(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 霧降る夜の この街角に Broken Promises |
《蛇足》どうも記憶が曖昧ですが、私がこの曲をラジオで初めて聞いたのは、昭和35年(1960)だったような気がします。そのときはインストゥルメンタルで、小林旭の歌を聞いたのは、翌年か翌々年だったと思います。
アンリ・ド・パリ楽団が日本ビクターからEP版で出したのは、昭和36年(1961)だったそうですから、たぶん私の記憶がずれているのでしょう。
青春前期は、感情の振幅がとりわけ多い時期で、野放図な明るさを好む一方で、引き込まれるような暗さに惹かれることもあります。この曲の鬱々とした情趣は、当時の私の負の心情にぴったり収まりました。
私だけでなく、外国のポピュラーソングには珍しい演歌的なフィーリングが多くの日本人にアピールし、大ヒットとなりました。昭和36年に同名の日活作品の主題歌として発売された小林旭のレコードも、ベストセラーになりました。
私は、この曲は世界的なヒットだと思っていましたが、どうもほとんど日本でだけの大ヒットだったようです。日本での大ヒットを逆輸入する形で、アメリカでも多少ヒットしたようですが。
ウィスコンシン州の地方紙"The Milwaukee Journal"の1961年12月28日号に、次のような記事が載っていました。同紙は1837年創刊の老舗で、現在は"Milwaukee Journal Sentinel"という名前になっています。
下図がその記事で、「無名のアメリカ人作曲家が日本のレコード市場でビッグヒット」という見出しになっています。抄訳してみましょう。
ジョン・シャハテルという、わが国のヒットパレードには一度も名前が出たことのない無名のポピュラー音楽の作曲家が日本のレコード市場で大暴れしている。
いちばん驚いているのはシャハテル自身だろう。彼は補聴器のベテランセールスマンで、暇なときにクラリネットで作曲していたのである。彼の"Broken Promises" (日本語題名:Kuroi Kizuato No Blues)は、日本のヒットパレードのポップス部門で17週間1位を維持し、現在も2位につけている。
「この曲はニューヨークでは1人も買い手が見つからず、結局自費でマスターレコードを作るしかなかった……コロムビア映画音楽産業が引き取ったという話を聞いてから18か月後、今年の4月に、日本のいくつかのレコード会社から契約を求める電報が舞い込み始めました」
シャハテルは、最初の月の印税として4000ドル(当時のレートで144万円)受け取り、さらにこの年末までに5万ドル(同1800万円)を受け取ることになるだろう。
このあとシャハテルは、「ニューヨークのレコード会社が私のすべの作品に多大の関心を示している」と自信を示すのですが、その後彼の作品がヒットしたという話は記録されていないので、どうもこの1曲の成功だけで終わったようです。
"Broken Promises"の演奏では、テナーサックス奏者のサム・テイラーやシル・オースティン、イタリアのアルトサックス奏者のファウスト・パペッティが有名です。
サム・テイラーやシル・オースティンは、日本的フィーリングが彼らの演奏者魂に合っていたのか、あるいは逆に2人の演奏法が日本人の心情にマッチしていたためかわかりませんが、何度も来日して、数多くの歌謡曲を吹き込んでいます。
サム・テイラーは『影を慕いて』『誰よりも君を愛す』『花と涙』『命預けます』『知床旅情』『わたしの城下町』など、シル・オースティンは『船頭小唄』『傷だらけの人生』『兄弟仁義』など。
演歌の吹き込みがとくに多かったサム・テイラーは、「エンカテナー」と呼ばれたこともありました。
(mp3は日本語詞に合わせてアレンジしています)。
(二木紘三)