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1 ロンドン橋が 落ちる London Bridge |
《蛇足》 古代より幾度となく破壊、崩壊、流失、焼失と再建とを繰り返してきたロンドン橋の歴史から生まれたナーサリー・ライム(nursery rhyme)で、マザー・グース(英語の伝承童謡の総称)のなかでも、世界的に知られたものの1つです。
ナーサリーは子ども部屋、ライムは韻または韻文のことで、合わせて童謡とかわらべ歌と訳されています。
歌われている橋の歴史をざっと見てみましょう。
ロンドン橋は、タワー・ブリッジとキャノン・ストリート鉄道橋の間にある橋で、ロンドン地区では最も古い橋です。1729年にパットニー橋(別名フルハム橋)が開通するまでは、キングストン・アポン・テムズより下流では、テムズ川の南北をつなぐ唯一の橋でした。
現在のロンドン橋のあたりに最初に橋が架けられたのは、紀元前54年にカエサルが率いるローマ軍がグレートブリテン島に侵入したあとだとされています。最初は川を横断するように並べた舟の上に板を渡した舟橋だったようですが、紀元55年ごろ、橋脚に支えられた木造の橋に架け替えられました。
これらの橋の北側に設けられた植民地は、ローマ風にロンディニウム(Londinium)と呼ばれました。これがロンドンという地名の起こりです。
このころから橋は、架けては壊れ、あるいは焼け、また架け直すの繰り返しが始まります。
紀元5世紀の初めごろ、ゲルマン系の諸部族がヨーロッパ大陸を西進してくると、ローマ人はグレートブリテン島から撤退、代わってアングロ・サクソン人が入ってきます。
さらに、紀元800年になると、スカンディナヴィアから航海術と戦闘力に優れた武装船団、いわゆるヴァイキングが来襲して、アングロ・サクソン人の支配地域を侵したり、占領したりするようになります。
なお、現在では、ヴァイキングはこうした武装勢力に限定されず、スカンディナヴィア半島およびユトランド半島に住んでいた人びと全体を指すようになっています。すなわち、今日のノルウェーのノース人、スウェーデンのスヴェア人、デンマークのデーン人です。
ローマ人撤退後は、アングロ・サクソン人同士、アングロ・サクソン人対ヴァイキング、あるいはヴァイキング同士がたびたび戦火を交え、これによって、橋は何度も破壊と再建が繰り返されました。
たとえば、イングランド王(サクソン人)エゼルレッド2世は、990年ごろ、デーン人の王スヴェン1世の侵入に対して軍団を急派するために、壊れていた橋を再建しました。この橋は、1014年、エゼルレッド2世の同盟者であるノース人の王オーラヴ2世が、デーン人をテムズ川の両岸に分断するため、船で引き落とさせました。
1066年のいわゆるノーマン・コンクェストによってイングランド王になったウィリアム1世(征服王)が橋を再建しますが、この橋は1091年の大竜巻で破壊されました。ウィリアム2世によって修復された橋も、1136年の大火で焼失します。
その後、プランタジネット朝(アンジュー朝)初代の王ヘンリー2世が、頑丈な石橋を築くことを決意します。工事は1176年に始まり、ジョン王治政下の1209年に完成しました。実に33年を要した大工事でした。
橋のほぼ中ほどに、高い帆柱を持つ船を通すための跳ね橋、橋の両端に番小屋が設けられました。
ジョン王は巨額の建設費を少しでも取り戻そうと、ロンドン市会に橋のメンテナンスを義務づけ、その見返りに通行料徴収権を与えました。また、橋の上に建物を建てることを認めました。橋上権を売ったわけです。
1358年までに138の店舗や住宅、礼拝堂が建てられ、その数はチューダー朝(1458-1603)の時代には200軒にも達していたといわれます。
橋上には公衆便所や居住者用の便所がありましたが、いずれも橋からせり出すように作られ、糞尿は直接テムズ川に落とされました。
多数の建物が作られたので、通行できる道幅は4メートルしかなく、それが2つのレーンに分けられていました。そのため、車馬や通行人で混雑するときには、橋を渡りきるのに1時間もかかったそうです。
橋上の多数の建物は橋脚に過重な負担をかけ、そのためアーチは何度となく造り直しを余儀なくされました。また、しばしば火災に遭い、犠牲者が出ました。
とくに1212年には、橋の両側から同時に火事が起こったため、橋上の住人たち逃げ場がなく、3000人が死んだと伝えられます。
さらに、1381年のワット・タイラーの乱、1450年のジャック・ケイドの乱にときには、多数の建物が焼き打ちに遭いました。
アーチの幅が狭いうえに、橋脚の基盤が大きく作られていたので、引き潮時には船が通りにくくなり、とくに川が凍結する冬場には、ほとんど航行できなくなりました。
16世紀に入ると、北側の2つのアーチに揚水用の水車、南側の2つのアーチに粉挽き用の水車が設けられました。この水車を回すために2メートルの水位差が作られ、これによって橋の両端に急流が生じ、多くの舟がそれに巻き込まれて遭難したといいます。
南側の番小屋の付近は、きわめて悪評の高い場所でした。刑死した犯罪人の首が串刺しにされてここにさらされたのです。
一般の犯罪人のほか、国王と対立したトマス・モアやジョン・フィッシャーなどの著名人も、ここでさらし首にされました。清教徒革命を主導したオリヴァー・クロムウェルにいたっては、すでに死去していたにもかかわらず、わざわざ墓から掘り起こされて、斬首されてさらし首になりました。
この慣行は1660年に廃止されました。
1633年と1666年にも大火が起こり、橋は大きな損傷を受けましたが、崩落にするには至りませんでした。
1758年から1762年にかけて、水上交通改善のために、中央の2つのアーチがより広い梁間のものに交換され、また橋上の建物はすべて撤去されました。
18世紀の末になると、ロンドン橋の老朽化が明白になったので、建て替えが計画されました。コンペティションで採用された建築家ジョン・レニーの設計に従って、1824年に建設が始まり、1831年に完成しました。
この橋は、5つの石のアーチによって支えられた風格のあるデザインで、元のロンドン橋より30メートル上流、すなわち西側に架けられました。
橋の位置の変更に合わせて両側に新しい道路を造らなければなりませんでしたが、その費用は橋自体の建設費の3倍もかかったそうです。
新しい橋ができると、そこはロンドンで最も混雑する場所になりました。そこで拡幅が行われましたが、その結果、橋が不等沈下し始めました。1924年の調査で、橋の東側と西側とで9センチもの高低差が生じていることがわかったため、取り壊しが決まりました。
ロンドン市議会は、新しい橋の建設費を捻出するため、古い橋の売却を決めました。『霧のロンドンブリッジ』で歌われたレニーの橋は、1968年4月18日、アメリカの大富豪ロバート・P・マカロックに246万ドルで買い取られました。
このころ、1ドルはまだ360円だったはずですから、8億8520万円にもなります。このほかに、解体費やアメリカまでの輸送費、復元費も必要ですから、マカロックにとっては予想外の出費になったのではないでしょうか。
一説によると、マカロックはロンドン橋を、1894年に完成したタワー・ブリッジと勘違いして、喜んで買ったといわれていますが、本人は否定しています。
買い取られた橋は、アリゾナ州のハヴァス湖に復元され、観光名所になっているそうです。
現在のロンドン橋は、ジョン・モウレムの設計で1967年に建設が始まり、1973年に開通しました。
さて、『ロンドン橋』の歌ですが、これがいつごろから歌われていたかはわかりません。17世紀にはこの歌の文献が散見されますが、歌われ始めたのはヴァイキング時代の後半あたりからと推測されます。
まとまった歌詞が印刷されたのは、1744年にメアリー・クーパーによって発行された"Tommy Thumb's Pretty Song Book"が最初で、これによってイギリスやアメリカで広く歌われるようになりました。
歌詞は内容も長さもさまざまで、定本といえるようなものはありません。上の英語詞は、民俗学者のイオナ&ピーター・オーピー夫妻がまとめた"The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes"(オックスフォード大学出版部発行、1951年)に載っているものです。
これでは、1番の最初の行が"London Bridge is broken down"となっていますが、"falling down" となっているヴァリアントも少なくありません。とくにアメリカでは、"falling down"と歌うのが普通のようです。わが国でも、"falling down"と記憶している人が多いはずです。
この歌でいつも問題になるのが、各聯の最後で繰り返される"My fair lady"です。これが何を指すのか、昔からいろいろな説が述べられてきましたが、いずれも実証されたものはなく、説というより想像か、せいぜい推測のレベルにすぎません。
私は、「ロンドン橋が落っこちたんでございますよ、奥様」といった呼びかけの言葉だろうと思いますが、まあこれも根拠はありません。
オーピー夫妻の英語詞では、材木からレンガ→鉄→金銀→石と、橋の材料が次第にじょうぶなものになっていきますが、高田三九三(たかだ・さくぞう)の日本語詞では、鉄→金銀→材木→石と、木造があとのほうになっています。そうなっている英語詞が何かあったのかもしれません。
金銀製の橋というヴァースは、いろいろなヴァリアントに出てきますが、これは橋上に建てられた店舗や商館の派手な儲けっぷりを歌ったものだとする説があります。
日本語詞のタイトルは、『ロンドン橋』とするものが多数ですが、『ロンドン橋落ちた』とか『ロンドン橋落ちる』とするものもあります。
高田三九三は、『十人のインディアン』『メリーさんの羊』『すいかの名産地』『たんぼの中の一軒家』など、多くのアメリカ民謡のほか、ワーグナーやシューベルトの曲にも日本語詞をつけています。平成13年(2001)1月29日、94歳で没。
(上の絵は1710年のロンドン橋を描いた版画。また、mp3は4回だけ繰り返すようにしてあります)。
(二木紘三)