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つめたき 囚獄(ひとや)いでて Nach Frankreich zogen zwei Grenadier', |
《蛇足》 1820年にハイネが作った詩に、1840年にシューマンが作曲した作品。『ロマンツェとバラーデ、第二集(Romanzen und Balladen Heft 2)』の最初の曲(作品番号49)です。
作品の舞台は、1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻と敗退。
同年6月24日、ナポレオンが率いる約60万人の大陸軍(フランス、およびその従属国と同盟国の軍隊)がロシアに攻め込みます。しかし、ロシア軍の焦土作戦とゲリラ戦などを駆使した巧みな攻撃により、大惨敗を喫します。
同年10月末に撤退を開始しますが、大陸軍の兵士たちは、飢えと強烈な寒気、ロシア軍の攻撃により続々と倒れます。
ロシア国境までたどり着いた者は全軍の約5分の1、本国に帰還できたフランス兵は出兵時の2パーセント弱、4,5千人すぎなかったといわれます。
戦争がほぼ終結したころ、 ロシアの捕虜収容所から解放されて、帰国の途についた2人のフランス兵が、この歌の主人公です。ドイツにたどり着いたとき、2人はナポレオンが捕まったという話を聞きます。
1人は重傷を負っており、もう1人に、自分が死んだらフランスに連れ帰って埋めてくれ。皇帝が復活したら、墓から出て皇帝のために戦うつもりだ、といいます。もう1人が、自分たちが死んだら妻子が心配だというと、瀕死の兵士は、皇帝が捕らわれたのに、妻子の心配などしていられない、乞食にでもなればよい――とすさまじいまでの忠誠心を吐露します。
この忠誠心は、2人が擲弾兵だったということから生まれたと見てよいでしょう。堀内敬三は、『二人の兵士』という題にしていますが、これだと普通の兵士という印象を受けます。
一般には『二人の擲弾兵(てきだんへい)』というタイトルで知られており、原題も"Die beiden Grenadiere" となっています。
GrenadiereはGrenade、すなわち「擲弾を投げる者」という意味です。擲弾は火薬を詰めた鉄球で、導火線に火をつけて敵に投げつける武器、要するに手榴弾です。
余談ですが、元寇のとき元軍が使った「てつはう」も擲弾でした。ただし、鉄球のほか、陶製の球も使われたといわれます。
ナポレオン戦争のころの擲弾は非常に重く、遠くへ投げられなかったため、敵陣に肉迫して投げる必要がありました。敵陣に接近すればするほど、撃たれる危険性が高まります。
そのため、擲弾兵には勇猛で体力のある者が選ばれました。つまり、擲弾兵は兵士のなかのエリートだったわけです。擲弾兵はそのことに誇りをもち、周りも敬意を払ったといわれます。
のちに擲弾は、手投げから射出機で投げる戦法に変わり、擲弾兵という兵科はなくなりますが、勇猛な兵士には擲弾兵という敬称が奉られたといいます。
エリートとして遇されると、一般の兵士より皇帝への忠誠心が強くなります。ですから、「擲弾兵」というタイトルでないと、この激しい忠誠心には見合わないと思います。
ナポレオンは軍事独裁者ですが、革命の継承者ないし守護者だったころから、多くの崇拝者がいました。没落してのちも崇拝者はあまり減らなかったといわれます。
たとえば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』では、ゲーテがナポレオンを盛んに賞賛していたと書かれています。
また、ベートーベンの交響曲第3番変ホ長調『英雄』がナポレオンに捧げられたことは有名です。
ただし、ベートーベンが賛美したのは、ナポレオンが、革命をつぶそうとする周辺の王制諸国と戦い続けるとともに、国内の行政制度や教育制度、法律(ナポレオン法典)などを整備したからです。
ナポレオンが皇帝に即位したと聞くと、「ヤツも俗物にすぎなかったか」と怒って、献辞が書かれた楽譜の表紙を破り捨てたそうです。
『二人の擲弾兵』では、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の印象的なメロディが組み込まれ、これが擲弾兵の愛国心・忠誠心を表す効果を上げています。
ワグナーも『二人の擲弾兵』を作曲していますが、これにも『ラ・マルセイエーズ』の一節が使われています。そのほか、リストの交響詩『英雄の嘆き』や、チャイコフスキーの管弦楽序曲『1812年』、ドビュッシーのピアノ曲『花火』などでも、『ラ・マルセイエーズ』の一部が引用されています。
『ラ・マルセイエーズ』は名曲だと思いますが、国歌としては長すぎるし、歌詞も血なまぐさいですね。よく言われることですけれども。
(二木紘三)