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Channel: 二木紘三のうた物語
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二人の兵士(擲弾兵)

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詩:ハインリッヒ・ハイネ、ロベルト・シューマン、日本語詞:堀内敬三

つめたき 囚獄(ひとや)いでて
帰る兵士 二人、
故郷(ふるさと) 近づきしころ、
いたみし心に
国の便りと聞きしは
「フランスついに敗れ
大軍崩れ 今は はた
皇帝 捕われし」と。
悲しき便り 聞きて
涙せし二人、
語りつ

「死は近し、かくも 傷うずくは。」
答えつ
「こと やみぬ。
死も 今 いとわじ。
されども 妻子(つまこ)
いかになすべき。」
「うれいそ、妻子を。
われら死にて後(のち)
乞食(こつじき)とならばなれ、
皇帝、捕らわれしを。

わが語るをきけ。
われ 今 死せば
わが屍(かばね)たずさえて
フランスの地に埋めよ。
名誉の十字をば
わが胸にかけ、
(つつ)をわが腕に
剣を腰に。

かくてわれ 墓より
祖国をば 護らん、
砲音(つつおと)やおたけびの
またもひびく日まで。
やがて皇帝 かえりて
わが墓の上に
軍勢 つどわん時
墓をいでて 起たんかな
わが皇帝のために。」

     Die beiden Grenadiere

Nach Frankreich zogen zwei Grenadier',
Die waren in Russland gefangen.
Und als sie kamen ins deutsche Quartier,
Sie ließen die Köpfe hangen.

Da hörten sie beide die traurige Mär:
Dass Frankreich verlorengegangen,
Besiegt und zerschlagen das tapfere Heer,-
Und der Kaiser, der Kaiser gefangen.

Da weinten zusammen die Grenadier'
Wohl ob der kläglichen Kunde.
Der eine sprach: Wie weh wird mir,
Wie brennt meine alte Wunde!

Der andre sprach: Das Lied ist aus,
Auch ich möcht mit dir sterben,
Doch hab’ ich Weib und Kind zu Haus,
Die ohne mich verderben.

Was schert mich Weib, was schert mich Kind?
Ich trage weit bess’res Verlangen;
Lass sie betteln gehn, wenn sie hungrig sind,-
Mein Kaiser, mein Kaiser gefangen!

Gewähr' mir, Bruder, eine Bitt':
Wenn ich jetzt sterben werde,
So nimm meine Leiche nach Frankreich mit,
Begrab’ mich in Frankreichs Erde.

Das Ehrenkreuz am rothen Band
Sollst du aufs Herz mir legen;
Die Flinte gib mir in die Hand,
Und gürt’ mir um den Degen.

So will ich liegen und horchen still
Wie eine Schildwacht, im Grabe,
Bis einst ich höre Kanonengebrüll
Und wiehernder Rosse Getrabe.

Dann reitet mein Kaiser wohl über mein Grab,
Viel Schwerter klirren und blitzen;
Dann steig'ich gewaffnet hervor aus dem Grab,-
Den Kaiser, den Kaiser zu schützen.

《蛇足》 1820年にハイネが作った詩に、1840年にシューマンが作曲した作品。『ロマンツェとバラーデ、第二集(Romanzen und Balladen Heft 2)』の最初の曲(作品番号49)です。

 作品の舞台は、1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻と敗退。
 同年6月24日、ナポレオンが率いる約60万人の大陸軍
(フランス、およびその従属国と同盟国の軍隊)がロシアに攻め込みます。しかし、ロシア軍の焦土作戦とゲリラ戦などを駆使した巧みな攻撃により、大惨敗を喫します。

 同年10月末に撤退を開始しますが、大陸軍の兵士たちは、飢えと強烈な寒気、ロシア軍の攻撃により続々と倒れます。
 ロシア国境までたどり着いた者は全軍の約5分の1、本国に帰還できたフランス兵は出兵時の2パーセント弱、4,5千人すぎなかったといわれます。

 戦争がほぼ終結したころ、 ロシアの捕虜収容所から解放されて、帰国の途についた2人のフランス兵が、この歌の主人公です。ドイツにたどり着いたとき、2人はナポレオンが捕まったという話を聞きます。
 1人は重傷を負っており、もう1人に、自分が死んだらフランスに連れ帰って埋めてくれ。皇帝が復活したら、墓から出て皇帝のために戦うつもりだ、といいます。もう1人が、自分たちが死んだら妻子が心配だというと、瀕死の兵士は、皇帝が捕らわれたのに、妻子の心配などしていられない、乞食にでもなればよい――とすさまじいまでの忠誠心を吐露します。

 この忠誠心は、2人が擲弾兵だったということから生まれたと見てよいでしょう。堀内敬三は、『二人の兵士』という題にしていますが、これだと普通の兵士という印象を受けます。
 一般には『二人の擲弾兵
(てきだんへい)』というタイトルで知られており、原題も"Die beiden Grenadiere" となっています。
 
GrenadiereはGrenade、すなわち「擲弾を投げる者」という意味です。擲弾は火薬を詰めた鉄球で、導火線に火をつけて敵に投げつける武器、要するに手榴弾です。
 余談ですが、元寇のとき元軍が使った「てつはう」も擲弾でした。ただし、鉄球のほか、陶製の球も使われたといわれます。

 ナポレオン戦争のころの擲弾は非常に重く、遠くへ投げられなかったため、敵陣に肉迫して投げる必要がありました。敵陣に接近すればするほど、撃たれる危険性が高まります。
 そのため、擲弾兵には勇猛で体力のある者が選ばれました。つまり、擲弾兵は兵士のなかのエリートだったわけです。擲弾兵はそのことに誇りをもち、周りも敬意を払ったといわれます。
 のちに擲弾は、手投げから射出機で投げる戦法に変わり、擲弾兵という兵科はなくなりますが、勇猛な兵士には擲弾兵という敬称が奉られたといいます。

 エリートとして遇されると、一般の兵士より皇帝への忠誠心が強くなります。ですから、「擲弾兵」というタイトルでないと、この激しい忠誠心には見合わないと思います。

 ナポレオンは軍事独裁者ですが、革命の継承者ないし守護者だったころから、多くの崇拝者がいました。没落してのちも崇拝者はあまり減らなかったといわれます。
 たとえば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』では、ゲーテがナポレオンを盛んに賞賛していたと書かれています。

 また、ベートーベンの交響曲第3番変ホ長調『英雄』がナポレオンに捧げられたことは有名です。
 ただし、ベートーベンが賛美したのは、ナポレオンが、革命をつぶそうとする周辺の王制諸国と戦い続けるとともに、国内の行政制度や教育制度、法律
(ナポレオン法典)などを整備したからです。
 ナポレオンが皇帝に即位したと聞くと、「ヤツも俗物にすぎなかったか」と怒って、献辞が書かれた楽譜の表紙を破り捨てたそうです。

 『二人の擲弾兵』では、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の印象的なメロディが組み込まれ、これが擲弾兵の愛国心・忠誠心を表す効果を上げています。
 ワグナーも『二人の擲弾兵』を作曲していますが、これにも『ラ・マルセイエーズ』の一節が使われています。そのほか、リストの交響詩『英雄の嘆き』や、チャイコフスキーの管弦楽序曲『1812年』、ドビュッシーのピアノ曲『花火』などでも、『ラ・マルセイエーズ』の一部が引用されています。

 『ラ・マルセイエーズ』は名曲だと思いますが、国歌としては長すぎるし、歌詞も血なまぐさいですね。よく言われることですけれども。

(二木紘三)


若者よ恋をしろ

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:関口峭市、作曲:仁木他喜雄、唄:中島 孝

1 若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
  どんなに苦労があったとて
  くよくよするなしわがよる
  泣きっ面には蜂がさす
  笑って生きようぜ
  何がなくてもしわのない
  若さと恋がありゃ
  辛い浮世も 楽しく生きられる
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

2 若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
  どんなに苦労があったとて
  若い時代は二度と来ぬ
  腰が曲がっちゃ仕方がない
  元気で生きるのさ
  若さと恋がありゃ
  此の世に敵はない
  歌と笑顔で楽しく生きられる
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

  どんなに素晴らしい
  此の世の宝より
  素敵な素敵な若さと恋の味
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

《蛇足》昭和29年(1954)7月1日にコロムビアレコードより発売。
 その3日後の7月4日に公開された東映の青春現代劇『若者よ恋をしろ』
(佐伯清監督)の主題歌。

 些末なことですが、Webで見ると、歌・映画ともタイトルの「若者よ」のあとに感嘆符が入っているものといないものとがあります。
 歌については、JASRACのデータベースでは、感嘆符なしが正題となっています。
 映画については、一般社団法人日本映画製作者連盟のデータベースでは、タイトルに感嘆符はついていないし、映画ポスターにもありません。もしかしたら、映画本編のタイトルには感嘆符がついていたのかもしれません。

 「恋をしたいなあ」という声をよく聞きますが、勉強や仕事と違って、恋は「さあやろう」と思ってもできるものではありません。恋は、いつとは知れず、心の中に小さな灯が点ることから始まりますが、その灯を点すのは自分自身です。
 いいかえれば、まず自分が誰かに心をときめかすこと、あるいは憧れることが必要です。誰かが小さな灯を点してくれる
を待っていたのでは、いつまでたっても恋は始まりません。

 実際、青春時代に恋をすると、世の中が違って見えてきます。世界は光に満ち、通行人や木々、草花までが自分に笑いかけているように感じます。
 その代わり、恋を失うと、プラス100点だったものがマイナス100点になってしまいます。合計200点のダメージを受けるわけです。
 若いころは、心の揺れ幅がやたら大きいものです。というか、心の揺れ幅の大きい人生の一時期を"青春"と呼ぶのでしょう。

(二木紘三)

長崎のザボン売り

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、唄:小畑 実

1 鐘が鳴る鳴る マリヤの鐘が
  坂の長崎 ザボン売り
  銀の指輪は どなたの形見
  髪に結んだ リボンも可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

2 風がそよそよ 南の風が
  港長崎 ザボン売り
  呼べば見返る 微笑みかける
  誰も見とれる えくぼの可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

3 星がキラキラ 夕べの星が
  夢の長崎 ザボン売り
  黒い瞳の 夢見る笑顔
  ゆれるランタン 灯影(ほかげ)に可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

《蛇足》昭和23年(1948)4月、キングレコードから発売。『リンゴの唄』『青い山脈』などとともに、戦後を明るくした歌の1つです。
 大ヒットの影響で、東南アジアの果物売り風な"ザボン売り”が長崎の街に現れたという伝説が残っています。

 ザボンは昔、みやげにもらったことがありますが、皮がひどくむきにくかったという印象しか残っていません。ザボン好きの方、ザボン生産者の方、ごめんなさい。

 ザボンの原産地は東南アジア、中国南部、台湾などで、江戸時代初期にポルトガル人や中国人などによって平戸や長崎からも持ち込まれたようです。
 ザボンの語源はポルトガル語のzamboa
(ザンボア)で、これがなまってジャボン→ザボンとなったようです。
 ザボンはまたブンタンとも呼ばれます。こちらは、ザボンを扱った中国人の貿易船主・謝文旦の名前に由来するといわれます。

 都市や都市内の地名を詠み込んだ歌、いわゆるご当地ソングを、ある程度ヒットしたという条件で見てみると、トップの東京、2位の大阪は動かないところですが、3位はどこか考えてみると、どうやら長崎のようです。そのあとに来るのが、横浜、京都、神戸、博多だと思いますが、順位はわかりません。

 大正11年(1922)の『六大都市行政監督ニ関スル法律』で定められた6大都市に、戦後人口増のめざましかった川崎市を加えた7大都市のなかで、ヒット曲の数ではパッとしないのが名古屋と川崎。
 残念ながら、すぐに浮かんでくる歌が1つもありません。詩人の歌心を刺激するものがないのでしょうか。

 敗戦後数年間の長崎についてみてみると、昭和21年(1946)『長崎シャンソン』、同22年(1947)雨のオランダ坂』『長崎エレジー』、同23年(1948)『長崎のザボン売り』、同24年(1949)長崎の鐘』と毎年のようにヒット曲が出ています。
 長い間、異国の文物の流入地だったという歴史によって、歌の世界でも特別なポジションを得ているのでしょうか。

(二木紘三)

小諸なる古城のほとり

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詩:島崎藤村、作曲:弘田龍太郎

     一

小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
(むぎ)の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中(はたなか)の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
  (曲はここまで)

     二

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
(いに)し世を靜かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋(つな)

《蛇足》前半の一の3聯は、 文芸誌『明星』の創刊号(明治33年〈1900〉4月)に『旅情』という題で発表されたのが初出。
 後半二の4聯は、文芸誌『文界』の同年4月号に『一小吟』という題で掲載されたのが初出。

 明治34年(1901)に詩集『落梅集』を刊行した際、『旅情』は『小諸なる古城のほとり』、『一小吟』は『千曲川旅情のうた』(目次には「歌」)とそれぞれ改題して収録されました。
 『千曲川旅情のうた』は、大正6年
(1917)9月刊の改刷版『藤村詩集』では、『千曲川のほとりにて』と改題。

 さらに、昭和2年(1927)年7月発行の自選詩集『藤村詩抄』では、両詩が『千曲川旅情の歌』という一つの詩にまとめられ、それぞれ一と二になりました。

 弘田龍太郎が『小諸なる古城のほとり』に曲をつけたのは、大正14年(1925)8月31日のことです。以後、自然に対する藤村の感性を最大限に表現した名曲は、今日も多くの人たちに愛される歌曲となっています。
 同じ頃、弘田龍太郎は、
『千曲川のほとりにて』、すなわち『千曲川旅情の歌』の二にも曲をつけていますが、こちらはメロディが複雑で歌いにくいせいか、あまり人気が出ませんでした。

 私は少年のころ、『千曲川旅情の歌』では、二の「昨日またかくてありけり……」の聯がいちばん好きでした。
 『千曲川旅情の歌』は、基本的には叙景詩ですが、この聯だけが詩人の心模様を描いています。あくせくしないで、十年一日のごとき人生を送りたいと思っていた私の心にピタッとはまったのです。変化を求めるのが普通の年頃の少年としては、かなり異質ですね。

 藤村は明治32年(1899)、旧知の牧師・木村熊二に招かれて、長野県北佐久郡小諸町の私塾・小諸義塾(のちに旧制中学校)に国語と英語の教師として赴任します。
 この時代に、佐久一帯を歩き回り、そこで見聞きした自然や人びとの生活を文章にしたのが、エッセイの傑作『千曲川のスケッチ』です。

 『千曲川のスケッチ』で文章を書くおもしろさに目が開かれたのでしょうか。藤村は詩を捨てて小説へ進むことを決意します。そうして書き始めたのが、『破戒』です。
 この執筆に専念するために、藤村は教師を辞して、東京に出ます。
従来の出版社と著者との関係に疑問を持っていた藤村は、自費出版で完成した小説を世に問う決意をします。

 しかし、もともと薄給の教師だったので、ほとんど貯えがなく、自費出版の費用どころか、生活費にも事欠く状態でした。
 けっきょく、函館にいる妻冬子の父と、小諸時代に親しくなった若い大地主・神津猛の援助で、ようやく出版することができました。

 結果は大成功で、自然主義文学の傑作という評価を受け、ベストセラーになりました。以後、藤村は大作家への道を着々と歩むことになります。
 しかし、『破戒』が成功するまでの生活は悲惨で、その日の食事にも困るような状態でした。そのためか、幼い3人の娘を栄養失調で亡くしています。
 詩人や作家の妻
(夫も)になる人は、相当の覚悟が必要ですね。

(二木紘三)

草笛の丘

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎、唄:三橋美智也

1 夕風そよぐ 丘に来て
  草笛吹けば 涙がにじむ
  ああ 思い出の 径(みち)に咲く
  花はりんどう 君恋し

2 仰げば淋し 山脈(やまなみ)
  浮雲ひとつ なぜなぜ遠い
  ああ 帰り来ぬ しあわせを
  偲ぶ心よ 君恋し

3 ひとりで摘めば りんどうの
  花にも哀し 涙がにじむ
  ああ 思い出の 丘に来て
  鳴らす草笛 君恋し

《蛇足》昭和33年(1958)キングより発売。

 ミリオンセラーが30曲(民謡を含む)という三橋美智也の持ち歌のなかでは、売り上げ数は中位にとどまりますが、それでも数十万枚(正確な数は不明)を売り上げたヒット曲です。

 ほかのところでも述べましたが、三橋美智也の生涯のレコード売り上げ数は1億600万枚で、この記録はいまだに破られていません。ちなみに、平成27年(2015)の時点で、CDの総売り上げ数日本一はB'zで、8148万枚。
 もっとも、曲の販売は、今後は、ネットでのダウンロード販売やストリーミング視聴に移るので、旧メディアとの売り上げ比較は、あまり意味がなくなるかもしれません。

 この歌もそうですが、戦前から昭和30年代初めまでの歌謡曲には、りんどうがよく出てきます。メロドラマ風の歌詞では、必須アイテムといえましょうか。たとえば――

純情二重奏』――君もわたしもみなし子の/ふたり寄り添い竜胆(りんどう)摘めど……
高原の宿』――風にもだえて夜露に濡れて/丘のりんどう何なげく……
十代の恋よさようなら』――恋の名残かむらさきの/りんどう風に散る夜は……
りんどうの花咲けば』――りんどうの花ほの揺れて/君のうなじも白かった……

 りんどうに白樺が加われば、メロドラマ曲としては最強で、この2つが出てくるのが、
月よりの使者』――白樺ゆれる高原に/りんどう咲いて恋を知る……

 子どものころ、ラジオから流れてくるりんどうや白樺が入った歌を聴いて、恋などというものは知らないながらも、なんとなくロマンチックな雰囲気を感じとったものでした。

(二木紘三)

花はどこへ行った

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:Pete Seeger、補作詞:Joe Hickerson、
日本語詞:おおたたかし、唄:キングストン・トリオ他

1 野に咲く花は どこへ行く
  野に咲く花は 清らか
  野に咲く花は 少女(おとめ)の胸に
  そっとやさしく 抱(いだ)かれる

2 かわいい少女は どこへ行く
  かわいい少女は ほほえむ
  かわいい少女は 若者の胸に
  恋の心 あずけるのさ  

3 その若者は どこへ行く
  その若者は 勇んで
  その若者は 戦いに行く
  力強く 別れを告げ

4 戦い終わり どこへ行く
  戦い終わり 静かに
  戦い終わり 土に眠る
  やすらかなる 眠りにつく

5 戦士の眠る その土に
  野ばらがそっと 咲いてた
  野ばらはいつか 少女の胸に
  そっと優しく 抱かれる

Where Have All the Flowers Gone

1. Where have all the flowers gone?
   Long time passing
   Where have all the flowers gone?
   Long time ago
   Where have all the flowers gone?
   Girls have picked them every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

2. Where have all the young girls gone?
   Long time passing
   Where have all the young girls gone?
   Long time ago
   Where have all the young girls gone?
   Taken husbands every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

3. Where have all the young men gone?
   Long time passing
   Where have all the young men gone?
   Long time ago
   Where have all the young men gone?
   Gone for soldiers every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

4. Where have all the soldiers gone?
   Long time passing
   Where have all the soldiers gone?
   Long time ago
   Where have all the soldiers gone?
   Gone to graveyards every one
   When will they ever learn? 
  When will they ever learn?

5. Where have all the graveyards gone?
   Long time passing
   Where have all the graveyards gone?
   Long time ago
   Where have all the graveyards gone?
   Covered with flowers every one
   When will we ever learn?
   When will we ever learn?

《蛇足》アメリカのプロテスト・ソングないしメッセージ・フォークの旗手だったピート・シーガー(Pete Seeger、1919年5月3日~2014年1月27日)が、1955年に発表した反戦歌。

 このときは3番まででしたが、最初の録音を聴いて感動したフォーク・シンガーのジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson、1935年10月20日~)が2聯付け加え、5番までとしました。これにより、戦争批判の色彩が一段と濃くなりました。

 このころ、インドシナ半島東部、いわゆる仏印を植民地としていたフランスが、ソ連・中国の支援を受けたヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)との戦いに敗れて撤退していました(『兵隊が戦争に行くとき』参照)

 ヴェトナムは南北に分断され、北ヴェトナムはヴェトナム民主共和国として独立します。共産主義の浸透を恐れたアメリカは、南ヴェトナムに傀儡政権を作り、北ヴェトナムおよび南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン)との戦いに介入します。凄惨な戦いが続いた末、1975年4月30日に北側の全面的勝利で終わりました。

 『花はどこへ行った』は、フランスとアメリカによる「インドシナ戦争」を隠喩的に批判したものですが、底流しているのは、いつまでたっても戦争をやめられない人類への嘆きといっていいでしょう。

 少女たちは花を摘み、結婚し、その夫たちを含めて若い男たちは戦争に行って死に、彼らを葬った墓は草花に覆われてわからなくなり、その花を少女たちが摘み、結婚し、夫たちは戦場へ……と螺旋状に無限に続く人類の営み。

 各聯の末尾で繰り返される When will they ever learn?(いつになったら彼らは学ぶのだろうか)は、こうした愚かさをストレートに嘆いたフレーズです。theyはいうまでもなくweです。我々はいったい、いつになったら学ぶのでしょうか。
 人類が同類殺しを始めてから何万年経つかわかりませんが、今日まで戦争が絶えた時代のないことを考えると、もしかしたら答えはないかもしれません。諦めてはだめだということはわかっているのですが。

 ところで、ピート・シーガーは、フーガのようなこの歌詞のヒントを、ロシアのノーベル賞作家ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(Михаил Александрович Шолохов、1905年5月24日 〈当時のユリウス暦では11日〉~1984年2月21日)の作品『静かなドン』から得たようです。

 『静かなドン』は、第一次世界大戦とそれに続くロシア革命の大動乱時代に、運命に翻弄されるドン・コサックを描いた大河小説ですが、その初めのほうに次のような箇所があります。

 主人公のグリゴーリーが夜遊びから帰ってくると、兄嫁のダーリヤがぐずる赤ん坊を寝かしつけるために、コサックの古い歌を歌います。間に挟まっている文章を除いて歌詞だけを書き出すと、次のようになります。

ねんねんよ、おころりよ
おまえはどこへいきました?
お馬の番に行きました
どんなおうまの番をしに?
金でかざった鞍おいた
お馬の番にゆきました……

おまえのお馬はどこへ行(い)た?
ご門の外に立ってます
それじゃあご門はどこへ行た?
水が流してゆきました

それじゃあがちょうはどこへ行た?
あしのしげみに逃げて行た
それじゃああしはどこへ行た?
むすめが刈ってゆきました

それじゃあむすめはどこへ行た?
むすめは嫁にゆきました
それじゃあコサックはどこへ行た?
戦さにでかけていきました……
(横田瑞穂訳 河出書房 昭和42年〈1967〉初版)

 『花はどこへ行った』が世界に広まるきっかけとなったのは、キングストン・トリオが1961年にリリースしたレコードです。その後、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、マレーネ・ディートリヒ、ジョーン・バエズなど名だたる歌手・グループが次々とカバーして反戦ソングの定番となりました。

 日本では、フォーク・グループ、ザ・リガニーズが、おおたたかしの日本語詞で昭和41年(1966)に発表したのが最初とされています。
 その後、ザ・ピーナッツ、梓みちよ、倍賞千恵子、加藤登紀子、フォーク・クルセダーズなど数多くの歌手・グループがカバーしていますが、そのほとんどがおおたたかしの日本語詞で、もしくはその一部を変えた歌詞で歌っています。

(二木紘三)

憧れのハワイ航路

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、唄:岡 晴夫

1 晴れた空 そよぐ風
  港出船の ドラの音(ね)(たの)
  別れテープを 笑顔で切れば
  希望(のぞみ)はてない 遥かな潮路
  ああ 憧れの ハワイ航路

2 波の背を バラ色に
  染めて真赤な 夕陽が沈む
  一人デッキで ウクレレ弾けば
  歌もなつかし あのアロハオエ
  ああ 憧れの ハワイ航路

3 常夏(とこなつ)の 黄金月
  夜のキャビンの 小窓を照す
  夢も通うよ あのホノルルの
  椰子の並木路(じ) ホワイトホテル
  ああ 憧れの ハワイ航路

《蛇足》昭和23年(1948)10月にキングレコードより発売。
 オカッパルこと岡晴夫は、前年1月発売の『啼くな小鳩よ』に続く大ヒットで、スター歌手の地位を不動のものにしました。

 昭和21年(1946)から数年間に、アメリカないしその文物への憧れを歌った歌がいくつも発表されました。『ジープは走る』や『アメリカ通いの白い船』などで、『憧れのハワイ航路』もそうした歌の1つです。
 明るく快調なメロディで、"未知のパラダイス"ハワイへの憧れをかき立てました。

 この時代から昭和38年(1963)3月まで、ドル流出を防ぐため、ビジネスや視察、留学といった明確な目的がなければ、海外旅行は許可されませんでした。
 同年4月に一部緩和されましたが、一般の市民が観光で海外に行けるようになったのは、昭和39年
(1964)4月以降です。
 しかし、持ち出せる外貨は500ドルまで。1ドル360円の時代ですから、18万円までということになります。

 『憧れのハワイ航路』は、昭和25年(1950)に新東宝が同名で映画化しました。斎藤寅次郎監督で、岡晴夫が岡田秋夫という名前の主役を務めました。そのほか、美空ひばり、花菱アチャコ、古川緑波など、この時代について記憶している人には懐かしい名前が並んでいます。

 題名からして、ハワイが出てくるかと思われますが、舞台は東京の下町で、主役がハワイ生まれというだけ。アメリカの観光映画からとったらしい映像が、あまり意味のない場所に挿入されています。
 前述したような理由で、ハワイロケは無理だったのでしょう。

 ところで、客船が出航するときに紙テープを投げる風習は、日系アメリカ人が考えたものだそうです。
 1915年のサンフランシスコ万博に、東京日本橋の笠居株式会社が商品ラッピング用の紙テープを出品しました。しかし、アメリカアではすでに布テープが普及していたために、まったく売れませんでした。

 その窮地を見かねたのが、サンフランシスコで近江屋商店というデパートを経営していた日系移民の森野庄吉。彼は、テープの在庫を安く買い取り、港に持っていって、「送る人と送られる人が、このテープで別れの最後の握手をしませんか」と呼びかけたところ、買い求める人が続出しました。
 これが欧米など各国に広まったといわれます
(杉浦昭典著『海の慣習と伝説』舵社 1983年)

 当初は、見送り人が岸壁から船上目がけて投げていましたが、届きにくいというので、船客から見送り人に投げる方式に変わりました。
 しかし、この風習は、欧米では廃れ、現在は日本でしか行われていないもようです。それも、ツァー会社もしくはクルーズ船が企画したときにだけ行われるようです。
 テープ投げは、海を汚すというので、規制されたときもあったようですが、今は水に溶けるテープが使われており、とくに問題はないようです。

(二木紘三)

バラ色の雲

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:橋本 淳、作曲:筒美京平、唄:ヴィレッジ・シンガーズ

バラ色の雲と 思い出をだいて
ぼくは行きたい 君のふるさとへ
野菊をかざった 小舟のかげで
くちづけ交した 海辺の町へ

初めて見つけた 恋のよろこび
君はやさしく 涙をふいていた
バラ色の雲と 思い出をだいて
逢いに行きたい 海辺の町へ

初めて見つけた 恋のよろこび
君はやさしく 涙をふいていた
バラ色の雲と 思い出をだいて
逢いに行きたい 海辺の町へ

逢いに行きたい 海辺の町へ

《蛇足》昭和42年(1967)8月1日に日本コロムビアから発売。レーベルはCBSコロムビア。B面は『輝く星』でした。
 非公式チャートですが、
オリコンで最高2位につけ、60万枚を売り上げるヒットとなりました。

 ヴィレッジ・シンガーズは、昭和42年(1967)前半から2年間ほど、若者たちを熱狂させた、いわゆるGS(グループ・サウンズ)の1つ。
 このころ、長髪やエレキギターは不良の印ということで、大人社会からの風当たりが強く、GSのコンサートに行くことを禁止する中学校や高校が数多くありました。

 そのなかにあって、ヴィレッジ・シンガーズや、その先輩格のジャッキー吉川とブルー・コメッツは、短髪にスーツ・ネクタイ姿で演奏したため、大人たちの受けは比較的よかったようです。

 この曲の出だし、前年に発売されて大ヒットとなった西郷輝彦の『星のフラメンコ』(作詞・作曲:浜口庫之助)に似ているような気がします。メロディの一部が他の曲に似ている例は多く、だからどうということはありませんが。

(二木紘三)


二人の兵士(擲弾兵)

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作詩:ハインリッヒ・ハイネ、作曲:ロベルト・シューマン、日本語詞:堀内敬三

つめたき 囚獄(ひとや)いでて
帰る兵士 二人、
故郷(ふるさと) 近づきしころ、
いたみし心に
国の便りと聞きしは
「フランスついに敗れ
大軍崩れ 今は はた
皇帝 捕われし」と。
悲しき便り 聞きて
涙せし二人、
語りつ

「死は近し、かくも 傷うずくは。」
答えつ
「こと やみぬ。
死も 今 いとわじ。
されども 妻子(つまこ)
いかになすべき。」
「うれいそ、妻子を。
われら死にて後(のち)
乞食(こつじき)とならばなれ、
皇帝、捕らわれしを。

わが語るをきけ。
われ 今 死せば
わが屍(かばね)たずさえて
フランスの地に埋めよ。
名誉の十字をば
わが胸にかけ、
(つつ)をわが腕に
剣を腰に。

かくてわれ 墓より
祖国をば 護らん、
砲音(つつおと)やおたけびの
またもひびく日まで。
やがて皇帝 かえりて
わが墓の上に
軍勢 つどわん時
墓をいでて 起たんかな
わが皇帝のために。」

     Die beiden Grenadiere

Nach Frankreich zogen zwei Grenadier',
Die waren in Rußland gefangen.
Und als sie kamen ins deutsche Quartier,
Sie ließen die Köpfe hangen.

Da hörten sie beide die traurige Mär:
Daß Frankreich verloren gegangen,
Besiegt und zerschlagen das tapfere Heer,-
Und der Kaiser, der Kaiser gefangen.

Da weinten zusammen die Grenadier'
Wohl ob der kläglichen Kunde.
Der eine sprach: Wie weh wird mir,
Wie brennt meine alte Wunde!

Der andre sprach: Das Lied ist aus,
Auch ich möcht mit dir sterben,
Doch hab’ ich Weib und Kind zu Haus,
Die ohne mich verderben.

Was schert mich Weib, was schert mich Kind?
Ich trage weit bess’res Verlangen;
Lass sie betteln gehn, wenn sie hungrig sind,-
Mein Kaiser, mein Kaiser gefangen!

Gewähr' mir, Bruder, eine Bitt':
Wenn ich jetzt sterben werde,
So nimm meine Leiche nach Frankreich mit,
Begrab’ mich in Frankreichs Erde.

Das Ehrenkreuz am rothen Band
Sollst du aufs Herz mir legen;
Die Flinte gib mir in die Hand,
Und gürt’ mir um den Degen.

So will ich liegen und horchen still
Wie eine Schildwacht, im Grabe,
Bis einst ich höre Kanonengebrüll
Und wiehernder Rosse Getrabe.

Dann reitet mein Kaiser wohl über mein Grab,
Viel Schwerter klirren und blitzen;
Dann steig'ich gewaffnet hervor aus dem Grab,-
Den Kaiser, den Kaiser zu schützen.

《蛇足》 1820年にハイネが作った詩に、1840年にシューマンが作曲した作品。『ロマンツェとバラーデ、第二集(Romanzen und Balladen Heft 2)』の最初の曲(作品番号49)です。

 作品の舞台は、1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻と敗退。
 同年6月24日、ナポレオンが率いる約60万人の大陸軍
(フランス、およびその従属国と同盟国の軍隊)がロシアに攻め込みます。しかし、ロシア軍の焦土作戦とゲリラ戦などを駆使した巧みな攻撃により、大敗を喫します。

 同年10月末に撤退を開始しますが、大陸軍の兵士たちは、飢えと強烈な寒気、ロシア軍の攻撃により続々と倒れます。
 ロシア国境までたどり着いた者は全軍の約5分の1、本国に帰還できたフランス兵は出兵時の2パーセント弱、4,5千人すぎなかったといわれます。

 戦争がほぼ終結したころ、 ロシアの捕虜収容所から解放されて、帰国の途についた2人のフランス兵が、この歌の主人公です。ドイツにたどり着いたとき、2人はナポレオンが捕まったという話を聞きます。
 1人は重傷を負っており、もう1人に、自分が死んだらフランスに連れ帰って埋めてくれ。皇帝が復活したら、墓から出て皇帝のために戦うつもりだ、といいます。もう1人が、自分たちが死んだら妻子が心配だというと、瀕死の兵士は、皇帝が捕らわれたのに、妻子の心配などしていられない、乞食にでもなればよい――とすさまじいまでの忠誠心を吐露します。

 この忠誠心は、2人が擲弾兵だったということから生まれたと見てよいでしょう。堀内敬三は、『二人の兵士』という題にしていますが、これだと普通の兵士という印象を受けます。
 一般には『二人の擲弾兵
(てきだんへい)』というタイトルで知られています。ハイネの原詩では、"Die Grenadiere"ですが、曲をつけた際にbeidenが挿入されて"Die beiden Grenadiere" となったようです。
 
GrenadiereはGrenade、すなわち「擲弾を投げる者」という意味です。擲弾は火薬を詰めた鉄球で、導火線に火をつけて敵に投げつける武器、要するに手榴弾です。
 余談ですが、元寇のとき元軍が使った「てつはう」も擲弾でした。ただし、鉄球のほか、陶製の球も使われたといわれます。

 ナポレオン戦争のころの擲弾は非常に重く、遠くへ投げられなかったため、敵陣に肉迫して投げる必要がありました。敵陣に接近すればするほど、撃たれる危険性が高まります。
 そのため、擲弾兵には勇猛で体力のある者が選ばれました。つまり、擲弾兵は兵士のなかのエリートだったわけです。擲弾兵はそのことに誇りをもち、周りも敬意を払ったといわれます。
 のちに擲弾は、手投げから射出機で投げる戦法に変わり、擲弾兵という兵科はなくなりますが、勇猛な兵士には擲弾兵という敬称が奉られたといいます。

 エリートとして遇されると、一般の兵士より皇帝への忠誠心が強くなります。ですから、「擲弾兵」というタイトルでないと、この激しい忠誠心には見合わないと思います。

 ナポレオンは軍事独裁者ですが、革命の継承者ないし守護者だったころから、多くの崇拝者がいました。没落してのちも崇拝者はあまり減らなかったといわれます。
 たとえば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』では、ゲーテがナポレオンを盛んに賞賛していたと書かれています。

 また、ベートーベンの交響曲第3番変ホ長調『英雄』がナポレオンに捧げられたことは有名です。
 ただし、ベートーベンが賛美したのは、ナポレオンが、革命をつぶそうとする周辺の王制諸国と戦い続けるとともに、国内の行政制度や教育制度、法律
(ナポレオン法典)などを整備したからです。
 ナポレオンが皇帝に即位したと聞くと、「ヤツも俗物にすぎなかったか」と怒って、献辞が書かれた楽譜の表紙を破り捨てたそうです。

 『二人の擲弾兵』では、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の印象的なメロディが組み込まれ、これが擲弾兵の愛国心・忠誠心を表す効果を上げています。
 ワグナーも『二人の擲弾兵』を作曲していますが、これにも『ラ・マルセイエーズ』の一節が使われています。そのほか、リストの交響詩『英雄の嘆き』や、チャイコフスキーの管弦楽序曲『1812年』、ドビュッシーのピアノ曲『花火』などでも、『ラ・マルセイエーズ』の一部が引用されています。

 『ラ・マルセイエーズ』は名曲だと思いますが、国歌としては長すぎるし、歌詞も血なまぐさいですね。よく言われることですけれども。

(二木紘三)

若者よ恋をしろ

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作詞:関口峭市、作曲:仁木他喜雄、唄:中島 孝

1 若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
  どんなに苦労があったとて
  くよくよするなしわがよる
  泣きっ面には蜂がさす
  笑って生きようぜ
  何がなくてもしわのない
  若さと恋がありゃ
  辛い浮世も 楽しく生きられる
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

2 若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
  どんなに苦労があったとて
  若い時代は二度と来ぬ
  腰が曲がっちゃ仕方がない
  元気で生きるのさ
  若さと恋がありゃ
  此の世に敵はない
  歌と笑顔で楽しく生きられる
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

  どんなに素晴らしい
  此の世の宝より
  素敵な素敵な若さと恋の味
  若者よ 恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

《蛇足》昭和29年(1954)7月1日にコロムビアレコードより発売。
 その3日後の7月4日に公開された東映の青春現代劇『若者よ恋をしろ』
(佐伯清監督)の主題歌。

 些末なことですが、Webで見ると、歌・映画ともタイトルの「若者よ」のあとに感嘆符が入っているものといないものとがあります。
 歌については、JASRACのデータベースでは、感嘆符なしが正題となっています。
 映画については、一般社団法人日本映画製作者連盟のデータベースでは、タイトルに感嘆符はついていないし、映画ポスターにもありません。もしかしたら、映画本編のタイトルには感嘆符がついていたのかもしれません。

 「恋をしたいなあ」という声をよく聞きますが、勉強や仕事と違って、恋は「さあやろう」と思ってもできるものではありません。恋は、いつとは知れず、心の中に小さな灯が点ることから始まりますが、その灯を点すのは自分自身です。
 いいかえれば、まず自分が誰かに心をときめかすこと、あるいは憧れることが必要です。誰かが小さな灯を点してくれる
を待っていたのでは、いつまでたっても恋は始まりません。

 実際、青春時代に恋をすると、世の中が違って見えてきます。世界は光に満ち、通行人や木々、草花までが自分に笑いかけているように感じます。
 その代わり、恋を失うと、プラス100点だったものがマイナス100点になってしまいます。合計200点のダメージを受けるわけです。
 若いころは、心の揺れ幅がやたら大きいものです。というか、心の揺れ幅の大きい人生の一時期を"青春"と呼ぶのでしょう。

(二木紘三)

長崎のザボン売り

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作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、唄:小畑 実

1 鐘が鳴る鳴る マリヤの鐘が
  坂の長崎 ザボン売り
  銀の指輪は どなたの形見
  髪に結んだ リボンも可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

2 風がそよそよ 南の風が
  港長崎 ザボン売り
  呼べば見返る 微笑みかける
  誰も見とれる えくぼの可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

3 星がキラキラ 夕べの星が
  夢の長崎 ザボン売り
  黒い瞳の 夢見る笑顔
  ゆれるランタン 灯影(ほかげ)に可愛い
  可愛い娘
  ああ 長崎のザボン売り

《蛇足》昭和23年(1948)4月、キングレコードから発売。『リンゴの唄』『青い山脈』などとともに、戦後を明るくした歌の1つです。
 大ヒットの影響で、東南アジアの果物売り風な"ザボン売り”が長崎の街に現れたという伝説が残っています。

 ザボンは昔、みやげにもらったことがありますが、皮がひどくむきにくかったという印象しか残っていません。ザボン好きの方、ザボン生産者の方、ごめんなさい。

 ザボンの原産地は東南アジア、中国南部、台湾などで、江戸時代初期にポルトガル人や中国人などによって平戸や長崎からも持ち込まれたようです。
 ザボンの語源はポルトガル語のzamboa
(ザンボア)で、これがなまってジャボン→ザボンとなったようです。
 ザボンはまたブンタンとも呼ばれます。こちらは、ザボンを扱った中国人の貿易船主・謝文旦の名前に由来するといわれます。

 都市や都市内の地名を詠み込んだ歌、いわゆるご当地ソングを、ある程度ヒットしたという条件で見てみると、トップの東京、2位の大阪は動かないところですが、3位はどこか考えてみると、どうやら長崎のようです。そのあとに来るのが、横浜、京都、神戸、博多だと思いますが、順位はわかりません。

 大正11年(1922)の『六大都市行政監督ニ関スル法律』で定められた6大都市に、戦後人口増のめざましかった川崎市を加えた7大都市のなかで、ヒット曲の数ではパッとしないのが名古屋と川崎。
 残念ながら、すぐに浮かんでくる歌が1つもありません。詩人の歌心を刺激するものがないのでしょうか。

 敗戦後数年間の長崎についてみてみると、昭和21年(1946)『長崎シャンソン』、同22年(1947)雨のオランダ坂』『長崎エレジー』、同23年(1948)『長崎のザボン売り』、同24年(1949)長崎の鐘』と毎年のようにヒット曲が出ています。
 長い間、異国の文物の流入地だったという歴史によって、歌の世界でも特別なポジションを得ているのでしょうか。

(二木紘三)

小諸なる古城のほとり

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作詩:島崎藤村、作曲:弘田龍太郎

     一

小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
(むぎ)の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中(はたなか)の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
  (曲はここまで)

     二

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
(いに)し世を靜かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋(つな)

《蛇足》前半の一の3聯は、 文芸誌『明星』の創刊号(明治33年〈1900〉4月)に『旅情』という題で発表されたのが初出。
 後半二の4聯は、文芸誌『文界』の同年4月号に『一小吟』という題で掲載されたのが初出。

 明治34年(1901)に詩集『落梅集』を刊行した際、『旅情』は『小諸なる古城のほとり』、『一小吟』は『千曲川旅情のうた』(目次には「歌」)とそれぞれ改題して収録されました。
 『千曲川旅情のうた』は、大正6年
(1917)9月刊の改刷版『藤村詩集』では、『千曲川のほとりにて』と改題。

 さらに、昭和2年(1927)年7月発行の自選詩集『藤村詩抄』では、両詩が『千曲川旅情の歌』という一つの詩にまとめられ、それぞれ一と二になりました。

 弘田龍太郎が『小諸なる古城のほとり』に曲をつけたのは、大正14年(1925)8月31日のことです。以後、自然に対する藤村の感性を最大限に表現した名曲は、今日も多くの人たちに愛される歌曲となっています。
 同じ頃、弘田龍太郎は、
『千曲川のほとりにて』、すなわち『千曲川旅情の歌』の二にも曲をつけていますが、こちらはメロディが複雑で歌いにくいせいか、あまり人気が出ませんでした。

 私は少年のころ、『千曲川旅情の歌』では、二の「昨日またかくてありけり……」の聯がいちばん好きでした。
 『千曲川旅情の歌』は、基本的には叙景詩ですが、この聯だけが詩人の心模様を描いています。あくせくしないで、十年一日のごとき人生を送りたいと思っていた私の心にピタッとはまったのです。変化を求めるのが普通の年頃の少年としては、かなり異質ですね。

 藤村は明治32年(1899)、旧知の牧師・木村熊二に招かれて、長野県北佐久郡小諸町の私塾・小諸義塾(のちに旧制中学校)に国語と英語の教師として赴任します。
 この時代に、佐久一帯を歩き回り、そこで見聞きした自然や人びとの生活を文章にしたのが、エッセイの傑作『千曲川のスケッチ』です。

 『千曲川のスケッチ』で文章を書くおもしろさに目が開かれたのでしょうか。藤村は詩を捨てて小説へ進むことを決意します。そうして書き始めたのが、『破戒』です。
 この執筆に専念するために、藤村は教師を辞して、東京に出ます。
従来の出版社と著者との関係に疑問を持っていた藤村は、自費出版で完成した小説を世に問う決意をします。

 しかし、もともと薄給の教師だったので、ほとんど貯えがなく、自費出版の費用どころか、生活費にも事欠く状態でした。
 けっきょく、函館にいる妻冬子の父と、小諸時代に親しくなった若い大地主・神津猛の援助で、ようやく出版することができました。

 結果は大成功で、自然主義文学の傑作という評価を受け、ベストセラーになりました。以後、藤村は大作家への道を着々と歩むことになります。
 しかし、『破戒』が成功するまでの生活は悲惨で、その日の食事にも困るような状態でした。そのためか、幼い3人の娘を栄養失調で亡くしています。
 詩人や作家の妻
(夫も)になる人は、相当の覚悟が必要ですね。

(二木紘三)

草笛の丘

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作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎、唄:三橋美智也

1 夕風そよぐ 丘に来て
  草笛吹けば 涙がにじむ
  ああ 思い出の 径(みち)に咲く
  花はりんどう 君恋し

2 仰げば淋し 山脈(やまなみ)
  浮雲ひとつ なぜなぜ遠い
  ああ 帰り来ぬ しあわせを
  偲ぶ心よ 君恋し

3 ひとりで摘めば りんどうの
  花にも哀し 涙がにじむ
  ああ 思い出の 丘に来て
  鳴らす草笛 君恋し

《蛇足》昭和33年(1958)キングより発売。

 ミリオンセラーが30曲(民謡を含む)という三橋美智也の持ち歌のなかでは、売り上げ数は中位にとどまりますが、それでも何万枚(正確な数は不明)かを売り上げたヒット曲です。

 ほかのところでも述べましたが、三橋美智也の生涯のレコード売り上げ数は1億600万枚で、この記録はいまだに破られていません。ちなみに、平成27年(2015)の時点で、CDの総売り上げ数日本一はB'zで、8148万枚。
 もっとも、曲の販売は、今後は、ネットでのダウンロード販売やストリーミング視聴に移るので、旧メディアとの売り上げ比較は、あまり意味がなくなるかもしれません。

 この歌もそうですが、戦前から昭和30年代初めまでの歌謡曲には、りんどうがよく出てきます。メロドラマ風の歌詞では、必須アイテムといえましょうか。たとえば――

純情二重奏』――君もわたしもみなし子の/ふたり寄り添い竜胆(りんどう)摘めど……
高原の宿』――風にもだえて夜露に濡れて/丘のりんどう何なげく……
十代の恋よさようなら』――恋の名残かむらさきの/りんどう風に散る夜は……
りんどうの花咲けば』――りんどうの花ほの揺れて/君のうなじも白かった……

 りんどうに白樺が加われば、メロドラマ曲としては最強で、この2つが出てくるのが、
月よりの使者』――白樺ゆれる高原に/りんどう咲いて恋を知る……

 子どものころ、ラジオから流れてくるりんどうや白樺が入った歌を聴いて、恋などというものは知らないながらも、なんとなくロマンチックな雰囲気を感じとったものでした。

(二木紘三)

花はどこへ行った

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:Pete Seeger、補作詞:Joe Hickerson、
日本語詞:おおたたかし、唄:キングストン・トリオ他

1 野に咲く花は どこへ行く
  野に咲く花は 清らか
  野に咲く花は 少女(おとめ)の胸に
  そっとやさしく 抱(いだ)かれる

2 かわいい少女は どこへ行く
  かわいい少女は ほほえむ
  かわいい少女は 若者の胸に
  恋の心 あずけるのさ  

3 その若者は どこへ行く
  その若者は 勇んで
  その若者は 戦いに行く
  力強く 別れを告げ

4 戦い終わり どこへ行く
  戦い終わり 静かに
  戦い終わり 土に眠る
  やすらかなる 眠りにつく

5 戦士の眠る その土に
  野ばらがそっと 咲いてた
  野ばらはいつか 少女の胸に
  そっと優しく 抱かれる

Where Have All the Flowers Gone

1. Where have all the flowers gone?
   Long time passing
   Where have all the flowers gone?
   Long time ago
   Where have all the flowers gone?
   Girls have picked them every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

2. Where have all the young girls gone?
   Long time passing
   Where have all the young girls gone?
   Long time ago
   Where have all the young girls gone?
   Taken husbands every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

3. Where have all the young men gone?
   Long time passing
   Where have all the young men gone?
   Long time ago
   Where have all the young men gone?
   Gone for soldiers every one
   When will they ever learn?
   When will they ever learn?

4. Where have all the soldiers gone?
   Long time passing
   Where have all the soldiers gone?
   Long time ago
   Where have all the soldiers gone?
   Gone to graveyards every one
   When will they ever learn? 
  When will they ever learn?

5. Where have all the graveyards gone?
   Long time passing
   Where have all the graveyards gone?
   Long time ago
   Where have all the graveyards gone?
   Covered with flowers every one
   When will we ever learn?
   When will we ever learn?

《蛇足》アメリカのプロテスト・ソングないしメッセージ・フォークの旗手だったピート・シーガー(Pete Seeger、1919年5月3日~2014年1月27日)が、1955年に発表した反戦歌。

 このときは3番まででしたが、最初の録音を聴いて感動したフォーク・シンガーのジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson、1935年10月20日~)が2聯付け加え、5番までとしました。これにより、戦争批判の色彩が一段と濃くなりました。

 このころ、インドシナ半島東部、いわゆる仏印を植民地としていたフランスが、ソ連・中国の支援を受けたヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)との戦いに敗れて撤退していました(『兵隊が戦争に行くとき』参照)

 ヴェトナムは南北に分断され、北ヴェトナムはヴェトナム民主共和国として独立します。共産主義の浸透を恐れたアメリカは、南ヴェトナムに傀儡政権を作り、北ヴェトナムおよび南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン)との戦いに介入します。凄惨な戦いが続いた末、1975年4月30日に北側の全面的勝利で終わりました。

 『花はどこへ行った』は、フランスとアメリカによる「インドシナ戦争」を隠喩的に批判したものですが、底流しているのは、いつまでたっても戦争をやめられない人類への嘆きといっていいでしょう。

 少女たちは花を摘み、結婚し、その夫たちを含めて若い男たちは戦争に行って死に、彼らを葬った墓は草花に覆われてわからなくなり、その花を少女たちが摘み、結婚し、夫たちは戦場へ……と螺旋状に無限に続く人類の営み。

 各聯の末尾で繰り返される When will they ever learn?(いつになったら彼らは学ぶのだろうか)は、こうした愚かさをストレートに嘆いたフレーズです。theyはいうまでもなくweです。我々はいったい、いつになったら学ぶのでしょうか。
 人類が同類殺しを始めてから何万年経つかわかりませんが、今日まで戦争が絶えた時代のないことを考えると、もしかしたら答えはないかもしれません。諦めてはだめだということはわかっているのですが。

 ところで、ピート・シーガーは、フーガのようなこの歌詞のヒントを、ロシアのノーベル賞作家ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(Михаил Александрович Шолохов、1905年5月24日〈当時のユリウス暦では11日〉~1984年2月21日)の作品『静かなドン』から得たようです。

 『静かなドン』は、第一次世界大戦とそれに続くロシア革命の大動乱時代に、運命に翻弄されるドン・コサックを描いた大河小説ですが、その初めのほうに次のような箇所があります。

 主人公のグリゴーリーが夜遊びから帰ってくると、兄嫁のダーリヤがぐずる赤ん坊を寝かしつけるために、コサックの古い歌を歌います。間に挟まっている文章を除いて歌詞だけを書き出すと、次のようになります。

ねんねんよ、おころりよ
おまえはどこへいきました?
お馬の番に行きました
どんなおうまの番をしに?
金でかざった鞍おいた
お馬の番にゆきました……

おまえのお馬はどこへ行(い)た?
ご門の外に立ってます
それじゃあご門はどこへ行た?
水が流してゆきました

それじゃあがちょうはどこへ行た?
あしのしげみに逃げて行た
それじゃああしはどこへ行た?
むすめが刈ってゆきました

それじゃあむすめはどこへ行た?
むすめは嫁にゆきました
それじゃあコサックはどこへ行た?
戦さにでかけていきました……
(横田瑞穂訳 河出書房 昭和42年〈1967〉初版)

 『花はどこへ行った』が世界に広まるきっかけとなったのは、キングストン・トリオが1961年にリリースしたレコードです。その後、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、マレーネ・ディートリヒ、ジョーン・バエズなど名だたる歌手・グループが次々とカバーして反戦ソングの定番となりました。

 日本では、昭和39年(1964)から、デュークエイセス、園まり、中原美紗緒、牧秀夫とロス・フラミンゴス、梓みちよ、ザ・ピーナッツなどがレコードを発売しています。
 その後も、
倍賞千恵子、加藤登紀子、フォーク・クルセダーズ、ザ・リガニーズなど数多くの歌手・グループがカバーしていますが、そのほとんどがおおたたかしの日本語詞、もしくはその一部を変えた歌詞で歌っています。

(二木紘三)

野風増(のふうぞ)

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作詞:伊奈二朗、作曲:山本寛之、唄:河島英五

お前が二十歳(はたち)になったら
酒場で二人で 飲みたいものだ
ぶっかき氷に 焼酎入れて
つまみはスルメか エイのひれ
お前が二十歳になったら
思い出話で 飲みたいものだ
したたか飲んで ダミ声上げて
お前の二十歳を 祝うのさ

いいか男は 生意気ぐらいが丁度いい
いいか男は 大きな夢を持て
野風増(のふうぞ) 野風増 男は夢を持て

お前が二十歳になったら
女の話で 飲みたいものだ
惚れて振られた 昔のことを
思い出しては にが笑い
お前が二十歳になったら
男の遊びで 飲みたいものだ
はしごはしごで 明日(あした)を忘れ
お前の二十歳を 祝うのさ

いいか男は 生意気ぐらいが丁度いい
いいか男は 大きな夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て

お前が二十歳になったら
旅に出るのも いいじゃないか
旅立つ朝は 冷酒干して
お前の門出を 祝うのさ

いいか男は 生意気ぐらいが丁度いい
いいか男は 大きな夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て

《蛇足》ウィキペディアの『野風増』によると、「この曲は昭和55年(1980)に作曲家・山本寛之によってリリースされ、その数年後に河島英五・橋幸夫らによってカヴァーされてヒットした」とあります。

 ウィキペディアにはこれ以外の情報がほとんどなく、発表時の歌手とか、作詞者・伊奈二朗の経歴など、わからないことだらけでしたが、なちさんのお知らせ(下記投稿欄参照)で、いくつかのことがわかりました。
 
伊奈二朗さんは本名、塚本定男で、驚いたことに岡山県警の警官だったそうです。現職時代、勤務地での防犯イベントで、自作の防犯ソングなどを歌い、"歌うおまわりさん"として有名だったようです。
 『野風増』リリース時には、作詞家か作曲家のいずれかが、あるいは2人いっしょに歌ったのではないかと思われます。

 さて、橋幸夫やデューク・エイセス、出門英(ヒデとロザンナ)、堀内孝雄などもこの歌を歌っていますが、ほとんどの人が河島英五の持ち歌と記憶しているのではないでしょうか。
 歌のうまい・下手ではなく、歌詞や曲調が酒と男っぽさという河島英五のイメージと強烈に結びついているからでしょう。

 男の子が生まれたときか、それがやんちゃ盛りになったときか、あるいは反抗期になって手を焼いているときかわかりませんが、息子が二十歳になったらいっしょに酒を飲もう、そのときにはこんなことを言おうと、楽しみにしている父親の気持ちがダイレクトに伝わってきます。

 タイトルと歌詞に出てくる野風増は、作詞家・作曲家の出身地である岡山県とその近隣県で使われている「のふうぞ」という方言で、生意気とか勝手気まま、傍若無人といった意味だそうです。
 「のふうぞ」の語源については諸説あるようですが、こうした意味と「のふうぞ」という音から、野放図が方言化したものと見てよいのではないでしょうか。いつごろかはわかりませんが、一般の言葉が方言になる際によく見られる音韻変化が起こったのでしょう。

 多くの方言がそうであるように、「のふうぞ」も、日常の使用では表記法はとくに意識されず、書く場合はひらがなが使われたはずです。それに「野風増」という漢字を当てはめた作詞者のセンスはすばらしい。
 野原を吹き渡る風のように、自由に、思うがままに生きる青年の姿が生き生きと伝わってきます。ひらがなの「のふうぞ」では、そうしたイメージは湧きませんし、野放図では詩の言葉になりません。

 自分が思うようにものを言い、行動していると、しょっちゅう摩擦が起こるだろう、だが、そういう経験を通して自分のアイデンティティが定まってくるのだから、恐れずに堂々と生きろ――そんなアドバイスを私もしたかったのですが、男の子はできませんでした。
 しかし、昔、似たようなことを娘たちにいったような気がします。いっしょに酒は飲まずに。男の子だろうが女の子だろうが、親が子どもにいいたいことは同じです。

(二木紘三)


比叡おろし

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作詞・作曲:松岡正剛、唄:小室 等

1 風は山から降りてくる
  レタスのかごをかかえて
  唇はくびれていちご
  遠い夜の街を越えて来たそうな
  うちは比叡おろしですねん
  あんさんの胸を
  雪にしてしまいますえ

2 風は琵琶湖に落ちてくる
  北山杉を下に見て
  夕焼けはよそゆきマント
  光る銀の靴をはいていたそうな
  うちは比叡おろしですねん
  あんさんの胸を
  雪にしてしまいますえ

3 風は今夜も吹いている
  死んでは駄目よといいながら
  さよならは小さなみぞれ
  そっと京都の街に捨てて来たそうな
  うちは比叡おろしですねん
  あんさんの胸を
  雪にしてしまいますえ

  うちは比叡おろしですねん
  あんさんの胸を
  雪にしてしまいますえ

《蛇足》作詞・作曲の松岡正剛(まつおか・せいごう)は、昭和19年(1944)1月、京都の呉服屋に生まれ、長じて早稲田大学文学部フランス文学科に進みました。

 しかし、4年のとき、父親が多額の負債を残して死去したため、中退して広告会社に就職。その営業活動を通じて稲垣足穂(たるほ)、寺山修司、土方巽(ひじかた・たつみ)など多くの文化人と交流を深めました。その後、情報文化等の研究者・著述家として活動を始めますが、その業績をひと言で説明するのは困難です。

 というのは、彼の研究範囲は美術から量子力学までと、ジャンルを超越して幅広く、しかも思索の深さは並大抵のものではないからです。しかし、彼は"書斎の研究者"ではなく、テレビ番組の企画構成や、美術館計画のプロデュースなども手がけています。

 その業績は多岐にわたりますが、あえて代表作を挙げると、やはり『千夜千冊』でしょう。これは平成12年(2000)2月からWebに連載したもので、簡単にいえば読書案内ですが、取り上げた本を通じて自らの思索内容を述べるというもので、各方面で話題になりました。

 連載終了後、求龍堂が書籍化を図りましたが、その際松岡は大幅に加筆補正を行い、Web版とはほとんど別物になってしまいました。7巻+別巻1冊で、各巻平均1300ページと広辞苑より厚くなったため、セット価格9万9750円という高額商品になりました。にもかかわらず、予想を超える売り上げになったそうです。 
 求龍堂は老舗の芸術出版社であるものの、編集者6、7人という小世帯。それで、よくこの大プロジェクトを成し遂げたものと感服します。

 松岡正剛についての紹介が少々長くなりましたが、この歌がそういう人物の作品であると知って聞くと、味わいがまた違ってくると思ったからです。

 創唱したのは人気フォークグループ「六文銭」のリーダー、小室等ですが、あまり評判になりませんでした。
 曲は美しく、歌いやすいのになぜだろうと考えた末、
歌詞が原因かもしれないと思い至りました。ほとんどアレゴリーで書かれた歌詞が、すぐ意味がわかる歌に慣れた人びとには取っつきにくかったのではないでしょうか。

 こういう歌詞は、意味を解釈しようとするのでなく、全体から雰囲気を感じ取ればいいのです。
 
京文化のなかで育った女性には、外見ははんなりしているのに、内面は複雑で、ときに強靱というひとがたまにいます。私は、そういう女性の片恋か失恋の歌だろうと思っていました。

 しかし、平成25年(2013)2月7日付け『日本経済新聞・関西版の連載コラム『歌ものがたり』を読んで、この歌は、男性側から歌ったものであることがわかりました。このコラムは、関西にちなんだ歌について、制作の経緯などを紹介する記事です。
 『比叡おろし』について、松岡は、大学3年のとき、
自分が味わった片恋をモチーフとして、ハーモニカを吹きながら短時間で作ったものだと語っています。

 つまり、この歌は、自分の思いが実を結ばないと悟るキーとなった、相手の女性の微妙な言葉や態度、あるいはそのときの彼女の真意を想像し、それを比喩を駆使して綴ったものだろうと思われます。
 このように比喩を使った歌詞は、振られて辛いとストレートに歌うよりも、じっくりと心に染み込んできます。

 一般にはあまり広まらなかった歌ですが、五木寛之など、長い歴史の中で育まれた京都のエトスに惹かれる人びとには大変愛されています。数は多くありませんが、ラジオの歌番組にも、ときどきリクエストがあるそうです。

 小室等のあと、小林啓子や由紀さおり・安田祥子などがカバーしています。
 3番の4行目を小室等は「京都の闇に」と歌っていますが、小林啓子などは「京都の街に」と歌っています。当ページでは「街」を採用しました。
 『比叡おろし』のタイトルでは、岸田智史や水森かおりも歌っていますが、別の歌です。

(二木紘三)

錆びたナイフ

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作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎

1 砂山の砂を 指で掘ってたら
  まっかに錆びた
  ジャックナイフが 出て来たよ
  どこのどいつが 埋(うず)めたか
  胸にじんとくる 小島の秋だ

2 薄情な女(やつ)を 思い切ろうと
  ここまで来たか
  男泣きした マドロスが
  恋のなきがら 埋めたか
  そんな気がする 小島の磯だ

3 海鳴りはしても 何も言わない
  まっかに錆びた
  ジャックナイフが いとしいよ
  俺もここまで 泣きに来た
  同じおもいの 旅路の果てだ

《蛇足》昭和32年(1957)にテイチクから発売されて大ヒットしました。レコードでは184万枚の売り上げ。

 翌年、この歌を下敷きにして日活が同名の映画を制作。石原慎太郎原作のアクション映画で、主演の裕次郎のほか、北原三枝、白木マリ、宍戸錠、小林旭などが出演しました。
 小林旭がまだ脇役なのが注目されます。小林旭が脚光を浴びるのは、昭和34年
(1959)公開の映画『南国土佐を後にして』から。これが『渡り鳥シリーズ』へとつながります。

 作詞の萩原四朗、作曲の上原賢六のコンビは、裕次郎の歌を20曲あまり作っていますが、大ヒットしたのは、『錆びたナイフ』のほか、昭和37年(1962)の『赤いハンカチ』、昭和38年(1963)の『夕陽の丘』ぐらい。
 中ヒットや小ヒットなら、いくつもあります。『こぼれ花』『白い浮雲』『雪国の町』などはいい歌だと思いますが、大ヒットにはなりませんでした。

 ジャックナイフは折りたたみナイフのこと。人を殺せる大型のナイフから、昔懐かしい肥後守まで、いろいろな種類があります。

 それにしても、失恋すると、人はなぜ寂しいところに行きたくなるのでしょうか。

(二木紘三)

愛のメロディ

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作詞:N.N.ドブロヌラヴォフ、作曲:A.N.パフムートワ、
唄:M.マゴマエフ、日本語詞:矢沢 保

1 ああこのメロディは ふたりのメロディ
  ああふたりの愛は かえらぬ想い出か
  きみの歌声は けむりと消えてゆく
  もう歌わないのか あのメロディを

2 こよい降る雨は きみの涙か
  きみの悲しみが あかねににじむ空
  きみは今どこに どうしているだろうか
  はるか聞こえてくる あのメロディが

3 きみこそ私の 心の安らぎ
  ともに過ごした あの日のしあわせよ
  きみの面影が 心をかき乱す
  胸によみがえる あのメロディが

       МЕЛОДИЯ

Ты – моя мелодия,
Я – твой преданный Орфей
Дни, что нами пройдены,
Помнят свет нежности твоей

Всё как дым растаяло,
Голос твой теряется вдали
ЧТО ТЕБЯ ЗАСТАВИЛО
ЗАБЫТЬ мелодию любви?

Ты – моё сомнение,
Тайна долгого пути
Сквозь дожди осенние
Слышу я горькое: «Прости...»

Зорь прощальных зарево,
Голос твой теряется вдали
ЧТО ТЕБЯ ЗАСТАВИЛО
ПРЕДАТЬ мелодию любви?

Ты – моё призвание,
Песня, ставшая судьбой
Боль забвенья раннего
Знал Орфей, преданный тобой

Ты – моя мелодия,
Я – твой преданный Орфей
Дни, что нами пройдены,
Помнят свет нежности твоей

Стань моей Вселенною!
Смолкнувшие струны оживи!
Сердцу вдохновенному
ВЕРНИ МЕЛОДИЮ ЛЮБВИ!!

《蛇足》 1973年発表。日本語詞の題名は『愛のメロディ』ですが、原題はシンプルに『メロディМелодия』だけ。

 作曲者は、『心さわぐ青春の歌』などで歌声運動/喫茶世代にはおなじみのアレクサンドラ・ニコライエヴナ・パフムートワАлександра Николаевна Пахмутова。1929年11月9日生まれで、クラシック系からポピュラーソング、映画音楽、童謡まで、幅広い分野で実績をあげてきました。

 作詞者は、彼女の夫で、詩人・作詞家のニコライ・ニコラエヴィッチ・ドブロヌラヴォフНиколай Николаевич Добронравов。1928年11月22日生まれ。
 2人は子どもは作らないと決めて1956年に結婚、以後数多くの作品を協働で作ってきました。そのなかには、かなりの数の体制翼賛的な作品が入っています。
 これはしかし、しかたのないことでしょう。生まれたときからソヴィエト体制のなかで育ってきた2人には、それに疑問をもつ余地はほとんどなかっただろうし、疑問をもったとしても、体制に逆らうことは音楽活動ができなくなることを意味していましたから。

 ところで、この曲の制作には、その前年、すなわち1972年に行われたミュンヘン・オリンピックが間接的に影響しています。パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエルのアスリート11名を殺害したテロ事件により我々の記憶に強烈に刻まれているオリンピックです。

 パフムートワとドブロヌラヴォフは、このオリンピックに派遣される選手団を讃え、激励する曲を委嘱されました。人気歌手で作詞・作曲もするムスリム・マゴマエフМуслиму Магомаевуがそれを歌うことになりましたが、彼は、こういう曲調の歌は自分には合わない、といって抵抗しました。
 実際、彼が歌ってきたのは、ロマンチックな曲が過半だったようです。

 吹き込みの期限が迫っていたので、2人は一生懸命彼を説得し、歌ってくれたら、お返しとして彼に合う愛の歌を全力で作るといって、ついに承諾させました。こうしてできたのが、『愛のメロディ』というわけです。

 しかし、曲作りは難航しました。流麗でロマンチックな歌曲ですが、メロディが個性的というか、癖があるのです。1小節分以上伸ばすところがあるかと思うと、短く刻むところもあり、無音の小節があったりします。パフムートワ自身、これに合う歌詞がはたしてできるだろうかと懸念したそうです。
 
ドブロヌラヴォフは、1年近く苦吟したのち、7聯からなる詞を作り上げました。それが、去っていった恋人に呼びかける上の歌詞です。
 日本ではほとんど忘れられていますが、コーラス・グループのなかには歌っているところもあるようです。

 余談ですが、ミュンヘン・オリンピックでの金メダル獲得数は、1位がソ連で50個、2位アメリカ33個、3位東ドイツ20個、4位は西ドイツと日本で13個。前回のメキシコ・オリンピックでも、ソ連と東ドイツの強さが話題になりましたが、ミュンヘンではさらに驚くべき強さを示しました。
 みんな怪しみましたが、結局両国とも国家ぐるみでドーピングをしていたわけですね。

(二木紘三)

こぼれ花

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作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎

1 紅い野薔薇が ただひとつ
  荒野(あれの)の隅に 咲いている
  ものみな枯れた 山かげに
  風に震えて 咲いている

2 ちょうど去年の いま頃か
  泣くなと言えば なお泣いた
  あの娘の帯に バラひとつ
  咲いていたのを 憶(おも)いだす

3 寒い夕陽が 落ちたとて
  荒野の薔薇よ 散るじゃない
  お前も俺も こぼれ花
  おなじさだめの こぼれ花

4 紅い野薔薇が ただひとつ
  荒野の隅に 咲いている
  ものみな枯れた 山かげに
  風に震えて 咲いている

《蛇足》昭和42年(1967)3月11日公開の日活映画『夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生監督)の挿入歌。レコードは、前年の9月に発売されています。裕次郎が自分のクラブで弾き語りする場面で使われました。

 『赤いハンカチ』や『夕陽の丘』などと同じく、萩原四朗・上原賢六コラボ作品の特徴がよく出た曲ですが、主題歌『夜霧よ今夜も有難う』の大ヒットの陰に隠れて、もう一つ伸び悩みました。

 映画は『カサブランカ』(M・カーティス監督)の翻案。名作の枠組みだけ借りて日活が作ると、まー、なんと申しましょうか(ここは小西得郎調で)、"いわゆる”とか"例の"が付く日活アクションになってしまうという感じです。日活アクション映画のなかでは、できのいいほうなんでしょうが。

 『凱旋門』もそうですが、『カサブランカ』のような極め付けの名作でも、社会的エントロピーが極限まで増大した第二次大戦勃発前後という「時代性」を取り払ったら、気の抜けたビールのようになってしまいます。
 日活も、たとえば戦前の上海あたりを舞台にすれば、かなり違ったものになったでしょうに。

 『カサブランカ』については、『時の過ぎゆくままに』と『カスバの女』で触れています。

(二木紘三)

ノルマントン号沈没の歌(1)

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作詞・作曲:不詳

1 岸打つ波の音高く
  夜半(よわ)の嵐に夢さめて
  青海原をながめつつ
  わが兄弟(はらから)は何処(いずく)ぞと
  
3 旅路を急ぐ一筋に
  外国船(とつくにぶね)とは知りつつも
  航海術に名も高き
  イギリス船ときくからに

5 名も恐ろしき荒波に
  乗り出でたるぞ運のつき
  折しも雨は降りしきり
  風さえ添えて凄(すさ)まじく

7 黒白(あやめ)も分かぬ真の闇
  水先(みずさき)はかる術(すべ)もなく
  乗合人(のりあいびと)も船人も
  思案にくるる瞬間に

9 打ち流されて衝突の
  一声ぼうととどろけば
  流石(さすが)に堅き英船も
  堪えも果(はた)さで打ち破れ

11 互いに救い救われて
  みな諸(もろ)ともに立ち上がり
  八洲船(やしまぶね)の救いをば
  声を限りのもとむれど

13 己(おの)が職務を打ち忘れ
  早や臆病の逃げ仕度
  その同胞を引きつれて
  バッテーラへと乗り移る

15 如何(いか)に人種は違うとも
  如何に情けを知らぬとも
  この場をのぞみて我々を
  捨てて逃がるるは卑怯者

17 彼は岩なり我は船
  みすみす沈む海原の
  底の藻屑となりゆくは
  いといと易きことながら

19 浮世は仮とはいいながら
  常なき者は人ごころ
  昨日(きのう)の恩は 今日の仇
  斯(か)かる奴とは露知らず

21 汝が為(な)せる罪悪は
  この世のあらん限りには
  などで晴さでおくべきか
  右手(めて)に稚子(おさなご)左手(ゆんで)には

23 折しも一人の少年は
  甲板上によじのぼり
  沖なる方(かた)を打ち見やり
  せきくる涙とどまらず

25 わが同胞の危難をば
  捨てて救わでただ一人
  命を惜しむたわけもの
  大和ごころの大丈夫(ますらお)

27 藻屑とこそは果てなん」と
  呼び終わるその中に
  無情を告ぐると時の鐘
  山なす波に打ちまかせ

29 紀伊の浜辺に上陸し
  領事庁へと進みいで
  己(おの)が過失をおおわんと
  非を理にまぐる陳述を

31 日頃の傲慢あらわして
  大悪無道(だいあくむどう)の奴隷鬼を
  無罪放免それのみか
  アッパレ見事(みごと)の船長と

33 正は正なり非は非なり
  国に東西ありとても
  道理に二つあるべきか
  ノルマントンの船長の

35 白晳(はくせき)人種はみな生きて
  黄色人種はみな溺る
  原因あらば聞かまほし
  彼も人なり我も人

37 汝の国の奴隷鬼は
  人を殺して身を逃(のが)
  義務を忘れて法犯す
  極悪無道の曲者(くせもの)

39 軍艦大砲ありとても
  わが国民は知識なく
  国が実に弱くとも
  鳥や豚ではあるべきか

41 外国人の侮(あなど)りを
  受けしことさえなきものを
  斯くする法の傲慢の
  その裁判におめおめと

43 捨てて惜しまぬその理(ことわり)
  破船の時の少年の
  挙動を見るさえしりつらん
  わが兄弟は不常(ふじょう)にも

45 己が困苦を打ち忘れ
  その兄弟は妻子まで
  救わでやまぬ鉄石の
  心は同じ敷島(しきしま)

47 さすがに名高き英人も
  傲慢心は打ち破れ
  一旦(いったん)(めん)せし奴隷鬼を
  一言いわさず引捕(ひっとら)らえ

49 その公平に感嘆し
  積もるうらみも是(これ)に晴れ
  波風にわかに沈まりて
  残るは元の月ひとつ

51 国事も日々に多端なり
  はるかに彼方を見渡せば
  筑紫(つくし)の海は波高く
  風さえ強き秋の空

53 二十五人はまだ愚か
  三千余万の兄弟も
  あわれ危難に過るにも
  まして条約改正の

55 学問知識を競争し
  工芸技術それぞれに
  名誉の淵に乗り出(いだ)
  勝負を競う事なれば

57 若(も)しくも第二の奴隷鬼や
  なお恐ろしきファントムが
  顕(あら)われいでたる事あらば
  三千余万の同胞は

59 生命財産なげうちて
  国の権利を保護して
  保たにゃならぬ国の名を
  保たにゃならぬ国の名を
2 呼べど叫べど声はなく
  たずねさがせど影はなし
  うわさに聞けば過(すぐ)る月
  二十五人の兄弟は

4 ついうかうかと乗せられて
  波路もとおき遠州の
  七十五里もはや過ぎて
  今は紀伊なる熊野浦

6 渦巻く波を巻きあげて
  われを目がけて寄せ来(きた)
  かすかに見えし灯台の
  光もいつしか消えうせて

8 岩よ岩よと呼ぶ声の
  マストの上に聞(きこ)ゆれば
  あわやと計(ばか)り身をかわす
  いとまもあらで荒波に

10 逆巻く波は音高く
  機関室へとほとばしり
  凄き声して溢れたり
  斯(か)くと見るより同胞(どうぼう)

12 外国船の情けなや
  残忍非道の船長は
  名さえ卑怯の奴隷鬼(どれいき)
  人の哀れを外(そと)に見て

14 影を身送る同胞は
  無念の涙やるせなく
  溢るる涙を押し拭い
  ヤオレ憎き奴隷鬼よ

16 思い出(い)だせばその昔
  俊寛僧都(しゅんかんそうず)にあらねども
  沖なる島の身を投じ
  見るも憎しや情けなや

18 家に残れる妻や子や
  待ちくたびれし弟妹の
  我なき後は如何にせん
  憂(う)きぞいとぞ思わるる

20 その信義をば片頼(かただの)
  ついうかうかと大海に
  乗り出でたるぞ恨めしや
  よしや恨みは残すとも

22 老いたる者を助けつつ
  悲嘆に沈む涙淵(なみだぶち)
  伏しつまろびつ泣き入りて
  目もあてられぬ風情(ふぜい)なり

24 「われ航海の一端も
  学び覚えしことあらば
  日頃の技倆(ぎりょう)をあらわして
  逃るる術は易けれど

26 嘲(あざけ)り笑わる苦しさよ
  いざ是(これ)よりは潔よく
  みな諸ともにこの身をば
  千尋(ちひろ)の海に打ち沈め

28 二十五人の兄弟は
  無惨や藻屑となりにける
  斯くと知らずや白波を
  舟に乗じて船長は

30 音に名高きホント氏が
  何(な)どて知らざる事やある
  固(もと)より知りつる事ながら
  わが東洋に人なしと

32 褒めはやしたる裁判を
  聞いて驚く同胞は
  切歯扼腕(せっしやくわん)やるせなく
  与論一時に沸騰し

34 その暴悪の振舞は
  外国々(とつくにぐに)の人ですら
  その非をせめぬ者ぞなき
  乗合多きその中に

36 同じ人とは生まれながら
  危難を好む人やある
  いのち惜しまぬぬ者やある
  イギリス国の法官よ

38 これぞ所謂(いわゆる)スローター
  などて刑罰加えざる
  などて刑罰加えざる
  汝が国は兵強く

40 是非曲直を知る者を
  大和だましいある者を
  二千余年がその間
  尚武(しょうぶ)の国と名も高く

42 従う奴隷があるべきか
  汝知らずや我が民は
  恥のためには命をも
  義理にのぞめば財産も

44 無惨の横死(おうし)と聞くならば
  雲井にかける都人(みやこびと)
  伏屋(ふせや)に宿る賤(しず)の女(め)
  六十余洲はみなおなじ

46 大和ごころの大丈夫を
  道理つめなる論鋒(ろんぽう)
  その豪気なる振舞は
  岩をも砕くいきおいに

48 ふたたび開く公判に
  罪科の所置を定むれば
  二十五人の家族らも
  三千余万の同胞も

50 いとあざやかに見えにける
  これを見るにも思いやる
  いまは明治の御治世(おんじせい)
  外交とみに繁くなり

52 薩摩の海の南には
  豺狼(さいろう)の住む国もあり
  用意もなくてうかうかと
  吹き流されて破船せば

54 今にも談判整わば
  内地雑居となり来(きた)
  赤髪碧眼(せきはつへきがん)かず多く
  わが国内に乗り込みて

56 油断のならぬ今の時
  ノルマントンの沈没の
  その惨状を知る者は
  心根たしかに気をはりて

58 みな諸ともに一致して
  力を限り情かぎり
  縦横無尽に奮撃(ふんげき)
  それでも及ばぬその時は

《蛇足》明治19年(1886)10月25日に紀州沖で起こったイギリス船ノルマントン号の難破をテーマとした歌。この事件は、不平等条約改正を加速させる力になりました。
 作詞・作曲者は不明ですが、メロディは、フランス人のお雇い外国人シャルル・ルルーが作った軍歌『抜刀隊』の一部が使われたようです。歌詞は59番までありますが、曲は6番までにしました。

(二木紘三)

(『ノルマントン号沈没の歌(2)』に続く)

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