受けはあまりよくなく、曲はいいが、個性的すぎて一般向きではないということで、最初の発売は2000枚と決められました。全国に1500店あまりあったレコー店の数から見ると、これはあまりに低い数字でした。
ところが、そのレコードは、7月の発売直後から驚くほどの売れ行きを示し、映画『青春を賭けろ』が封切られると、いっそう勢いが増しました。
そして、この年に創設された『日本レコード大賞』の大賞を受賞。
日本レコード大賞は、今でこそ存在感が薄くなりましたが、古賀政男や服部良一が主導して、「新しい日本の歌を作ろう」という趣旨のもとに設けられたもので、歌謡界では最高の賞でした。
この年には、ペギー葉山『南国土佐を後にして』、村田英雄『人生劇場(再)』、フランク永井『夜霧に消えたチャコ』、三橋美智也『古城』、フランク永井・松尾和子『東京ナイトクラブ』、三波春夫『大利根無情』、スリー・キャッツ『黄色いさくらんぼ』、春日八郎『山の吊橋』など、挙げきれないほどのヒット曲がありましたが、受賞したのは『黒い花びら』でした。
「く~ろい花びら……」という意表を突く歌い出し、遠くを見るかのように上目遣いの表情、ところどころしわがれ声になる歌い方。恋人を失ったというありふれたテーマでありながら、こうした演出が虚無的な悲哀感を醸し出し、それが日本レコード大賞創設の趣旨に合致したのでしょう。
この受賞によって、売れ行きはさらに伸び、30万枚を超える大ヒットとなりました。
翌昭和35年(1960)、この曲をモチーフとした映画が東宝で制作され、水原弘が主演を務めました。以後、彼は映画俳優としても活躍することになります。
さて、その水原弘ですが、いろいろな意味で希有の歌手といっていいでしょう。酒豪、浪費、放蕩、無頼、賭博中毒……これらは、水原弘について書かれた文献には、必ずで出てくる言葉です。
山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスに続くロカビリーの第二世代としてステージ・デビューしたころから、すでに乱脈な生活ぶりが現れていました。『黒い花びら』でスターになると、それが急激にエスカレートしました。
その放蕩無頼ぶりは、勝新太郎に私淑することによって、いっそう昂進しました。
勝新太郎のモットーは、「芸人は、自分が稼いだ金は自分についてきてくれた者たちに散財すべきだ。しかも、落ち目になったからといって控えるようではだめだ」で、彼自身、そのとおりの豪放な散財を続け、その結果巨額の借財を遺しました。
水原弘は、そうした勝新太郎の生き方をなぞるかのように、放埒な生活を続けますが、やがてその生活にも翳りが生じてきました。ヒット曲が出なくなり、歌で売れなくなれば、映画界からのオファーもなくなります。
当然収入は激減しますが、取り巻きを連れての派手な飲み歩きや博打は止めませんでした。出演料の前借り、友人からの借金、それもできなくなると、ヤミ金融から高利の金を借りて豪遊を続けました。
昭和39年(1964)5月、水原弘は神奈川県の綱島温泉で開帳された賭博で、50万円巻き上げられました。それが警察に知られたことから、参考人として呼ばれました。賭博常習者で、裏社会とも関わりがあることが報道されると、仕事は次々とキャンセルされました。
水原の没後、このころのことが祥伝社の女性週刊誌『微笑』昭和53年(1978)7月29日号に書かれています。その一部を紹介しましょう。
……歌と酒の日々。その遊びは"役者の勝か、歌の水原か"と、喧伝されるほど徹底したものだった。見も知らぬ男たちを引き連れて銀座のクラブからクラブへと渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は確実にあけた。関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も飲んだことさえあった。(中略)人気が続いている間は、それでよかった。しかし、芸能界の常、やがて人気は低迷する。それまで彼をちやほやしていた人も、1人、2人と彼の側から離れていく。さびしかった。人間の底にある"イヤシサ"に、彼は絶望した。その絶望、怒りを紛らすために、彼はまた酒を浴びた。
しかし、芸能界から追放された彼を見捨てず、その卓越した歌唱力を惜しむ人たちがいました。元マネージャーの長良じゅん、東芝レコードのディレクター・名和治良、『スポーツニッポン』の記者・小西良太郎などです。
彼らは、気むずかしいことで知られた作家・作詞家の川内康範を口説き落として詞を書いてもらい、新進作曲家の猪俣公章に作曲させました。こうしてできたのが、『君こそわが命』です。『黒い花びら』を陰の歌とすれば、それは朗々と歌い上げる陽の歌でした。
メンバーは、曲の制作前から、さまざまなプロモーションを行い、水原弘をマスコミに取り上げもらうよう各方面に手を打ちました。
レコーディングは、たった3分37秒の曲に12時間かけるという、前例のないものでした。水原弘は、何度も癇癪を起こしながらも、最後にはパンツ1つになるほど汗みどろになって歌ったといいます。
こうした努力は、みごとに実を結びました。昭和42年(1967)2月にリリースされると、初日から売り切れ店が続出し、数か月で100万枚を超える売り上げとなりました。
そして、その年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。芸能界を閉め出されてから2年目、まさに"奇跡のカムバック"でした。
しかし、水原の放埒な生活ぶりは収まりませんでした。取り巻きを連れての毎夜の豪遊、大酒。これでは、いくら収入があっても足りません。しかも、彼には以前からの数千万円に及ぶ借金がありました。闇金から借りて別の闇金に返すという自転車操業。
借金は生活を崩壊させ、大酒は体をむしばみます。アルコール性の急性肝炎で何度も入院し、それが慢性肝炎に移行、やがて肝硬変を発症しました。病院で大量の吐血を繰り返した末、昭和53年(1978)7月5日永眠。カムバックしてから11年目、42歳の若さでした。
戦後の歌謡史に記録されるレジェンドの1人です。
(二木紘三)