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Channel: 二木紘三のうた物語
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信濃の国

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:浅井 洌、作曲:北村季晴

1 信濃の国は十州(じっしゅう)
  境連ぬる国にして
  聳(そび)ゆる山はいや高く
  流るる川はいや遠し
  松本伊那佐久善光寺(まつもと・いな・さく・ぜんこうじ)
  四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地
  海こそなけれ物(もの)(さわ)
  万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき

2 四方(よも)に聳ゆる山々は
  御嶽乗鞍駒ヶ岳(おんたけ・のりくら・こまたがたけ)
  浅間は殊(こと)に活火山
  いずれも国の鎮(しず)めなり
  流れ淀(よど)まずゆく水は
  北に犀川(さいがわ)千曲川(ちくまがわ)
  南に木曽川(きそがわ)天竜川(てんりゅうがわ)
  これまた国の固(かた)めなり

3 木曽の谷には真木(まき)茂り
  諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
  民のかせぎも豊かにて
  五穀(ごこく)の実らぬ里やある
  しかのみならず桑とりて
  蚕飼(こが)いの業(わざ)の打ちひらけ
  細きよすがも軽(かろ)からぬ
  国の命(いのち)を繋(つな)ぐなり

4 尋ねまほしき園原(そのはら)
  旅のやどりの寝覚の床(ねざめのとこ)
  木曽の桟(かけはし)かけし世も
  心してゆけ久米路橋(くめじばし)
  くる人多き筑摩(つかま)の湯
  月の名にたつ姨捨山(おばすてやま)
  しるき名所と風雅士(みやびお)
  詩歌(しいか)に詠(よみ)てぞ伝えたる

5 旭(あさひ)将軍義仲(よしなか)
  仁科(にしな)の五郎信盛(のぶもり)
  春台太宰(しゅんだいだざい)先生も
  象山佐久間(ぞうざんさくま)先生も
  皆此(この)国の人にして
  文武(ぶんぶ)の誉(ほまれ)たぐいなく
  山と聳えて世に仰ぎ
  川と流れて名は尽(つき)

6 吾妻(あづま)はやとし日本武(やまとたけ)
  嘆き給(たま)いし碓氷山(うすいやま)
  穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六
  夢にもこゆる汽車の道
  みち一筋(ひとすじ)に学びなば
  昔の人にや劣るべき
  古来(こらい)山河(さんが)の秀(ひい)でたる
  国は偉人のある習(なら)

《蛇足》明治33年(1900年)、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭の浅井洌(れつ、きよしとも)が作詞した詞に、同僚の北村季晴が曲をつけて成立しました。
 長野県師範学校附属小学校の遊戯用として作られたものですが、師範学校の卒業生たちが赴任先の学校で教えたことにより、県全域に広まり、やがて県民の愛唱歌になりました。昭和43年(1968)5月20日の県告示で、正式に長野県歌となりました。

 どういう根拠によるのかわかりませんが、ウィキペディアでは、秋田県民歌、山形県の『最上川』と並ぶ「三大県民歌」と称された、とされています。秋田県民歌も『最上川』も、県の行事などでは歌われるでしょうが、県民や県出身者のそれらの歌に寄せる思いは、『信濃の国』に匹敵するほど深いのだろうかと疑問に思います。

 平成27年(2015)に長野県庁が実施したアンケートでは、県民の約8割が『信濃の国』を歌えると回答しています。平成の調査なのでこの数字ですが、昭和前半の調査なら9割以上の数字になったはずです。
 昭和20年代には、小中学校の入学式や卒業式、市町村の成人式や、役場・公民館などの落成式などで、必ずといっていいほど『信濃の国』が歌われました。

 若いうちに県外に出た人ほど『信濃の国』への思い入れが深いようで、県人会や学校の同窓会・同期会、県人の趣味の会などでもよく歌われます。
 近年は、この県歌を教えない小学校が多くなっているようですから、知らない人が次第に増えていきそうです。

 こんな話があります。
 明治維新後、廃藩置県に伴って行政区分の改廃が盛んに行われました。明治4年(1871)には、旧信濃国は北東側の長野県と南西側の筑摩県に分かれました。ただし、筑摩県には、旧飛騨国と旧美濃国の中津川地区も含まれていました。つまり、筑摩県は長野県に比べて大県だったわけです。

 ところが、明治9年(1876年)には、筑摩県は廃止され、旧飛騨国と中津川地区は岐阜県に、旧信濃国内の筑摩郡・諏訪郡・伊那郡・安曇郡は長野県にそれぞれ編入されました。これによって、旧信濃国がほぼそのまま長野県になりました。
 形の上ではスッキリしましたが、これが旧筑摩県側に不満を残す原因となりました。長野県の傘下に入ったようで気分がよくないというわけです。以後幾度となく、旧筑摩県の県都であった松本を中心に分県運動が起こります。

 昭和23年(1948)3月の県議会でも、分県が提議され、揉めに揉めました。旧長野県、すなわち北信と東信の議員は全員反対、旧筑摩県、すなわち中信と南信の議員は全員が賛成。定数は60で、賛否は30対30の同数。

 いざ投票となったところに、反対派議員の1人から病気のため欠席という届けが出されました。1票差で分県決定かとなったそのとき、反対派の1人が突然、「し・な・のーのくには~」と歌いだしたのです。反対派の議員たちがそれに和し、つられて賛成派も歌い出して、議場は合唱で満たされました。その結果、投票は流れ、分県問題は有耶無耶になったそうです。
 『信濃の国』が信州人にとってどんな意味をもつかを如実に物語るエピソードです。

 とはいうものの、6番まで歌える人はめったにいないと思います。行事や会合で歌うのは、たいていは2番まで。3番以降は言葉がむずかしく、現代人にはあまり馴染みのない固有名詞が出てくるせいかもしれません。

 歌詞は、1番と2番が地理、3番が産業・産物、4番が名所・歌枕、5番が偉人、6番が結びという構成で、曲は、全体として意気軒高の行進曲風ですが、4番だけスローでメロディックなトーンになっています。
 以下、いくつかの言葉に注をつけておきましょう。

十州
 左回りに武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)、上野(群馬県)、越後(新潟県)、越中(富山県)、飛騨(岐阜県)、美濃(岐阜県)、三河(愛知県)、遠江(静岡県)、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)

物多に
 「物産が豊か」の意。今でこそ長野県は物産も観光資源も豊かになり、他県から移住希望者も多くなっているが、戦前はまぎれもなく貧乏県の1つだった。ちなみに、満蒙開拓移民は、実数でも人口比でも長野県が1位。ほんとうに豊かだったら、わざわざ満蒙には行かなかったはず。
 県民に誇りをもたせ、奮い立たせようと、あえて「物多に万ず足らわぬ事ぞなき」と謳ったのだろう。

犀川
 梓川と奈良井川が松本市島内で合流する地点から千曲川との合流点までの呼び名。言い換えれば、犀川の上流部分が梓川。河川法では、梓川の水源から千曲川との合流点までが犀川。

千曲川
 信濃川の長野県内部分の呼び名。河川法では、千曲川の水源から信濃川の河口までが信濃川。

国の鎮め、国の固め
 「信濃国を護り、安定させている」の意。

真木
 りっぱな木の意。建築材として優れた杉や檜。幕藩時代には、木曽は尾張藩の領地で、杉や檜を無断で、あるいはうっかり伐ると死罪になることもあった。

細きよすがも軽からぬ
 「生糸は細くて軽いものだが、生活を支えてくれる重要なものである」の意。

園原
 古代から中世にかけて、都から出羽へ向かう東山道では、美濃と信濃の国境近くにある神坂峠(みさかとうげ)が最大の難所だった。命がけで峠越えした旅人たちがホッと安堵したところにあった山里が園原で、現在の長野県下伊那郡阿智村智里。旅人たちのそうした体験が都に伝えられて、柿本人丸、大伴家持、紫式部など多くの歌人の歌材となった。

寝覚の床
 長野県木曽郡上松町にある景勝地。木曽川の流れで花崗岩が削られ、大小の箱が積み重なったような奇勝が南北1キロに渡って続いている。
 ここにも浦島伝説があり、地元・臨川寺の『寝覚浦嶋寺略縁起』には、次のように記されている。
 浦島太郎は、竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書をもらって帰り、日本諸国を経巡ったのち、木曽川沿いの美しい里にたどり着いた。ここで釣りを楽しんだり、霊薬を売ったりして暮らしていたが、あるとき里人に竜宮の話をするうち玉手箱を開けてしまい、300歳の老人と化してしまった。その瞬間、太郎は長い夢からから覚めたような気がしたという。寝覚の床という呼び名は、これに由来するとされている。

木曽の桟
 中山道(東山道の近世以降の呼び名)のうち、福島宿と上松宿の間の木曽河岸には、通行困難な断崖がいくつもあった。そいう場所では、断崖に穴をうがって桟(さん)すなわち丸太を差し込み、その上に板を敷いて渡れるようにした。これが木曾の桟道で、木曾の桟(かけはし)と書かれることもあり、歌枕として知られた。

久米路橋
 犀川中流の狭窄部に架けられた橋。かつては犀川を渡る唯一の橋だった。地形に合わせた複雑な構造だったため、中世以降何度も落ち、架け替えられた。『拾遺和歌集』に、「埋木(うもれぎ)は中むしばむといふめれば久米路の橋は心して行け」という和歌が、詠み人知らずで載っている。
 あるときの架け替えの際に起こった無惨な人柱伝説が残っている。

筑摩の湯
 『日本書紀』に記載がある束間温湯(つかまのゆ)だろうと推定されている。浅間温泉か美ヶ原温泉のいずれかとされているが、浅間には天武天皇に仕えていた有力な氏族の古墳がいくつも見つかっていることから、浅間温泉説が有力。

姨捨山
 千曲市と東筑摩郡筑北村の境にある冠着山(かむりきやま)、別称更級山(さらしなやま)のことで、この地に残る姨捨伝説から姨捨山と呼ばれる。
 姨捨山の善光寺平方向の斜面には棚田があり、平安時代から「田毎の月」として歌枕になっている。能因(のういん)法師、藤原定家、松尾芭蕉など、多くの歌人、俳人が田毎の月や姥捨山について詠っている。

風雅士
 風流な人の意で、歌人、俳人、詩人、作家など。

旭将軍義仲
 木曾源氏の頭領・源義仲。倶利伽羅峠(くりからとうげ)の大勝など破竹の勢いで入京したことから、旭将軍(朝日将軍とも)と称された。粟津の戦いで従兄弟の源義経・範頼に敗れて戦死。『平家物語』や『源平盛衰記』では、非常に印象の強いキャラクターとして描かれている。

仁科五郎信盛
 武田信玄の五男で武田勝頼の異母弟。信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏の名跡を継いだ。諱(いみな)は盛信とする史料もある。
 武田氏の滅亡時、一族・重臣の逃亡や寝返りが続くなか、伊那の高遠城に籠もり、兵3000(500とも)で織田信忠軍5万を相手に奮闘したあと自刃。首級は京に運ばれてさらされたが、胴体は信盛を敬慕する領民によって手厚く葬られた。

太宰春台
 江戸時代中期の儒学者・経世家。信濃国飯田城下生まれ。伊藤仁斎や荻生徂徠に学んだのち、江戸の小石川に塾を開き、多くの門人を育てた。その研究範囲は、政治・経済・社会・教育・軍事と幅広く、数多くの著書を残している。

佐久間象山
 幕末の松代藩藩士。号の象山は、地元では「ぞうざん」というが、一般には「しょうざん」と呼ばれる。 
 朱子学・和算などを学んだのち、蘭学・英学・砲術・兵学などを研究し、洋学の第一人者となった。吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、加藤弘之、坂本龍馬、小林虎三郎などの俊秀が象山に教えを受けた。
  嘉永6年6月(1853-7)、ペリー提督の黒船が来航したとき、幕府は久里浜に上陸を許し、応接所を設けて、松代藩と小倉藩に警衛を命じた。佐久間象山は軍議役として参加した。

 翌年、ペリー艦隊は再び来日し、日米和親条約の締結を求めた。ペリーは2度の航海の経験から、アジア人には武力を背景とした威圧的な態度で臨むのが効果的と知り、日本に対してもそのような交渉法を採った。実際、幕府は、アメリカ側の強引な押し付けに対抗できず、アメリカ側の要求を大幅に取り入れて日米和親条約が締結された。安政元年3月3日(1854-3-31)のことである。

 役割を果たして余裕ができたペリー提督は、6日後の3月9日、横浜村への散策に出た。応接所には何人もの役人がいたが、ペリーは、そのなかのひとり、佐久間象山に対して会釈をして通り過ぎたという。それを目撃した勘定奉行勝手方(財政担当)の川路聖謨(としあきら)は「ペリーが頭を下げたのは貴殿だけであろう」と嘆息したという。

 佐久間象山は、身長は5尺7、8寸、すなわち172〜175cmで、筋骨たくましく大柄だった。鈴木隆雄著『日本人のからだ』(朝倉書店)によると、江戸時代前期~後期の男性の身長は平均155、6センチ、女性143、4センチだったというから、日本人としてはずば抜けた長身だった。
 また、象山は、色白で彫りが深く、二重まぶた、額が広く、眼光炯々として威厳があったと伝えられている。そのような容貌がペリーには高官と映ったのかもしれないが、川路聖謨がいうように、交渉役の幕府の高官たちには会釈しなかったようなので、やはり象山の全身から放たれる気のようなものを感じたのではなかろうか。

 しかし、象山は自信家で傲慢なところがあったため、敵も多かったようだ。とくに一橋慶喜の求めに応じて公武合体論と開国論を説いたことから、尊皇攘夷派からは目の敵にされ、元治元年(1864)7月11日、河上彦斎(げんさい)らにより暗殺されてしまった。
 のちに河上彦斎は象山の業績を知り、愕然として、以後人斬りをやめたという。

吾妻はやとし日本武
 東国征討に出た日本武尊(やまとたけるのみこと)が相模から上総への渡海の途中、突然暴風が起こり、難破しそうになった。日本武尊の妻・弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神の怒りを鎮めようと入水(じゅすい)したところ、風波は収まり、無事渡海できた。
 碓氷峠(うすいとうげ)まで来たとき、日本武尊は弟橘媛を悼んで、「吾が妻よああ」と三度嘆いたという。以後、東国は「あづま」と呼ばれるようになった。
 なお、『古事記』では日本武尊、弟橘媛は倭建命、弟橘比売命と表記されている。
 碓氷峠は、群馬県松井田町と長野県軽井沢町の境にある峠。

(二木紘三)


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