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Channel: 二木紘三のうた物語
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酒と泪と男と女

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作詞・作曲・唄:河島英五

忘れてしまいたいことや
どうしようもない寂しさに
包まれたときに男は
酒を飲むのでしょう
飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで
飲んで 飲みつぶれて 眠るまで飲んで
やがて男は 静かに眠るのでしょう

忘れてしまいたいことや
どうしようもない悲しさに
包まれたときに女は
(なみだ)みせるのでしょう
泣いて 泣いて ひとり泣いて
泣いて 泣きつかれて 眠るまで泣いて
やがて女は 静かに眠るのでしょう

         (間奏)

またひとつ 女の方が偉く思えてきた
またひとつ 男のずるさが見えてきた
俺は男 泣きとおすなんて出来ないよ
今夜も酒をあおって 眠ってしまうのさ
俺は男 泪は見せられないもの
飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで
飲んで 飲みつぶれて 眠るまで飲んで
やがて男は 静かに眠るのでしょう

《蛇足》昭和51年(1976)6月25日にリリースされた「河島英五とホモ・サピエンス」のデビューアルバム『人類』の収録曲で、彼の代表作となりました。
 シンガー・ソングライターのほか、俳優としても活躍、東宝映画やNHKドラマなどに出演しました。

 曲には、優しさに裏打ちされた男の強さ、人には見せない男の哀しさや寂しさといった"男であること"にこだわった作品が多く、身長180センチの恵まれた体躯から絞り出すように歌う太い声が、それを強調していました。
 平成13年
(2001)4月16日没。49歳の誕生日を迎える1週間前のことでした。

 私は、彼の歌はほかには、『野風増(のふうぞう)』と『時代おくれ』しか知りませんが、逝去時のニュースから「生き急いだ人物」という印象を受けました。

 生き急ぐ人たちは、普通の人が少しずつ燃やし続ける生命のエネルギーを、早いうちから燃え上がらせ、短期間に使い切ってしまいます。その人生は濃密ですが、短く、それゆえ、多かれ少なかれ悲劇性を帯びます。
 芸術家に多く見られるタイプですが、そのほか革命家、薬物やアルコール・賭博などの依存症、テロリストなどにも、そうした印象を残す者がいます。

 彼らに共通しているのは、早ければ十代のうちに、胸の内に空洞のようなものが生じ、それが次第に膨らんでいくことです。彼らはそれを価値ある何かを遺したいとか、社会をよくしたい、みんなに認められるようなことをしたい、思い切り贅沢したい、何でもいいから生きた証がほしい、といった使命感や欲求を満たすことで埋めようとします。

 もう1つの特徴は、人生は短いと感じている者が多いことです。そこで、少しでも早く自分の使命を果たし、あるいは欲求を充足させようとして、一挙に生命のエネルギーを使い切ってしまいます。彼らは、意識している、いないに拘わらず、常に「死」を抱え込んで生きているのです。

 河島英五は平成13(2001)1月27日、富山のコンサートから帰宅した昼頃、吐血したため緊急入院しました。検査の結果、胃が切れて血が止まらなくなるマロリー・ワイス症候群と診断され、さらに肝硬変や静脈瘤も見つかりました。
 入院してから、吐き気と下痢が止まらず、
体重が一気に20キロ以上も減ったそうです。

 その後、若干恢復、予定されていたコンサートをこなしましたが、それも長くは続きませんでした。
 最期のようすを『日刊ゲンダイ』は、次のように報じています。

 重大局面が4月14日に訪れる。大阪でトーク&ライブショーを終えて帰宅。河島は深夜に吐血。それでも、「病院には行かさんといてくれ」と横になったが、朝に再び吐血して救急車で病院に搬送された。

 その日は奈良でコンサートが予定されていて、「歌わしてくれ」と主張して入院が遅れそうになる最悪の事態も。結局、数時間後に意識がなくなり、医者は「100%意識が戻らない」と宣告したほどだが、まもなく夫人の呼びかけに応えて意識は回復。呼吸器をつけて点滴と輸血のチューブがつながっているのに、「こんなことしとられん、ギター持ってきて」など家族としゃべり続けた。

 だが、ふと黙りこくったと思ったら、それが最期。4月16日未明、家族に囲まれ、笑いながら息を引き取った。2日後に音楽葬形式の葬儀が奈良市で行われ、3人の子供たちが生ギターを手に熱唱。倒れた後、「花見に行きたい」と言っていたため、遺骨の一部は自宅庭にある大きな桜の木の下に埋められた。

 今では"時代おくれ"となった"男らしさ"を貫いた、みごとな一生というべきでしょう。

(二木紘三)


江の島悲歌(エレジー)

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作詞:大高ひさを、作曲:倉若晴生、唄:菅原都々子

1 恋の片瀬の 浜千鳥
  泣けば未練の ますものを
  今宵嘆きの 桟橋の
  月にくずれる わが影よ

2 あわれ夢なき 青春を
  海の暗さに 散らす夜
  君は遥けき 相模灘
  漁(いさ)り灯(び)よりも 遠き人

3 さらば情けの 江の島の
  みどり哀しき わが恋よ
  南風(ハエ)の汐路の 流れ藻に
  明日は真白き 花と咲け

《蛇足》昭和26年(1951)5月、テイチクから発売。
 同年6月1日公開の大映映画『江の島悲歌
(エレジー)(小石栄一監督)の主題歌で、菅原都々子のヒット曲の1つ

 この映画には、もう1つ主題歌があります。この歌と同じ大高ひさを作詞、倉若晴生作編曲による『片瀬夜曲』で、眞木不二夫が歌いました。
 『江の島悲歌』が女性の恋情を歌っているのに対して、『片瀬夜曲』は男性の立場から歌った曲で、いわばアンサー・ソングです。歌詞も曲も映画のテーマに合ったいい作品でしたが、『江の島悲歌』ほどにはヒットしませんでした。
 下に歌詞を掲載しておきます。

 映画は引き揚げ船で知り合った男女が紆余曲折の末結ばれるという筋書きで、久我美子が演じたヒロインは神奈川県片瀬の病院で働く看護婦という設定。
 ついでながら、久我美子は旧華族、久我
(こが)侯爵家の長女で、学習院女子中等科在学中に東宝の第一期ニューフェイスに合格して女優になりました。戦前だったら、ちょっと考えられないことです。

 戦前から戦後の昭和20年代にかけて作られたメロドラマには、ヒロインが看護婦という作品が多いですね。戦前の大ヒットメロドラマ『愛染かつら』(主題歌は『旅の夜風』)をはじめ、戦後の『高原の駅よさようなら』『月よりの使者』など。白衣がロマンチックなイメージを増幅させるのでしょうか。
 もっとも、近年は白衣を着ない看護師が増えているようですが。

 片瀬は神奈川県藤沢市の南東部に位置する地区で、江の島はその一部。風光明媚で宿泊施設も整っていたこの地区には、明治初期以降、多くの外国人が訪れるようになりました。彼らによってヨーロッパ式の海水浴が日本に広まったとされています。

     片瀬夜曲

1 別れともない 別れのなぎさ
  君は片瀬の さくら貝
  かもめよかもめ 泣くじゃない
  男心も 涙こらえて
  ああ 行くものを

2 なまじ逢わねば 夢見る瞳
  心静かに いた君を
  ゆるせよ我は 旅の鳥
  命かぎりと 泣いて泣かれず
  ああ 忘られず

3 想いあふれて また振り返る
  恋の片瀬よ 江の島よ
  月影あわき しずむ夜も
  越えていつまた めぐり逢う日の
  ああ ありやなし

(二木紘三)

サンタ・ルチア

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ナポリ民謡、作曲:Teodoro Cottrau、日本語詞:堀内敬三

1 月は高く 海に照り
  風も絶え 波もなし
  月は高く 海に照り
  風も絶え 波もなし
  来よや友よ 舟は待てり
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア
  来よや友よ 舟は待てり
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア

2 ほのかなる 潮(しお)の香(か)
  流るるは 笛の音(ね)
  ほのかなる 潮の香に
  流るるは 笛の音か
  晴れし空に 月は冴えぬ
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア
  晴れし空に 月は冴えぬ
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア

3 愛(め)ぐしナポリ 夢の国
  憂いなく 悩みなし
  愛ぐしナポリ 夢の国
  憂いなく 悩みなし
  水夫(かこ)の歌の 遠くひびく
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア
  水夫の歌の 遠くひびく
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア

4 いざや出(い)でん 波の上
  月もよし 風もよし
  いざや出でん 波の上
  月もよし 風もよし
  来よや友よ 舟は待てり
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア
  来よや友よ 舟は待てり
  サンタ・ルチア サンタ・ルチア

    Santa Lucia

1. Sul mare luccica l'astro d'argento.
   Placida è l'onda, prospero è il vento.
   Sul mare luccica l'astro d'argento.
   Placida è l'onda, prospero è il vento.
   Venite all'agile barchetta mia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   Venite all'agile barchetta mia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!

2. Con questo zeffiro, così soave,
   Oh, com'è bello star sulla nave!
   Con questo zeffiro, così soave,
   Oh, com'è bello star sulla nave!
   Su passegieri, venite via!
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   Su passegieri, venite via!
   Santa Lucia! Santa Lucia!

3. In fra le tende, bandir la cena
   In una sera così serena,
   In fra le tende, bandir la cena
   In una sera così serena,
   Chi non dimanda, chi non desia.
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   Chi non dimanda, chi non desia.
   Santa Lucia! Santa Lucia!

4. Mare sì placida, vento sì caro,
   Scordar fa i triboli al marinaro,
   Mare sì placida, vento sì caro,
   Scordar fa i triboli al marinaro,
   E va gridando con allegria,
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   E va gridando con allegria,
   Santa Lucia! Santa Lucia!

5. O dolce Napoli, o suol beato,
   Ove sorridere volle il creato,
   O dolce Napoli, o suol beato,
   Ove sorridere volle il creato,
   Tu sei l'impero dell'armonia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   Tu sei l'impero dell'armonia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!

6. Or che tardate? Bella è la sera.
   Spira un'auretta fresca e leggiera.
   Or che tardate? Bella è la sera.
   Spira un'auretta fresca e leggiera.
   Venite all'agile barchetta mia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!
   Venite all'agile barchetta mia,
   Santa Lucia! Santa Lucia!

《蛇足》『オー・ソレ・ミオ』『帰れソレントへ』『フニクリ・フニクラ』などとともに、ナポリ民謡、というよりイタリア民謡を代表する曲。かつては中学や高校の音楽教科書に必ずといっていいほど載っていたものですが、今はどうなんでしょうか。

 1830年代後半から、ミケーレ・ツェッツァ作詞、A.ロゴ作曲(異説あり)による『サンタ・ルチア』がナポリ界隈で歌われていましたが、今日世界中で歌われているのは、作曲家で音楽出版者のテオドーロ・コットラウ(Teodoro Cottrau 1827–1879)が1849年に舟歌(barcarolle)として作曲し、出版した曲です。

 サンタ・ルチアは、AD304年に殉教した女性聖人の名で、ナポリの波止場地区の地名になっています。内容は、絵のように美しいナポリ湾で夕涼みをしようと船頭が誘う楽しい内容です。『海に来たれ』と似ていますね。

 ナポリでは、毎年9月7~8日に、ピエディグロッタ・フェスタ(Piedigrotta Festa)という、ローマ時代から続く祭りが開催されます。聖母マリアに捧げる祭りで、街中が光と花で彩られ、ナポリ湾内の舟では演奏が行われ、街では歌謡コンクールが開かれます(上の写真)
 テオドーロ・コットラウの曲は、このコンクールで演奏されたことにより、広く歌われるようになりました。

 コットラウの『サンタ・ルチア』は、数あるナポリ民謡のなかで、標準イタリア語に翻訳された最初の曲とされています。
 よく誤記されますが、翻訳したのは、テオドーロ・コットラウではなく、その父のグリエルモ・コットラウ
(Guglielmo Cottrau 1797-1847…後述)です。
 この翻訳のいきさつを理解するために、イタリア史をざっと見てみましょう。

 5世紀に西ローマ帝国が崩壊してから、イタリアでは小国が分立し、統一政府が作られなかったため、フランスやスペイン、オーストリアの侵略や介入を受けることが多くなりました。また、それによって多くの方言が生まれ、地域が違うと意思疎通がむずかしくなるような状況もよく見られました。

 とくにナポリ語は、 ラテン語以前に使われていて死語となったオスク語の残滓が残っており、発音や文法の一部まで、後述の標準イタリア語と違うほどです。
 ちなみに、サンタ・ルチアは、標準イタリア語ではサンタ・ルーアなのに対し、ナポリ語ではサンダ・ルーアが近い発音です。

 これではイタリアは落ち目になるばかりだと、1815年ごろから、おもに青年たちによってイタリア統一運動、いわゆるリソルジメントが始まりました。
 リソルジメントでは、イタリア統一のためには標準イタリア語を作ることも必要だとされました。
 そして、各地の方言のなかで
、フランス語やスペイン語など周辺国の言語の影響を最も受けていない中部イタリアのトスカーナ方言にナポリ方言・シチリア方言の語彙を取り入れたものを標準イタリア語とすることになりました。

 リソルジメントは、1861年にイタリア王国が建国されて、いちおうの成功を見ましたが、統一完成は、ローマが王国の首都と定められた1871年です。
 統一後、標準イタリア語政策が強力に推し進められましたが、なかなか地方にまで浸透せず、「テレビ放送が始まってから、初めて標準イタリア語というものが存在することを知った」と驚く農山村部の老人が多かったといわれます。

 ナポリ民謡の普及については、テオドーロの父、グリエルモ・コットラウの名を落とすことはできません。グリエルモのフランス名はギョーム・ルイ・コトロー(Guillaume Louis Cottrau)で、ナポレオン帝国の傀儡国だったナポリ王国で重職に就く父に連れられて、パリからナポリにやってきました。

 彼もナポリ王に仕え、ナポリ民謡の採譜・収集に努めました。それらを順次『音楽の楽しみ(Passatempi Musicali)というシリーズにまとめて出版、その数は1824年から1845年までに数100曲に及びました。そのなかにミケーレ・ツェッツァの作品もあったわけです。
 グリエルモは、採集した民謡について、歌いやすいようにアレンジしたり、また自分の作品も入れたりしたようです。
 この
『音楽の楽しみ』がなければ、ナポリ民謡が国境を越えて、今ほど世界に広まることはなかったといっていいでしょう。イタリアの大衆歌謡にとって、偉大な功績です。

 なお、日本語詞は上記のほかに、小松清のものなどいくつかあります。

(二木紘三)

宮さん宮さん

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作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎

1 宮さん宮さん お馬の前で
  ひらひらするのは 何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
  あれは朝敵 征伐せよとの
  錦の御旗(みはた)じゃ 知らないか
  トコトンヤレ トンヤレナ

2 一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
  帝王(みかど)に手向かい する奴を
  トコトンヤレ トンヤレナ
  ねらい外さず ねらい外さず
  どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
  トコトンヤレ トンヤレナ

3 伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
  橋本 葛葉(くずは)の戦いは
  トコトンヤレ トンヤレナ
  薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
  合(お)うたる手際じゃ ないかいな
  トコトンヤレ トンヤレナ

4 音に聞こえし 関東武士(さむらい)
  どっちへ逃げたと 問うたれば
  トコトンヤレ トンヤレナ
  城も気概も 城も気概も
  捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな
  トコトンヤレ トンヤレナ

5 国を追うのも 人を殺すも
  誰も本意じゃ ないけれど
  トコトンヤレ トンヤレナ
  薩長土肥の 薩長土肥の
  先手(さきて)に手向かい する故に
  トコトンヤレ トンヤレナ

6 雨の降るような 雨の降るような
  鉄砲の玉の 来る中に
  トコトンヤレ トンヤレナ
  命惜しまず魁(さきがけ) するのも
  皆お主の 為故じゃ
  トコトンヤレ トンヤレナ

《蛇足》昭和30年代くらいまでは、子どもでも知っていた歌ですが、近年では、高齢者以外はほとんど知らないようです。
 ラジオの歌謡番組でやるような歌ではなかったのに、20年代に小学生だった私が覚えているのは不思議です。

 戊辰(ぼしん)戦争から明治にかけて歌われた歌で、作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎とされています。
 明治に唱歌の編纂に携わった伊沢修二が、品川に「閣下が作詞に関わったのでしょうか」と問い合わせたところ、「そうだ」との返事をもらったので、音楽教科書には「作歌者:尊
堂主人」と掲載されたといいます。
 
尊攘堂は、品川が師・吉田松陰の遺志を受けて、尊皇攘夷のために死んだ志士たちを顕彰するために京都に建てた建物。のちに新築して京都帝国大学に寄贈されました。

 曲については、品川弥二郎と深い仲だった祇園の勤王芸者・中西君尾が品川の作った歌詞に節をつけて歌ったのが始まりとする説もあります(日日新聞、小学館の日本大百科全書〈ニッポニカ〉など)
 なお、『日日新聞』は慶応4年
(1868)閏4月創刊で、明治5年(1872)創刊の『東京日日新聞』とは別です。
 また、曲を作ったのは品川と大村
だが、それにトコトンヤレトンヤレナという囃子詞を付け加えて歌ったのが中西君尾だったという説もあります。

 当時の倒幕志士たちがよく祇園に通っていたことを考えると、品川と大村が意識的に軍歌として作ったというよりも、酒席で即興的に作った歌のような気がします。
 その酒席に連なった人たちから討幕軍に広まり、戦争の進行とともに軍歌としての体裁が整えられていったのでしょう。
 品川弥二郎が作った歌詞も、1番だけか、せいぜい2番ぐらいまでで、東征の過程で新たな歌詞が付け加えられていったのではないでしょうか。
 以上、
あくまでも推測ですが。

 明治に入ると、この歌は、『宮さん宮さん』もしくは『トンヤレ節』として民衆にも広まりました。そこで、この歌は、日本最初の軍歌であり、また日本最初の流行歌であるともいわれています。

 戊辰戦争では、品川は会津降伏後、整武隊参謀として奥羽から蝦夷へ出陣、大村益次郎は東京で事実上全軍の総司令官として活躍しました。明治新政府では、品川は農商務大臣や内務大臣などを歴任しましたが、大村は、明治2年(1869)、兵部大輔として兵制の近代化に努力中、攘夷派浪士に襲われて負傷し、療養中に死亡しました。

 歌詞にある宮さんは、東征大総督・有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王。一天万乗は、全世界を治める位またはその人の意で、天子のこと。

 上の絵は、彰義隊など旧幕府軍の残党と官軍が戦った上野戦争を描いた錦絵の一部。題辞は、新政府をはばかってか『本能寺合戦之図』となっています(歌川芳盛画)。

(二木紘三)

夕焼け雲

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作詞:横井弘、作曲:一代のぼる、唄:千昌夫

1 夕焼け雲に 誘われて
  別れの橋を 越えてきた
  帰らない
  花が咲くまで帰らない
  帰らない
  誓いのあとの せつなさが
  杏(あんず)の幹に 残る町

2 二人の家の 白壁が
  ならんで浮かぶ 堀の水
  忘れない
  どこへ行っても忘れない
  忘れない
  小指でとかす 黒髪の
  かおりに甘く 揺れた町

3 あれから春が また秋が
  流れていまは 遠い町
  帰れない
  帰りたいけど帰れない
  帰れない
  夕焼け雲の その下で
  ひとりの酒に 偲ぶ町

《蛇足》昭和51年(1976)3月20日、ミノルフォンから発売。

 敗戦後から高度成長期にかけて、多くの若者が地方から東京などの大都会に出てきました。その多くが、懐郷の思いに胸を熱くし、心を寄せていた故郷の女性に思いをはせました。
 この歌や、『別れの一本杉』『丘にのぼりて』『帰ろかな』なども、
そうしたセンチメントをテーマとしています。

 夕焼けはきれいですが、夕暮れは赤ん坊と老人を不安にさせます。
 赤ん坊のなかには、生後3か月あたりから、毎日、夕暮れ時になると、泣き出す子がいます。
どこかが痛いとかおなかがすいたなど、はっきりした理由がないのに、ほぼ決まった時間に泣き出すのです。うちの長女がそうでした。
 これを「黄昏泣き
(コリック)」というそうです。

 黄昏泣きの理由はよくわかっていませんが、私は、すぐに来る夜という未知の時間への不安からではないかと思います。

 老人も、人生の黄昏時にはよく泣きます。赤ちゃんは声を出して泣きますが、老人は心の中で息を潜めて泣きます。泣いているつもりはなくても、よくわからないモヤモヤを感じているときとか、わけもなく寂しいときは、実は黄昏泣きしているのです。
 これも、来たるべき"長い夜"への不安がそうさせるのでしょう。

 赤ちゃんの場合は、10時間ほどで朝が来て、それを繰り返すうちに夜に慣れます。いっぽう、老人に遅かれ早かれ訪れる"夜"は、明けるのか明けないのか全然わからず、それゆえ、それに慣れる機会がありません。死んだ人に訊くわけにもいきませんしね。

 ま、夕焼けを見ても、不安を感じることなく、ただ美しいと感じていた遠い青春時代を思い起こして、心を慰めましょう。

(二木紘三)

御身を愛す

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作詞:Karl Friedrich Herrosee、作曲:Ludwig van Beethoven
日本語詞:堀内敬三

愛する思いは 朝夕たえず
二つの心は 離るる日なし

なやみも涙も 互いに慰め
憂きも楽しきも 共にわかたん
君と共に

いとおしの君よ
まごころ愛でて

御神は君をば 護り給(たま)わめ
御神は我等を 恵み給わめ
恵み給わめ 我等を


   Ich Liebe Dich

Ich liebe dich, so wie du mich,   
am Abend und am Morgen,
noch war kein Tag, wo du und ich
nicht teilten unsre Sorgen.

Auch waren sie für dich und mich
geteilt leicht zu ertragen;
du tröstetest im Kummer mich,
ich weint in deine Klagen,
in deine Klagen.

Drum Gottes Segen über dir,
du, meines Lebens Freude,
Gott schütze dich, erhalt dich mir,
schütz und erhalt uns beide,

Gott schütze dich, erhalt dich mir,
schütz und erhalt uns beide,
erhalt, erhalt uns beide,
erhalt uns beide!

《蛇足》 K. F. W.ヘルロッセーの詩"Zärtliche Liebe(優しき愛)" に曲をつけたもの。ヘルロッセーの詩は2節ありましたが、ベートーベンは最初の節だけに作曲しました。求愛の歌です。
 わが国では、原詩のタイトルより、"Ich liebe dich" のほうがよく知られています。

 作曲は1795年、ベートーベン25歳のときだったとされていますが、1797年説、1803年説もあります。楽譜は1803年に、ウィーンで出版されました。

 1795年は、ベートーベンの運命が大きく動き出した年でした。その2年前に、ボンからウィーンに移住し、貴族のサロンにおける即興演奏で評判になっていたベートーベンは、1795年5月、満を持して初めての公演を行いました。このとき演奏した自作のピアノ・コンチェルトによって、作曲家・演奏家としての評価が確立されたのです。
 つまり、この小品は、ベートーベンが波に乗り始めた時期の作品ということになります。

 この曲は、テンポによって印象がかなり違ってきます。発表時のテンポがどうだったかはわかりませんが、速いテンポで演奏・歌唱すると、軽快で素朴な民謡調の曲になり、遅いテンポだと、優雅かつ典麗なイメージになります。
 速めのテンポで演奏・歌唱するのが一般的なようですが、ここでは、堀内敬三の荘重な日本語詞に合うように遅めにしました。

 曲の邦題から、大久保武道・愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)の往復書簡集『われ御身を愛す』(鏡浦書房)を思い出しました。第二の"天国に結ぶ恋"といわれた「天城山心中」(昭和33年〈1958〉)の2人で、痛ましい事件でした。これに触れると、ベートーベンの曲より、こっち関係の投稿が多くなりそうだと思いつつ、つい書いてしまいました。

(二木紘三)

いのちの限り

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作詞:矢野 亮、作曲:江□浩司、唄:大津美子

1 愛していたけれど 何も言わないで
  あの人とあの人と 別れて来たの
  泣かないで 泣かないで
  涙をこらえて
  ラブユー ラブユー いつまでも
  いのちの限り

2 楽しいその後(あと)は 嘆きが来ると言う
  何時(いつ)からか何時からか きまった運命(さだめ)
  諦めて 諦めて
  あてない希望(のぞみ)
  ラブユー ラブユー いつまでも
  いのちの限り

3 はかなく燃えつきた 二人の恋の火よ
  それだけでそれだけで 幸福(しあわせ)でした
  ただ一人 ただ一人
  想い出あたため
  ラブユー ラブユー いつまでも
  いのちの限り

《蛇足》昭和32年(1957)にキングレコードから発売され、大津美子の代表曲の1つになりました。

 大津美子には、国内にとどまらず、ハワイや東南アジア各国でも大ヒットした『ここに幸あり』という名曲があるほか、『東京アンナ』『銀座の蝶』といった夜の世界を歌ったヒット曲があります。

 昭和32年の流行語:よろめき、グラマー、ストレス、パートタイム、何と申しましょうか、神武景気、三種の神器(白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)

 なお、天童よしみの歌で平成18年(2006)1月に発売された『いのちの限り』(荒木とよひさ作詞、水森英夫作曲)という同名の曲がありますが、こちらは四七抜きの演歌。

(二木紘三)

マロニエに降る雨

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作詞:白鳥省吾、作曲:古関裕而、唄:坂元芳子/安藤まり子

1 きみ見しや
  マロニエに降る 冬の雨
  おおかたの 葉は散り失せて
  わびしき冬の 黄昏を
  しみじみと 雨は降る 降る

2 きみ見しや
  お濠に浮かぶ かもめどり
  ときわなる 緑のまつも
  ぬれにぞぬれる 黄昏を
  しみじみと 雨は降る 降る

3 きみ見しや
  マロニエに降る 冬の雨
  寄り添える 若人の影
  憂いもたのし 黄昏を
  しみじみと 雨は降る 降る

《蛇足》昭和28年(1953)1月に放送されたNHKラジオ歌謡。
 叙景歌の傑作ですが、少しあとに放送されてヒットした『雪の降る町を』の陰に隠れて、あまり目立ちませんでした。知っている人は少ないと思います。

 雨の音を表現する分散和音が印象的。
 2番から、皇居のあたりを歌った曲と思われますが、お濠端には今もマロニエ
(セイヨウトチノキ)は植わっているのでしょうか。

 白鳥省吾は宮城県生まれ(明治23年〈1890〉-昭和48年〈1973〉)。旧制中学時代から詩を書き始め、早稲田大学在学中に詩集を出版して、詩壇・文壇にデビューしました。
 アメリカの詩人・ホイットマンに傾倒し、その作品を多数翻訳したことでも知られています。自然や人間愛を歌った作品を多く書き、"民衆派詩人"と呼ばれました。

 『星影のワルツ』を作詞した詩人の白鳥園枝は次女。

(二木紘三)


雨(三善英史)

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作詞:千家和也、作曲:浜 圭介、唄:三善英史

1 雨にぬれながら たたずむ人がいる
  傘の花が咲く 土曜の昼さがり
  約束した時間だけが 体をすりぬける
  道行く人は誰一人も 見向きもしない
  恋はいつの日も 捧げるものだから
  じっと耐えるのが つとめと信じてる

2 雨にうたれても まだ待つ人がいる
  人の数が減る 土曜の昼さがり
  約束した言葉だけを 幾度もかみしめて
  追い越す人にこずかれても 身動きしない
  恋はいつの日も はかないものだから
  じっと耐えるのが つとめと信じてる

  約束した心だけが 涙によみがえる
  見知らぬ人があわれんでも 答えもしない
  恋はいつの日も 悲しいものだから
  じっと耐えるのが つとめと信じてる

《蛇足》昭和47年(1972)5月25日にビクターエンタテインメントから発売。
 三善英史
(みよし・えいじ)のデビュー曲ですが、それがいきなり大ヒット。第14回日本レコード大賞・新人賞、新宿音楽祭・銀賞、第3回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞と、いくつもの賞を獲得しました。

 なかなか来ない恋人を待ちながら、同じように誰かを待ち続けている人を見ている、といった光景です。
 どういう人をどんな状況で待つかによってかなり違いますが、人を待つことには一種の歓びがあります。
 私は、遠方から来るひとを、立ったまま2時間近く待ったことがあります。今か今かと待つその一瞬一瞬が甘美なときめきに満ちていました。諦めて下宿に帰ると、「鉄道事故で行けない」という電報が来ていました。旧国鉄の戦後5大事故のうち、5番目が起こった日でした。

(二木紘三)

夜のタンゴ

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Hans Fritz Beckmann、作曲:Hans Otto Borgmann、
日本語詞:門田ゆたか

1 小夜更けて 懐かしのタンゴ
  遠く響けば 胸は躍る
  若き日の 我が喜びの
  夢を偲びて くるうばかり
  時は流れ 花の色香も
  うつろう時も 甘き香り
  とこしえに 変わらぬ夢を
  風に乗せくる 夜の調べ

2 紫の 夜のみそらに
  星がまたたき 交わす頃よ
  遙かなる 我が憧れの
  夢はさやかな 月のごとく
  闇をてらし 今も昔も
  心にかげる 雲をはらす
  夢のように うたかたならぬ
  夢を乗せくる 夜のタンゴよ

     Tango Notturno

Ich hab' an Dich gedacht
Als der Tango Notturno,
Zwischen Abend und Morgen
Aus der Ferne erklang.

Mein Herz ist aufgewacht,
Weil der Tango Notturno,
Eine zärtliche Kunde
Deiner Liebe mir sang.

Dass du mein Schicksal bist
Hab' voll Glück ich empfunden,
Als in einsamen Stunden
Ich vor Freude geweint.

Ich hab' an Dich gedacht
Als der Tango Notturno,
Mit dem Zauber der Töne
Unsere Herzen vereint.

Wie die Liebe wirklich ist
Das könnt' ich euch erzählen,
Denn ich kenne sie sehr gut,
Ich weiß dass, sie schön ist
Und weiß, wie weh sie oft tut.

Ich hab' manchen Mann geküsst
Und hab' ihn dann vergessen,
Weil ein andrer mich begehrt,
Bis einmal der Zufall
Den richt‘gen Mann mir beschert.

Ich hab' an Dich gedacht
Als der Tango Notturno,
Zwischen Abend und Morgen
Aus der Ferne erklang.

Dass du mein Schicksal bist
Hab' voll Glück ich empfunden,
Und in einsamen Stunden
Ich vor Freude geweint.

《蛇足》ナチス支配下の1937年に作られたドイツ映画『夜のタンゴ(Tango Notturno)の主題歌。
 ドイツ映画なのに、notturnoというイタリア語を使っているのは、タイトルに外国語を入れると、ちょっとかっこいいかも、といった感覚でしょうか。
 notturno
(ノットゥルノ)はnòtte(夜)の形容詞形で、「夜の、夜間の」の意。名詞としては、宗教用語の「夜祷」、音楽用語の「夜想曲、ノクターン」を意味します。ここでは、もちろん形容詞。

 曲はコンチネンタルタンゴの名曲の1つで、主演のポーラ・ネグリも歌っていますが、世界的に有名になったのは、アルフレッド・ハウゼ楽団の演奏によるところが大です。
 日本では、淡谷のり子、松島詩子、美輪明宏、菅原洋一、鮫島由美子など、非常に多くの歌手が、それぞれの日本語詞で歌っています。
 上の門田ゆたかの歌詞では、稲葉晃などが歌っています。

 映画は、幸福な結婚をしたはずの人妻が、愛児の病死など、いくつもの不幸に見舞われ、さらに夫にあらぬ疑いをかけられて失踪、麻薬におぼれ、娼婦に身を落とす。やがて、自分のまちがいに気づいた夫が救いに来るが、生きる力を失った彼女は自殺してしまう――といった、少々やりきれないメロドラマ。上の写真はその1場面です。

 主演のポーラ・ネグリ(1897-1987)は、ポーランド生まれで、ドイツの映画界で人気を博し、1922年にハリウッドに招かれました。そこでも人気女優となり、チャールズ・チャップリンやルドルフ・ヴァレンティノと浮き名を流しました。
 しかし、
ヴァレンティノの葬儀でのオーバーな悲しみ方やポーランドなまりの英語が嫌われて、人気が低下したため、ドイツの映画界に戻ってそこで再び活躍するようになります。

 ヒトラーに気に入られ、プロパガンダ映画への出演を執拗に求められました。それを嫌ってフランスへ移住、ナチス・ドイツがフランスに侵攻すると、アメリカに戻りました。数本の映画に出演したものの、あまり振るわず、晩年は、裕福な女性の友人に誘われて、テキサス州サンアントニオに移住、そこで満90歳の天寿をまっとうしました。

(二木紘三)

五番街のマリーへ

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:阿久 悠、作曲:都倉俊一、唄:ペドロ&カプリシャス

1 五番街へ行ったならば
  マリーの家へ行き
  どんなくらししているのか
  見て来てほしい
  五番街は古い町で
  昔からの人が
  きっと住んでいると思う
  たずねてほしい
  マリーという娘と
  遠い昔にくらし
  悲しい思いをさせた
  それだけが気がかり
  五番街でうわさをきいて
  もしも嫁に行って
  今がとてもしあわせなら
  寄らずにほしい

2 五番街へ行ったならば
  マリーの家へ行き
  どんなくらししているのか
  見て来てほしい
  五番街で住んだ頃は
  長い髪をしてた
  可愛いマリー 今はどうか
  しらせてほしい
  マリーという娘と
  遠い昔にくらし
  悲しい思いをさせた
  それだけが気がかり
  五番街は近いけれど
  とても遠いところ
  悪いけれどそんな思い
  察してほしい

《蛇足》昭和48年(1973)10月25日に発売された日本のバンド、ペドロ&カプリシャスのシングル。同年3月10日に発売された『ジョニーへの伝言』に続く大ヒットとなりました。ヴォーカルは、両方とも高橋まり。

 高橋まりは昭和53年(1978)にペドロ&カプリシャスを脱退し、髙橋真梨子(髙は"はしごだか")としてソロ活動を開始、現在も旺盛な音楽活動を行っています。

 『ジョニーへの伝言』も『五番街のマリーへ』も、1960年代以前のアメリカン・ポップスのテイストを感じさせる作品。
 五番街は、Fifth Avenueまたは5th Avenueと表記され、ニューヨーク市の中心、マンハッタンをほぼ南北に走る4~8車線の大通りです。
とくに34丁目と59丁目の間は、パリのシャンゼリゼ通りなどと並ぶ世界最高級の商店街になっています。世界各地にある五番街と呼ばれる通りやショッピングセンターの本家です。

 詞は、昔同棲していた恋人のようすを探ってきてほしいと友人に頼む内容です。自分で訪ねていかないのは、何か会えない事情があるか、あるいは別れたからには、あとを引いたりせず、きっぱり絶縁するという気持ちがあるからでしょう。
 しかし、恋の記憶は脳の深いところに保存されていて、折に触れて表に出てきます。その都度、彼女が今幸せに暮らしているか、困難な状況にいたりはしないかと気になるのです。そこで、消息を調べてきてほしいと
友人に頼んだわけです。このへんのところ、身に染みますねえ。

 五番街は約12キロメートルもある長い通りですから、マリーの家が五番街のどのあたりにあるのかわかりません。私は、南の起点、ワシントン・スクエア公園の近くではないかと想像しました。

 『ワシントン広場の夜は更けて』でも少し触れましたが、この公園を含む一帯はグリニッチ・ヴィレッジと呼ばれ、1950年代までは、東海岸におけるビート・ジェネレーションやカウンターカルチャーの中心地で、若いミュージシャンや作家、詩人、美術家が多く住んでいました。
 
私は、『五番街のマリーへ』の2人が、この時代にグリニッジ・ヴィレッジのどこかで同棲していたら絵になるな、と思ったのです。 

 グリニッジ・ヴィレッジは、その後、高級化が進んだため、アーティストたちはソーホーなどに移動しました。そのころから、ビート・ジェネレーションやカウンターカルチャーはエネルギーを失い始めました。

 『五番街のマリーへ』がヒットしたころ、そのメロディラインがスコットランド民謡『ロック(ロッホ)・ローモンド』に似ていると話題になりました。確かに、真ん中の「マリーという娘……気がかり」を除けば、かなりよく似ています。
 私は、『五番街のマリーへ』の歌詞を『ロック・ローモンド』のメロディに合わせて歌ってみましたが、あまり違和感なく歌えました。都倉俊一作曲『五番街のマリーへ』との情感のずれもほとんどなかったように思います。

(二木紘三)

野球小僧

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:灰田勝彦

1 野球小僧に 逢ったかい
  男らしくて 純情で
  燃える憧れ スタンドで
  じっと見てたよ 背番号
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

2 野球小僧は ウデ自慢
  凄いピッチャーで バッターで
  街の空地じゃ 売れた顔
  運が良ければ ルーキーに
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

3 野球小僧が なぜくさる
  泣くな野球の 神様も
  たまにゃ三振 エラーもする
  ゲーム捨てるな 頑張ろう
  僕のようだね 君のよう
  オオ マイ・ボーイ
  朗らかな 朗らかな
  野球小僧

《蛇足》昭和26年(1951)の大映映画『歌う野球小僧』(渡辺邦男監督)の主題歌で、レコードはビクターから発売されました。

 無類の野球好きだった灰田勝彦が、久米正雄の新聞小説をもとに企画し、自ら主演を務めたミュージカル仕立ての野球映画。
 小僧というと男の子を思い浮かべますが、この映画での小僧は、商店などで御用聞き
(注文取り)や配達などをする青少年のこと。『サザエさん』に出てくる三河屋の三郎さんのような若者ですね。もちろん、中学を卒業したばかりのような少年もいました。

 灰田勝彦が演じたみなしごの早田克太も、叔父のクリーニング屋で働く店員でした。映画は、早田克太がエースで四番を務める小僧チームが強豪のライバルチームと戦って勝つという筋書き。たわいないといえばそれまでですが、まあ、明るく楽しい映画です。

 灰田勝彦は、その人好きのする性格から人脈が広く、野球界にも友人・知人が何人もいました。その縁で、毎日オリオンズや大映スターズの選手たちが出ています。

 野球といえば、小学校低学年のころは、三角ベースをよくやりました。塁が本塁・一塁・二塁の3つだけだったので、三角ベースといったのです。
 ピッチャーが下手投げで投げたゴムボールをバッターが手のひらで打つ、というのが基本ルールで、そのほかのルールは、参加人数によって適宜変わりました。道具はゴムボールだけで、ちょっとした空き地があればできました。貧しかった時代の子どもの遊びです。

(二木紘三)

黒い花びら

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:永 六輔、作曲:中村八大、唄:水原 弘

1 黒い花びら 静かに散った
  あの人は帰らぬ 遠い夢
  俺は知ってる 恋の悲しさ
  恋の苦しさ
  だから だから もう恋なんか
  したくない したくないのさ

       (間奏)

2 黒い花びら 涙にうかべ
  今は亡いあの人 ああ 初恋
  俺は知ってる 恋の淋しさ
  恋の切なさ
  だから だから もう恋なんか
  したくない したくないのさ

《蛇足》昭和34年(1959)7月に東芝レコード(のち東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)から発売。
 のちに数々の大ヒット曲を生んだ"六・八コンビ"こと永六輔と中村八大のコラボによる最初の作品であり、伝説の破滅型歌手・水原弘のデビュー・シングルであり、かつ第1回日本レコード大賞の受賞作品でもあります。

 『黒い花びら』の誕生については、次のような話が伝わっています。
 ジャズの芸術性追究に行き詰まり、スランプに陥っていた中村八大は、相談のためにかつてのバンド仲間、渡辺晋
を訪ねました。渡辺晋は渡辺プロダクションを主宰し、芸能界に大きな力を持っていました。
 路線の違いから、一度は袂を分かった2人でしたが、渡辺晋は、すぐに東宝のプロデューサー・山本紫郎を紹介してくれました。

 当時は、渡辺の妻で渡辺プロダクションの副社長・渡辺美佐が仕掛けた『日劇ウエスタンカーニバル』が大人気で、若い世代にロカビリー・ブームが続いていました。その人気に便乗しようと、東宝が企画したのが、夏木陽介を主演に据えた『青春を賭けろ』でした。
 この映画にはいくつかの曲を入れる計画でしたが、アメリカのヒット曲を使えば高い使用料を取られるので、すべてオリジナル曲で行こう、という話になっていました。そして、ロカビリー世代にアピールする曲を作れる者がいないかという相談が渡辺晋のところに来ていたのです。

 渡辺から紹介を受けた山本紫郎は、中村八大を知らなかったので、力量を見るために、翌日までに歌詞のついた作品を10曲作ってくるよう求めました。
 1日で10曲作るだけでも難題ですが、もっと困ったのが、ジャズ一筋でやってきた中村には、作詞家に伝手がまったくなかったことです。途方に暮れて道を歩いていると、ばったり会ったのが面識のある永六輔でした。
 中村が文化放送のジャズ番組でパーソナリティを務めていたとき、永も放送作家として関わっていたのです。
 中村が事情を話して協力を頼むと、作詞の経験が皆無だったにもかかわらず、永は「それはおもしろいね、やろうよ」とすぐ引き受けました。

 2人はその足で中村のマンションに行き、曲作りにかかりました。それは、たとえば明るい曲、暗い曲といったテーマだけ決めて、中村はメロディ、永は詞を別々に作るというユニークな方法でした。
 それぞれが10曲分作ったあと、この曲にはこの詞が合いそうだ、この詞ならこの曲がいいだろう、といったふうに話し合い、そのあとで曲または詞を歌えるように手直ししたのです。
 直しと並行して、中村が編曲して曲を仕上げていき、事前に呼んであった3人の写譜屋にオーケストラ用の譜面を作ってもらいました。

 中村は次の日、突貫作業で作った10曲を持って東宝撮影所の直行、山本に楽譜を手渡しました。作品が認められて、中村は『青春を賭けろ』の音楽監督に採用されました。
 映画の主題歌には、『青春を賭けろ』と『黒い花びら』が採用されました。最初は夏木陽介に歌わせる予定でしたが、曲調が変わっているので、彼には合わないだろう、ということになりました。
 『青春を賭けろ』はロカビリーだし、『黒い花びら』は3連符を多用したロッカバラード風のアレンジだったので、通常の歌謡曲とは違う独特の味わいを出せる歌手が必要だったからです。

 そこで中村八大は、自分が出演していた銀座のジャズ喫茶『サンボ』に、ロカビリーでデビューした歌手たちを集めて、『黒い花びら』を歌わせてみました。そのなかで、群を抜いてうまかったのが水原弘でした。即座に起用決定。

 『黒い花びら』をA面、『青春を賭けろ』をB面として、6月にレコーディング、続いて東芝レコードで営業会議。
 営業マンたちへの受けはあまりよくなく、曲はいいが、個性的すぎて一般向きではないということで、最初の発売は2000枚と決められました。全国に1500店あまりあったレコー店の数から見ると、これはあまりに低い数字でした。
 ところが、そのレコードは、7月の発売直後から驚くほどの売れ行きを示し、映画『青春を賭けろ』が封切られると、いっそう勢いが増しました。
 そして、この年に創設された『日本レコード大賞』の大賞を受賞。

 日本レコード大賞は、今でこそ存在感が薄くなりましたが、古賀政男や服部良一が主導して、「新しい日本の歌を作ろう」という趣旨のもとに設けられたもので、歌謡界では最高の賞でした。
 この年には、ペギー葉山『南国土佐を後にして』、村田英雄『人生劇場
(再)』、フランク永井『夜霧に消えたチャコ』、三橋美智也『古城』、フランク永井・松尾和子『東京ナイトクラブ』、三波春夫『大利根無情』、スリー・キャッツ『黄色いさくらんぼ』、春日八郎『山の吊橋』など、挙げきれないほどのヒット曲がありましたが、受賞したのは『黒い花びら』でした。

 「く~ろい花びら……」という意表を突く歌い出し、遠くを見るかのように上目遣いの表情、ところどころしわがれ声になる歌い方。恋人を失ったというありふれたテーマでありながら、こうした演出が虚無的な悲哀感を醸し出し、それが日本レコード大賞創設の趣旨に合致したのでしょう。
 この受賞によって、売れ行きはさらに伸び、30万枚を超える大ヒットとなりました。
 翌昭和35年
(1960)、この曲をモチーフとした映画が東宝で制作され、水原弘が主演を務めました。以後、彼は映画俳優としても活躍することになります。

 さて、その水原弘ですが、いろいろな意味で希有の歌手といっていいでしょう。酒豪、浪費、放蕩、無頼、賭博中毒……これらは、水原弘について書かれた文献には、必ずで出てくる言葉です。
 山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスに続くロカビリーの第二世代としてステージ・デビューしたころから、すでに乱脈な生活ぶりが現れていました。『黒い花びら』でスターになると、それが急激にエスカレートしました。

 その放蕩無頼ぶりは、勝新太郎に私淑することによって、いっそう昂進しました。
 勝新太郎のモットーは、「芸人は、自分が稼いだ金は自分についてきてくれた者たちに散財すべきだ。しかも、落ち目になったからといって控えるようではだめだ」で、彼自身、そのとおりの豪放な散財を続け、その結果巨額の借財を遺しました。

 水原弘は、そうした勝新太郎の生き方をなぞるかのように、放埒な生活を続けますが、やがてその生活にも翳りが生じてきました。ヒット曲が出なくなり、歌で売れなくなれば、映画界からのオファーもなくなります。
 当然収入は激減しますが、取り巻きを連れての派手な飲み歩きや博打は止めませんでした。出演料の前借り、友人からの借金、それもできなくなると、ヤミ金融から高利の金を借りて豪遊を続けました。

 昭和39年(1964)5月、水原弘は神奈川県の綱島温泉で開帳された賭博で、50万円巻き上げられました。それが警察に知られたことから、参考人として呼ばれました。賭博常習者で、裏社会とも関わりがあることが報道されると、仕事は次々とキャンセルされました。

 水原の没後、このころのことが祥伝社の女性週刊誌『微笑』昭和53年(1978)7月29日号に書かれています。その一部を紹介しましょう。

……歌と酒の日々。その遊びは"役者の勝か、歌の水原か"と、喧伝されるほど徹底したものだった。見も知らぬ男たちを引き連れて銀座のクラブからクラブへと渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は確実にあけた。関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も飲んだことさえあった。(中略)人気が続いている間は、それでよかった。しかし、芸能界の常、やがて人気は低迷する。それまで彼をちやほやしていた人も、1人、2人と彼の側から離れていく。さびしかった。人間の底にある"イヤシサ"に、彼は絶望した。その絶望、怒りを紛らすために、彼はまた酒を浴びた。

 しかし、芸能界から追放された彼を見捨てず、その卓越した歌唱力を惜しむ人たちがいました。元マネージャーの長良じゅん、東芝レコードのディレクター・名和治良、『スポーツニッポン』の記者・小西良太郎などです。
 彼らは、気むずかしいことで知られた作家・作詞家の川内康範を口説き落として詞を書いてもらい、新進作曲家の猪俣公章に作曲させました。こうしてできたのが、『君こそわが命』です。『黒い花びら』を陰の歌とすれば、それは
朗々と歌い上げる陽の歌でした。

 メンバーは、曲の制作前から、さまざまなプロモーションを行い、水原弘をマスコミに取り上げもらうよう各方面に手を打ちました。
 レコーディングは、たった3分37秒の曲に12時間かけるという、前例のないものでした。水原弘は、何度も癇癪を起こしながらも、最後にはパンツ1つになるほど汗みどろになって歌ったといいます。

 こうした努力は、みごとに実を結びました。昭和42年(1967)2月にリリースされると、初日から売り切れ店が続出し、数か月で100万枚を超える売り上げとなりました。
 そして、その年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。芸能界を閉め出されてから2年目、まさに"奇跡のカムバック"でした。

 しかし、水原の放埒な生活ぶりは収まりませんでした。取り巻きを連れての毎夜の豪遊、大酒。これでは、いくら収入があっても足りません。しかも、彼には以前からの数千万円に及ぶ借金がありました。闇金から借りて別の闇金に返すという自転車操業。

 借金は生活を崩壊させ、大酒は体をむしばみます。アルコール性の急性肝炎で何度も入院し、それが慢性肝炎に移行、やがて肝硬変を発症しました。病院で大量の吐血を繰り返した末、昭和53年(1978)7月5日永眠。カムバックしてから11年目、42歳の若さでした。
 戦後の歌謡史に記録されるレジェンドの1人です。

(二木紘三)

山の吊橋

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:作詞:横井 弘、作曲:吉田矢健治、唄:春日八郎

1 山の吊橋ぁ どなたが通る
  せがれなくした 鉄砲うちが
  話相手の 犬つれて
  熊のおやじを みやげにすると
  鉄砲ひとなで して通る
  ホレ ユーラユラ

2 山の吊橋ぁ どなたが通る
  遠い都へ 離れた人を
  そっと偲びに 村娘
  谷の瀬音が 心にしむか
  涙ひとふき して通る
  ホレ ユーラユラ

3 山の吊橋ぁ どなたが通る
  酒がきれたか 背中をまるめ
  のんべェ炭焼き 急ぎ足
  月をたよりに 枯れ葉のように
  くしゃみ続けて して通る
  ホレ ユーラユラ

《蛇足》昭和34年(1959)9月、キングレコードから発売。
 
この年、私は高校2年で、高校3年の夏過ぎまで、最も野放図に遊び、本を読み、映画を見まくった時期でした。

 この年は、日米安全保障条約の改定を巡って社会は騒然とし始めており、皇太子の成婚パレードが行われ、伊勢湾台風で5000人あまりが亡くなり、水俣病に怒った漁民たちが新日本窒素水俣工場に突入した年でもありました。
 『少年サンデー』『少年マガジン」が創刊され、「大学生がマンガを読むとは……」と非難・嘲笑される素地ができました。マンガやアニメが日本文化の1つになった今では、
マンガを読む大学生が当時なぜ非難・嘲笑されたかわかる者はほとんどいないでしょう。

 『山の吊橋』の歌詞は、鳥獣の数や生態を調べるために設置された定点観測カメラの映像を見るかのようです。
 その映像には、朝、吊橋を渡っていく猟師、昼、恋人を偲びにやってきて涙を流す村娘、夜、酒を買いに渡ってくる炭焼き……そんな光景がたまたま映っていたといったふうです。

 1番の「せがれなくした」から、息子は戦死したというイメージが浮かんできます。敗戦から14年経っているのに、歌にはまだ戦争の影が尾を引いているようです。

(二木紘三)

お使いは自転車に乗って

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:上山雅輔、作曲:鈴木静一、唄:轟夕起子

1 お使いは 自転車で
  気軽に行きましょ
  並木路 そよ風 明るい青空
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  あの町 この道
  チリリリリン リン

2 そよ風が 頬っぺたを
  そっと撫でてゆくよ
  お日様もあの空で 笑って見ています
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  籠を小脇に ちょいと抱え
  チリリリリン リン

3 雨の日も 風の日も
  どんな天気の日も
  私は元気に 市場がよい
  お使いは自転車に乗って 颯爽と
  あの町 この道
  チリリリリン リン

4 私はすこやかな
  すこやかな娘
  気軽で元気で 明るい心
  いつもいつも 自転車に乗って
  飛んで歩くけど
  心はしとやかな 花のハナ子

《蛇足》昭和18年(1943)4月にコロムビアから発売。
 この楽しく朗らかな歌が、太平洋戦争まっただ中に発売されたと聞くと、びっくりします。軍部が
嘘の大本営発表で国民をたばかっていた昭和17年(1942)には、まだ『新雪』とか『森の水車』など明るくさわやかな歌が発表されていました。

 しかし、日本の敗色が明らかになってきた翌年から、締め付けがいっそう強まり、軍歌や戦意高揚歌一色になってきました。そうした状況のなかで、戦争の重圧を吹き飛ばすかのようなこの歌が発表され、庶民の心を癒やしたのでした。
 ただし、この歌も戦意高揚や戦争協力に深く関わった歌です。

 昭和18年2月25日、マキノ正博(のちに何度か改名)監督による映画『ハナ子さん』が公開されました。雑誌『主婦之友』に連載された杉浦幸雄のマンガ『銃後のハナ子さん』を原作にして、ミュージカル仕立てで作られました。
 陽気で活発なハナ子さんを中心に、隣組の住人たちが戦費調達に協力し、出征兵士を明るく送り出し、空襲に対処するといった生活が描かれています。上の写真は、その一場面です。
 この映画の主題歌が、『お使いは自転車に乗って』でした。
マキノ正博の妻で、主演の轟(とどろき)夕起子が歌いました。

 戦後の昭和22年(1947)、NHKラジオ歌謡として放送され、人びとに希望を抱かせるのに一役買いました。歌自体には戦時色がなかったのがよかったのでしょう。『リンゴの歌』や『青い山脈』などとともに、敗戦後の歌謡史を彩る歌の1つになりました。

 右の絵は2018年の年賀状に使ったものです。
Jitensha ずーっと昔、連れ合いの両親に、お二人の娘さんはこんな日々を送っていますよと知らせたくて、絵に短文をつけた葉書を何回か送りました。『寒い朝』に入れた絵も、そのうちの1つです。稚拙な絵ですが、大変喜んでもらいました。
 今回は、年賀状用の適当な絵柄が浮かばなかったので、そのうちの1枚を流用しました。ただし、空のグラデーションだけPhotoshopで手直ししました。

(二木紘三)


時代

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:中島みゆき

今はこんなに悲しくて
涙も枯れはてて
もう二度と笑顔には
なれそうもないけど

そんな時代もあったねと
いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれかわってめぐり会うよ

旅を続ける人々は
いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ 時代はめぐる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ

まわるまわるよ 時代はまわる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ

《蛇足》昭和50年(1975)10月12日、『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』で発表され、グランプリ受賞。同年11月16日の『第6回世界歌謡祭』でもグランプリを受賞しました。両方とも、ヤマハ音楽振興会主催のイベントです。

 録音盤の発売は同年の12月21日で、EPレコードとCDがキャニオン・レコードから同時発売されました。中島みゆきの2枚目のシングルです。
 『傷ついた翼』も収録されています。『つま恋本選会』では、最初『傷ついた翼』を歌う予定でしたが、直前に『時代』に差し替えられました。

 「まわるまわるよ 時代はまわる」というヴァースとメロディが印象的で、今日に至るまで20万枚以上を売るヒットとなりました。
 恋人を失ったり、人生につまづいたりしても、めげずに生きていれば、また気力を取り戻すときが来るさ、と優しく励ましてくれる歌です。

(二木紘三)

愛ちゃんはお嫁に

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作詞:作詞:原 俊雄、作曲:村沢良介、唄:鈴木三重子

1 さようなら さようなら 今日限り
  愛ちゃんは太郎の 嫁になる
  俺らのこころを 知りながら
  でしゃばりお米に 手を引かれ
  愛ちゃんは太郎の 嫁になる

2 さようなら さようなら 悲しい日
  愛ちゃんは俺らに 嘘ついた
  嘘とは知らずに まにうけて
  夢を見ていた あまい夢
  愛ちゃんは俺らに 嘘ついた

3 さようなら さようなら 遠ざかる
  愛ちゃんは太郎と しあわせに
  なみだをこらえりゃ はらはらと
  ひと雨キツネの お嫁入り
  愛ちゃんは太郎と しあわせに

《蛇足》昭和31年(1956)5月、テイチクより発売。
 大ヒットしたので、日活が映画化しました。公開は翌年の4月10日。

 「愛ちゃんは俺らに嘘ついた」とありますが、このあたりは微妙ですな。はっきり心変わりされたという場合もありますが、好感を示したにすぎない言葉を、「好きだ」と受け取ったという場合もあります。若いときほど、早とちりしがちです。

 ウチの次女も"愛ちゃん"です。大学を出て2年目に、勝手に相手を見つけて、とっとと嫁にいってしまいました。その娘も、すでにアラフィフ。
 「おーい、愛ちゃ~ん、帰ってきてもいいんだよー」

(二木紘三

おおブレネリ

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


スイス民謡、日本語詞:松田 稔、補詞:東大音感合唱研究会

1 おおブレネリ あなたのお家はどこ
  わたしのお家は スイッツランドよ
  きれいな湖水の ほとりなのよ
   ※ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ
    ヤッホ ホトゥラララ ヤッホホ

2 おおブレネリ あなたの仕事はなに
  わたしの仕事は 羊飼いよ
  おおかみ出るので こわいのよ
   ※(繰り返す)

3 おおブレネリ わたしの腕をごらん
  明るいスイスを つくるため
  おおかみかならず 追い払う
   ※(繰り返す)

4 おおブレネリ ごらんよスイッツランドを
  自由を求めて 起ち上がる
  たくましいみんなの 足どりよ
   ※(繰り返す)


(原詞:Zyboeri)
   O Meiteli, liebs Meiteli
O meiteli, liebs Meiteli, wo hesch au du dis Hei ?
“Es liid im liebe Schwyzerland und ist vo Holz unt Stei,
Wenn’s waetteret, wenn’s broenneret, so schlods bi eus nid i,
Es mueesst au gar e boese Sturm, es Grebelwaetter si !”
   Di-ri-ril-lel-lal-lal-la …

O Meiteli, liebs Meiteli, wo hesch au dis Haerz ?
“Es ist mir huett abhande cho, i gspuere no de Schmaerz.
Si hend pfifelet, hand truemmelet und’s Schwyzerfaehndli gshwaenkt,
do ha-n-is der erste Freud im Traengtrommpeter gschaenkt.”
   Di-ri-ril-lel-lal-lal-la …

O Meiteli, liebs Meiteli, wo hesch au di Verstand ?
“Dae ha-n-i au zum Haerzli gae, ’s gohd bedes mieteinand.
Und chond er nid und will er nid, so isschs am Aend jo gliich.
Und gib i ke Soldatefrau, huerote tue-n-i gliich.”
   Di-ri-ril-lel-lal-lal-la …

(英語詞)
O Vreneli, my pretty one, pray tell me, where's your home?
"My home it is in Switzerland, It's made of wood and stone."
    Yo ho ho, tra la la la...

O Vreneli, my pretty one, pray tell me, where's your heart?
"O that," she said, "I gave away, But still I feel it smart."
    Yo ho ho, tra la la la...

O Vreneli, my pretty one, pray tell me, where's your head?
"My head I also gave away, It's with my heart," she said.
    Yo ho ho, tra la la la...

(注:各聯1行目にあるprayは「どうぞ」の意)

《蛇足》敗戦後、キャンプやハイキングなどの際に歌われ、歌声喫茶での愛唱曲の1つとなり、音楽の教科書にも載ったので、たいていの人が知っていると思います。
 日本では代表的なスイス民謡とされていますが、本国での位置はかなり曖昧です。

 ツィベリ(Zyboeri)というスイス国民軍の中尉が、古いスイス民謡に新たに歌詞をつけた"O Meiteli, liebs Meiteli(オオ メイテリ、リープス メイテリ)"が原曲。
 ツィベリは1910年、この曲をシートミュージックとしてルツェルンで出版しました。しかし、ほとんど売れず、レコーディングもされませんでした。第一次大戦中に国境を守る同僚に贈ったところ、兵士たちに愛唱されたという話が伝わっている程度です。

 原詞はドイツ語で書かれていますが、スイスのドイツ語は標準ドイツ語(高地ドイツ語)とは相当異なっています。日本でいうと、標準語と鹿児島弁ぐらい違っている感じで、読むのに苦労します。

 タイトルのMeiteliは、Meit(娘)に指小辞の-eliがついたもの。指小辞は、「小さい」と「かわいい」のニュアンスが重なった接尾辞で、標準ドイツ語の-chenや-leinに当たります。
 ですから、Meiteliは「娘さん」で、O Meiteliは今風にいうと「おーい、カノジョォ」ということになりましょうか。

 たまたまこのシートミュージックに目をとめたアメリカ人が故郷に持ち帰りました。それが歌詞・曲とも何度か改作された末、"O Vreneli(オオ ブレネリ)"というタイトルで、ガールスカウトの歌集"Ditty Bag(小曲集)"に収録されました。
 以後、ガールスカウトのみならず、さまざまなレクリエーションの場で歌われるようになりました。

 Vreneliは、スイスの伝統的な女性名Vreni(フレニ)に指小辞の-eliがついたもので、フレニちゃんといった感じになります。
 Vはドイツ語では「フ」なので、フレネリとなるはずですが、日本にはアメリカから入ってきたので、ブレネリで定着したのでしょう。

 英語版の歌詞について見てみましょう。1番には、原詞の意味がかろうじて残されていますが、2番、3番はいくつかのヴァースが省略されて意味が取りにくくなっています。
 これは、訳詞者が、原詞の2番、3番は少年少女が歌うにはふさわしくないと判断したからでしょう。

 たとえば、2番の「私は輜重兵(しちょうへい)のラッパ手に初めての喜びをあげたのよ(do ha-n-is der erste Freud im Traengtrommpeter gschaenkt)」は、あからさまにいえば、処女を捧げたということでしょう。女性が自ら身を捧げたかのようになっていますが、古代から現代に至る軍隊の女性に対する所業を考えると、「……された」というのがほんとうのところしょう。
 そういったことが感じられるので、あえてマザーグースのような意味不明な歌詞にしたのだと思われます。
 なお、英語詞でも、上のものとは別の、意味の通る歌詞がいくつかあるようです。

 この歌が日本に入ってきたのは、昭和24年(1949)です。このころ、日本リクリエーション協会の会長を務めていた松田稔は、アメリカのYMCAからレクリエーション指導のために派遣されてきたR.L.ダーギン(Russel.L. Durgin)から1冊の歌集をもらいました。その歌集に、『おおブレネリ』が掲載されていたのです。

 これはすばらしい歌だというので、松田稔が1番だけに日本語詞をつけて発表したところ、すぐにリクリエーションの集まりや歌声喫茶で歌われるようになりました。さらに、NHKラジオで放送されて、多くの人たちに愛唱されるようになったのです。
 1番だけにしたのは、2番、3番は意味不明で訳しにくかったからでしょう。そのころは、"超訳"といった概念もなかったでしょうし。

 このあたりの事情については、ワイズメンズ国際協会東日本区の会報"Historian's View No.10"に吉田明弘氏が詳しく書いています。ワイズメンズクラブとは、YMCAと連携して奉仕活動を行うキリスト教系の国際団体です。

 松田稔が作ったのは1番だけでしたが、その後東大音感合唱団が3聯付け加えて、4番までとなりました。
 付け加えられた部分は、一見童謡風ですが、このころ盛り上がっていた「うたごえ運動」の趣旨、主張がはっきり読み取れます。

 うたごえ運動は、シベリア抑留中に共産主義の洗礼(洗脳?)を受けた人たちを含め、左翼系の活動家たちによって進められた大衆的政治運動・社会運動で、ロシア民謡(歌謡)や反戦歌、革命歌、労働歌などがよく歌われました。

 そうした歌の1つに『民族独立行動隊の歌』(きしあきら作詞、岡田和夫作曲)があります。
 1番は「民族の自由を守れ/決起せよ祖国の労働者……民族の敵、国を売る犬どもを……」となっています。
 当時日本は連合国、実質的にはアメリカの占領下にあり、GHQ
(連合国軍最高司令部)とそれに追従する政府への闘いを呼びかけた歌でした。その趣旨を童謡風にしたのが、ブレネリの2番以下と見ることができます。

 いっぽう、スイス民謡ということで、14世紀初頭にオーストリアからの独立を勝ち取るために戦ったヴィルヘルム・テルなどの活動を歌ったものではないか、という人もいます。そうだとすると、おおかみはオーストリア代官のゲスラーということになりましょうか。

 日本でもアメリカでもよく知られた歌ですが、本国のスイスではどうも非常に影が薄いようです。
 昭和44年
(1969)、スイスのケルンザー少年合唱団(Kernser Singbuebe)が日本で公演することになった際、日本側から『おおブレネリ』がリクエストされました。
 ところが、スイスではこの歌を知っている人が見つからず、レコードもなかったので、大変困ったそうです。
 たぶんこの歌だろうと思われた歌を一生懸命練習して、本番で歌いましたが、日本人が知っているブレネリとは大幅に違っていたので、不評だったといいます。

 私も、こんな経験をしました。昭和54年(1979)の夏、私の一家は友人の一家とヨーロッパに3週間旅行しました。ルツェルンに滞在していたとき、友人の取引先のスイス人W氏が、マイクロバスでやってきて、ルツェルン周辺の景勝地を案内してくれました。

 その車中で、うちの子ども2人と友人の子ども2人(いずれも小学生)、妻2人が『おおブレネリ』を合唱しました。W氏への感謝のつもりだったのでしょう。
 W氏の反応は意外でした。「スイスのブレネリとはずいぶん違うな」というのです。
 私は、メロディの一部分が違っている程度だろうと思いましたが、彼はどうも
ケルンザー少年合唱団と同様、日本で歌われている『おおブレネリ』は知らなったようでした。
 最近調べたところ、スイスには"Mir alli heisse Vreneli
(みんなわたしをフレネリと呼ぶ)"など、フレネリの付く歌がいくつかあるようです。

 ケルンザー少年合唱団の日本公演から約50年、私たちの旅行から約40年、スイスでは日本・アメリカ風の『おおブレネリ』は歌われるようになったでしょうか。スイス在住の方がいらっしゃったら、教えていただきたいものです。
 なお、ケルンザー少年合唱団は、現在では日本やアメリカのとほぼ同じ『おおブレネリ』をレコーディングし、歌っています。

(二木紘三)

星落秋風五丈原

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


詩:土井晩翠、作曲:不詳

祁山(きざん)悲秋の風更(ふ)けて
陣雲暗し五丈原
零露(れいろ)の文(あや)は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病あつかりき

清渭(せいい)の流れ水やせて
むせぶ非情の秋の声
夜は関山の風泣いて
(やみ)に迷ふかかりがねは
令風霜(れいふうそう)の威もすごく
守るとりでの垣の外
丞相病あつかりき

帳中眠(ねむり)かすかにて
短檠(たんけい)光薄ければ
こゝにも見ゆる秋の色
銀甲堅くよろへども
見よや侍衛(じえい)の面かげに
無限の愁溢るるを
丞相病あつかりき

風塵遠し三尺の
剣は光曇らねど
秋に傷めば松柏(しょうはく)
色もおのづとうつろふを
漢騎十万今さらに
見るや故郷の夢いかに
丞相病あつかりき

夢寐(むび)に忘れぬ君王の
いまはの御(み)こと畏(かしこ)みて
心を焦がし身をつくす
暴露(ばくろ)のつとめ幾とせか
今落葉(らくよう)の雨の音
大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに
丞相病あつかりき

四海の波瀾収まらで
民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく
中原(ちゅうげん)鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病あつかりき

末は黄河の水濁る
三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ
道は衰へ文弊(や)ぶれ
管仲(かんちゅう)去りて九百年
楽毅(がくき)滅びて四百年
誰か王者の治を思ふ
丞相病あつかりき

《蛇足》土井晩翠の長編叙事詩『星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)に曲をつけたもの。作曲者は不明です。

 この詩は、明治32年(1899)に刊行された晩翠の詩集『天地有情』のなかの1つで、とりわけ高く評価された作品です。
 6節から成り、聯数は節によって違いますが、第1節は7聯で構成されています。曲はその最初の3聯につけられています。

 『星落秋風五丈原』は、希代の英傑・諸葛亮孔明の生涯を描いた詩で、全体に流れるトーンは無常感です。その第1節は、蜀漢の運命を一身に背負った孔明の命旦夕(たんせき)に迫り、全軍が打ち沈んでいるようすを描いています。
 言い換えれば、悲愴感が第1節のテーマです。

 私は、この詩に曲がついていると知ったとき、栄枯盛衰を繰り返す人の世の無常を歌った『荒城の月』のようなメロディを想像しました。
 ところが、楽譜を見ると、4分の2拍子で、典型的なぴょんこ節でした。ぴょんこ節とは、1拍を2つの音符で表す場合、付点八分音符と十六分音符で構成する曲で、スウィングするような曲に向いています。

 この曲を、速いテンポで演奏/合唱すると、行進曲のようになってしまいます。実際、この曲を明るく快活な行進曲風に歌っている合唱をYouTubeで聴きました。
 これでは、蜀軍陣営の沈鬱な雰囲気を歌うのではなく、孔明が死にそうだと知って快哉を叫ぶ魏軍の歌に聞こえてしまいます。

 そこで私は、「1拍=八分音符2つ」を基調とする4分の4拍子にして"ぴょんこ度"を弱め、テンポをかなり遅くし、また前奏と間奏を変えました。これで多少曲調が変わったかと思いますが、元のメロディが凡庸なので、悲愴感はあまり出ていないかもしれません。

 第1節では、各聯の末尾がすべて「丞相病あつかりき」になっています。このリフレーンが、蜀が柱石と頼む丞相を失いそうな悲愴感を効果的に表現しています。
 原詩では、
「丞相病あつかりき」の前にアステリスク3つから成る1行が入っていますが、上の歌詞では省略しました。
 第1節以外で
、「丞相病あつかりき」で終わっているのは1か所だけです。

 『三国志』好きの多さでは、日本は中国に劣らないといわれます。たいていの人が、一度は『三国志』を読んでいるのではないでしょうか。
 『三国志』には、正史系と演義系の2系列があります。正史系は文語で書かれた歴史書、演義系は口語で書かれた物語ですが、両者重なり合う部分が多く、とくに明・清以降、両者にあまり違いがなくなってきたといわれます。

 『星落秋風五丈原』の第1節は、孔明による6次にわたる北伐(対魏戦)のうち、最後の戦いのクライマックス場面を描いています。

 第1聯に出てくる「祁山」は甘粛省(かんしゅくしょう)天水(てんすい)の西南50キロにある山で、孔明はここで魏と6度戦いましたが、魏を攻略できませんでした。
 「五丈原」は、陝西省
(せんせいしょう)宝鶏市(ほうけいし)付近の渭水(いすい)南岸にある秦嶺(しんれい)山脈から突き出した台地で、南北約4キロ、東西約1.8キロ。
 台地の最も狭い部分は5丈しかなかったことから、五丈原と呼ばれるようになったといわれます。長さの基準は、時代によって違いますが、三国・西晋の時代では、5丈は約12メートル
(1丈は10尺、1尺は24.2センチ)

 第1聯に祁山と五丈原がいっしょに出てくるので、近いように感じますが、実際には西と東に約250キロ離れています。
 両者がほど近いような印象を受けるのは、羅漢中
(らかんちゅう)の『三国志演義』に、第6次の北伐で蜀軍の本陣が祁山に置かれ、司馬懿(しばい)父子を焼き殺し損ねたあと、五丈原に移った、と書かれているからだろうと思われます。

 「零露」は、草の葉から落ちる露のしずく。それが文(あや)模様のようにびっしり連なっているさまを表現しています。
 「鼓角」は太鼓と角笛で、
軍中の信号用に使われました。角は竹か銅で作られました。

 第2聯の「清渭」は、水が澄んだ渭水の意。渭水は、甘粛省渭源県(いげんけん)の西にある鳥鼠山(ちょうそさん)から流れ出し、潼関県(どうかんけん)で黄河に流れ込みます(黄河が急角度で曲がる部分)
 渭水は、西安市の北東部で涇水
(けいすい)を合わせますが、涇水は黄土高原から流れてくるため、粘土の細粒や細砂を多く含んでいます。そのため、渭水も合流点以東は水が濁っています。
 なお、渭水、
涇水とも、現在では渭河、涇河と表記するのが一般的なようです(涇は簡体字)

 「令風霜」は「令、風霜」で、軍令は秋風や秋霜のように厳しい、という意味。
 「関山」は、関所が置かれた国境の山々。
 「諸営」は、諸方に設けられた砦。初出のテキストでは、諸営ではなく「とりで」と記されています。北伐では、ときに兵を屯田させたほど滞陣が長引いたので、かなりしっかりした砦が設けられたようです。

 第3聯の「帳中」は、寝台を囲む帳(とばり)の中の意。帳は布製の囲い。
 「短檠」は背の低い燭台。
 「銀甲」の「甲」は、かぶとではなくて鎧
(よろい)。したがって、「銀甲」は銀色に輝く金属製の鎧を示します。
 「侍衛」は、孔明の身辺近くで警護する衛兵。

 第4聯の「風塵」は、風に吹き上げられる塵や埃ですが、ここでは戦乱の比喩。
 「三尺の」は、漢の高祖劉邦が「三尺の剣を提
(ひっさ)げて」(『漢書』の高祖紀・下)天下を統一したことを示す言葉。
 「松柏」の柏はヒノキ科の植物一般を指す言葉で、松柏は常緑樹を示します。「三尺の」と合わせると、蜀漢が再び天下を統一するための戦いで、その意志に変わりはないものの、松柏のような強い生命力も衰える時節が来ている、となります。

 第5聯の「夢寐」は、眠って夢を見ること、またその間。
 「君王」は、もちろん劉備玄徳。
 孔明は三顧の礼をもって自分を迎え、存分に手腕を発揮させてくれた劉備に対して、終生義を貫き、忠誠を尽くしました。劉備の息子の劉禅は凡愚の皇帝でしたが、いささかも私心を抱きませんでした。謀反、背信
、反逆、簒奪(さんだつ)が繰り返された中国の王朝史では、希有のことです。
 「暴露のつとめ」は、露に身をさらすような厳しい征戦のこと。

 第6聯の「中原鹿を争ふ」は、通常は「中原に鹿を逐う」と書かれます。
 中原は、中華文明の発祥の地、黄河の中流・下流域を指し、のちに華北平原全体をいうようになりました。この地は、人口が多く、生産力も高かったため、ここを制するものは、中国の覇権が得られるとして、古来王侯・武将の争奪の場となってきました。
 鹿は天下の覇権ないし帝位を象徴しています。
 司馬遷の『史記』のうち『淮陰侯
(わいいんこう)列伝』にある「秦、其の鹿を失い、天下、共に之を逐う」が有名な用例ですが、それ以前にこういう表現があったかどうかは知りません。

 第7聯の「伊周」は、殷(いん)の湯王(とうおう)の宰相、伊尹(いいん)と周の武王・成王の宰相、周公旦(たん)を合わせていったもの。
 中国史では、夏
(か)・殷・周三代の古代王朝が理想の世とされ、伊尹や周公旦が担った王道政治は、どこへ行ってしまったのだろうと嘆いているわけです。
 管仲
(前720年-前645年)は、春秋時代に斉(せい)の桓公(かんこう)に仕えて天下の覇者に押し上げた政治家。
 楽毅
(生没年不明)は、戦国時代に燕(えん)の昭王を扶けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ武将。
 これらの人物が去ってから、王道を行う「帝王の師」はもういないのだろうか、と嘆いています。

 孔明は、西暦234年8月23日に没しました。『星落秋風五丈原』は、最後を次の言葉で結んでいます。

 「千載の末今も尚 名はかんばしき諸葛亮」

(上の写真は現在の五丈原)

(二木紘三)

バラ色の雲

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作詞:橋本 淳、作曲:筒美京平、唄:ヴィレッジ・シンガーズ

バラ色の雲と 思い出をだいて
ぼくは行きたい 君のふるさとへ
野菊をかざった 小舟のかげで
くちづけ交した 海辺の町へ

初めて見つけた 恋のよろこび
君はやさしく 涙をふいていた
バラ色の雲と 思い出をだいて
逢いに行きたい 海辺の町へ

初めて見つけた 恋のよろこび
君はやさしく 涙をふいていた
バラ色の雲と 思い出をだいて
逢いに行きたい 海辺の町へ

逢いに行きたい 海辺の町へ

《蛇足》昭和42年(1967)8月1日に日本コロムビアから発売。レーベルはCBSコロムビア。B面は『輝く星』でした。
 非公式チャートですが、
オリコンで最高2位につけ、60万枚を売り上げるヒットとなりました。

 ヴィレッジ・シンガーズは、昭和42年(1967)前半から2年間ほど、若者たちを熱狂させた、いわゆるGS(グループ・サウンズ)の1つ。
 このころ、長髪やエレキギターは不良の印ということで、大人社会からの風当たりが強く、GSのコンサートに行くことを禁止する中学校や高校が数多くありました。

 そのなかにあって、ヴィレッジ・シンガーズや、その先輩格のジャッキー吉川とブルー・コメッツは、短髪にスーツ・ネクタイ姿で演奏したため、大人たちの受けは比較的よかったようです。

 この曲の出だし、前年に発売されて大ヒットとなった西郷輝彦の『星のフラメンコ』(作詞・作曲:浜口庫之助)に似ているような気がします。メロディの一部が他の曲に似ている例は多く、だからどうということはありませんが。

(二木紘三)

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