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Channel: 二木紘三のうた物語
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丘の上の白い校舎

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:萩原四朗、作曲:倉若晴生、唄:真木不二夫、台詞:南田洋子

1 肩を並べて 落葉踏む
  母校の庭は 城の跡
  丘も校舎も 夕陽が染める
  なごりの秋の なつかしさ

(台詞)
「いちばん楽しみにしていた最後の旅行も、とうと
うすんでしまったし、あとはもう、卒業の日を待つ
だけね。でも、あなたはここの人だから、こんない
い町にいつまでもいられてうらやましいわ。あたし
は卒業と同時に、この町にも、あなたにもお別れし
て遠い国へ帰ってしまうの。つらいわ……」

2 ゆくなこの秋 いつまでも
  ほのかな夢も 残るのに
  白い校舎に やさしい君に
  さよなら告げる 春くるな

(台詞)
「元気を出しましょう。そして、わとわずかしかな
い高校生活をあたしたちのいちばん楽しく、いち
ばん美しかった想い出として残すようにがんばり
ましょうね」

3 胸の涙は 制服の
  ボタンにとめて 名を呼べば
  君の眸も せつなくぬれて
  古城の町は いま暮れる

《蛇足》昭和29年(1954)12月にテイチクレコードから発売されました。

 この歌は、昭和38年(1963)発売の舟木一夫『高校三年生』に始まる一連の学園ソングの先駆けとなる作品です。
 学園ソングは、高校生同士の友情や淡い恋心をテーマとした青春讃歌で、舟木一夫の『修学旅行』『学園広場』『仲間たち』『あゝ青春の胸の血は』『君たちがいて僕がいた』や、三田明『美しい十代』、梶光夫の『青春の城下町』などがあります。

 これらの学園ソングは、敗戦後の学制改革による男女共学化がなければ生まれなかったものです。昭和22年(1947)公布の教育基本法では、「……教育上男女の共学は認められなければならない」とされ、とくに国公立校では男女共学が原則となりました。

 それでも、ながいこと私立校を中心に男女別学が続きました。共学化した旧男子校でも、女生徒は少数派でした。
 たとえば、私は昭和33年
(1958)4月に高校に入学しましたが、1クラス約50人のうち、女子は5、6人しかいませんでした。したがって、女子はまことに貴重な存在で、事務的な用件で言葉を交わすときでさえドキドキしたものです。
 女子は女子で、「すごそうな男ばかりで、場違いなところにきてしまったと戸惑い続けだった」という感想をのちに聞きました。

 男女別学時代に学生生活を歌った歌といえば、校歌や寮歌、応援歌のたぐいばかりで、戦後の学園ソングに近いものといえば、『鈴懸の径』ぐらいしか思いつきません。

 話は変わりますが、先日『ホルテンさんのはじめての冒険』というノルウェー映画を見ました。定年退職した鉄道機関士が半分ボケた老人と知り合います。老人は元外交官と自称していますが、実は人生に失敗した発明家です。その老人が「人生は手遅ればかりだ。違うか?」というのです。

 そのセリフを聞いて、私の手遅れはいつ始まったかと考えたところ、高校時代に行き着きました。中学までは親のふところで何も考えずにぬくぬくと生きてきたのですが、高校以降、多少自分の頭で考えるようになると、判断ミスや考え違いの連続で、まさしく手遅ればかりでした。
 上記のような学園ソングを聴くたびに、(あのときこうしておけばなあ)という思いが連鎖状に浮かんできます。高校時代に楽しい記憶がなかったわけではありませんが。

  「人生は手遅ればかりだ」だけだと、老人が人生をネガティブにしか考えていないように思えますが、続けて彼はこういいます。「逆に考えれば、なんだってできるってことだ」と。
 ホルテンさんは、少年時代、ほかの男たちが皆できたスキージャンプが怖くてどうしてもできず、女性スキージャンプ選手の先駆けだった母親をがっかりさせたという思いを抱いて生きてきました。
 老人が急死したあと、ホルテンさんは老人の家からスキーを持ち出し、深夜スキージャンプを敢行して、成功するのです。

 さて、私はどの手遅れを取り戻せるか……できそうなことが1つも浮かんできません。申し訳ありません、お父さん、お母さん、姉よ、妹よ、妻よ、娘たちよ、友よ、昔好きだった人よ。

(二木紘三)


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