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Channel: 二木紘三のうた物語
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コスモス街道

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:竜 真知子、作曲:都倉俊一、唄:狩人

1 バスを降りれば からまつ林
  日除けのおりた 白いレストラン
  秋の避暑地で 出会うひとはみな
  なぜか目を 目を伏せて
  なぜか目を伏せ 歩きます
  コスモスの花は 今でも咲いていますか
  あの日の二人を まだあなたは覚えてますか
  愛されなくても 最後まで
  のぞみを捨てずに いたかった
  右は越後へ行く 北の道
  左は木曽まで行く 中仙道
  続いてる コスモスの道が

2 あなたに賭けた ひとつの季節
  優しい日々は 帰らないけれど
  愛の想い出 そっととり出して
  この胸に 暖めて
  暖めなおす 私です
  コスモスの花は 今でも咲いていますか
  心の支えを 今ひとりでたずねてきたの
  愛されなくても 最後まで
  のぞみを捨てずに いたかった
  右は越後へ行く 北の道
  左は木曽まで行く 中仙道
  続いてる コスモスの道が

《蛇足》昭和52年(1977)8月25日にワーナー・パイオニアから発売。シングルの売り上げは60万枚を記録しました。

 失恋について少しばかり。
 相手が心理的に徐々に遠ざかっていくような状況なら、自分をそれに少しずつ馴らしていくことができます。しかし、相手に急に去られてしまったら、石につまずいたランナーのように、あるいは急停車した電車の中の乗客のように、つんのめり、ときに転倒し、情熱の宛先を見失って惑乱することになります。
 その苦悩を癒やそうと、『エリカの花散るとき』のように恋人の故郷を探したり、この歌のように二人の思い出の場所を訪ねたりします。
 しかし、それはただ情熱の宛先を失ったことを確認するだけで、
苦しみはかえって募る結果になりがちです。 

 苦しさから逃れるために、仮の相手を捜すような一時しのぎはしないほうがいい。傷が消えたように見えても、それは意識の奥に沈潜しているだけで、折に触れ表に出てきて、自分を苦しめます。
 ならば、最初からその苦しみにどっぷり身を浸したほうがいい。苦しみは続いても、時間と心の絶妙の作り替え作用により、十何年か経つと、それは懐かしさに変わります。何十年かのちには、甘美な記憶に変わっている場合さえあります。
 恋を失って苦しんでいる人に
、共感を込めて私はこういいたい。「苦しみ続けなさい。そして待ちなさい。いつになるかはわからないけれど、光はきっと射してくる」と。

 この歌は、軽井沢町の追分あたりを舞台としています。追分には、歌詞にも書かれているように、旧北国街道と旧中山道の分岐点があります。
 中山道は、江戸時代には中仙道とか仲仙道とも書かれましたが、正徳6年
(1716)に幕府の通達により中山道に統一されました。Oiwake_2

 軽井沢、そのなかでも追分は、多くの文人が滞在し、作品の舞台としたところです。とくに堀辰雄は、療養も兼ねて追分の脇本陣だった油屋旅館に何度か滞在しました。
 彼の代表作の1つ『菜穂子』の前半『楡の家』の最初のほうに、次のような記述があります。なお、『楡の家』は単独の作品としても発表されています。

……私はその時ふとお父様がよく浅間山の麓のOという村のことをお褒めになっていたことを思い出した。何でも昔は有名な宿場だったそうだけど、鉄道ができてから急に衰微し出し、今ではやっと二三十軒位しか人家がないと云う、そんなO村に、私は不思議に心を惹かれた。

 『菜穂子』に出てくる三村夫人や『聖家族』の細木(さいき)夫人は、芥川龍之介の14歳年上の恋人、片山広子がモデルだったといわれます。芥川龍之介は、『楡の家』では森於菟彦、『聖家族』では九鬼という名前で登場します。
 片山広子は、歌人・翻訳家で、松村みね子という筆名を使っていました。

 片山広子の娘・総子(ふさこ)は『菜穂子』では菜穂子、『聖家族』では絹子という名前で描かれています。片山総子も、宗瑛という筆名で文筆活動を行っていました。菜穂子の少女時代にO村で交流のあった都築明には、夭折した詩人、立原道造が投影されているようです。また、『聖家族』の河野扁理は堀辰雄自身だというのが定説です。

 フィクションですから、いずれの人物についても、実像とは違います。作者がイメージを膨らます基になったというだけです。

 私は高校1年のとき、『美しい村』を読んで以来、堀辰雄の虜で、今も何度か読み直しています。大学3年のときには、『聖家族』『燃ゆる頬』『眠れる人』をエスペラントに訳して小冊子にまとめました。エスペラントを学び始めて2年半ほどの時期でしたから、ひどい直訳調でしたが、それでも日本エスペラント学会から賞をもらいました。
 今はエスペラントからすっかり離れてしまいましたが、堀辰雄からは離れられずにいます。

(二木紘三)


みじかくも美しく燃え(Elvira Madigan)

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作曲:W. A. Mozart、作詞:岩谷時子、唄:益田宏美

春の陽が輝く朝 あなたと愛を誓い
私たちはみじかくも 美しく燃えた
鳴いてたわ空に雲雀 くちづけ交わしながら
肌をよせて いくたびか歓びの歌を

いつも働いていたわ私たち 若く健やかで
時が過ぎていくのも 忘れてた二人ね
しあわせすぎて
幻にも似た春は何処へいった 私を残して

夕べには楽しい夢 この手に我が子だいて
子守歌をくちずさみ 暮らしてた私
今日も灯の下で語るのは あなたの椅子だけ
子どもたちは出て行く 新しい夢を求め
旅立つの
美しく燃えた春を 忘れないわ
愛しつづけてきた あなただもの
いのちの火が 消えるまで

《蛇足》曲はモーツァルトの『ピアノ・コンチェルト 第二楽章 Andante K.467)』ですが、1967年公開のスウェーデン映画『短くも美しく燃え』(ボー・ウィデルベルイ監督)のテーマ曲の1つとして使われてからは、『エルヴィラ・マディガン(Elvira Madigan)と呼ばれることも多くなりました(もう1つのテーマ曲はヴィヴァルディの『四季』)

 『エルヴィラ・マディガン』は、『短くも美しく燃え』の原題名であるとともに、そのヒロインの名前であり、かつ映画のモデルになった女性の名前でもあります。私にとっては、図書カードのような無機質な作品名より、『エルヴィラ・マディガン』のほうが、メロディもイメージも浮かびやすくて好きですね。

 1889年、ヨーロッパ社会に衝撃を与えた心中事件が2つ起こりました。1つは1月30日に起きたオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラの心中事件で、これは1969年にテレンス・ヤング監督によって『うたかたの恋』という映画になりました。
 もう1つはスウェーデンの伯爵で陸軍中尉のシクステン・スパレ
(Sixten Sparre)とサーカスの女綱渡り芸人エルヴィラ・マディガンの心中事件です。

 シクステンとエルヴィラは身分の違いを超えて恋に燃え上がりますが、シクステンには妻と2人の子どもがおり、しかも軍役中でした。エルヴィラは人気芸人のため、サーカス団長の継父が手放そうとしません。どちらにとっても許されない恋であり、それを貫くには、逃走するしかありませんでした。

 2人は逃避行を続けた末、デンマークのトーシンエ(Tåsinge)島の小さな宿屋に落ち着きます。このころには持ち金がほとんどつきてしまいますが、脱走軍人のシクステンは働くことができません。みじめな日々が続き、2人はついに覚悟を決めました。
 1889年7月20日のよく晴れた朝、2人はまるで日常生活の続きであるかのように、バスケットに食べ物と飲み物を詰め、ピクニック
(野外食事)に出かけます。楽しく食事をし、語らい、むつみ合ったあと、シクステンがエルヴィラを撃ち、次に自分を撃ちました。シクステンは35歳、エルヴィラは21歳でした。

Elviramadigan1

 事件が報じられると、感動したスウェーデンの編集者で作家のJohan Lindström Saxonは、その年、2人の恋をテーマとしたバラードを書きました(下記)ウィデルベルイ監督はこの詩に触発されて、『短くも美しく燃え』を制作したといわれます。

 最期の場面を、監督は、エルヴィラの笑顔のストップ・モーションに2発の銃声を重ね合わせる形で表現しました。
 衝撃的な事件なのに、ハラハラドキドキはなく、終始淡々とした調子で描かれています。公開時、北欧の清澄な風景の描写と、エルヴィラを演じたピア・デゲルマルクの美しさが評判になりました。

(作詩:J. L. Saxon)

Sorgerliga saker hända
Än i våra dar minsann,
Sorgerligast är dock denna -
Den om fröken Madigan.

Vacker var hon som en ängel:
Ögon blå och kind så röd,
Smärt om livet som en stängel;
Men hon fick en grymmer död.

När hon dansade på lina
Lik en liten lärka glad,
Hördes bifallsropen vina
Ifrån fyllda bänkars rad.

Så kom greve löjtnant Sparre,
Vacker var han, utav börd,
Ögon lyste, hjärtan darre,
Och hans kärleksbön blev hörd.

Greve Sparre han var gifter,
Barn och maka hade han,
Men från dessa han nu rymde,
Med Elvira Madigan.

Så till Danmark styrdes färden.
Men det tog ett sorgerligt slut,
Ty långt ut i vida världen
Tänkte de att slå sig ut.

Men se slut var deras pengar,
Ingenting att leva av!
För att undgå ödet stränga
Bygga de sitt bo i grav.

Och pistolen full av smärta
Greven tar och sikte tog
Mot Elviras unga hjärta:
Knappt hon andas, förr´n hon dog.

Ack mig hör, Ni ungdomsglada,
Tänk på dem och sen Er för
Att Ni ej i blod få bada
Ni ock en gång, förr´n Ni dör !

 恋は純粋であればあるほど、2人だけの世界に閉じこもりがちになり、そのエゴイズムは身近な人びとを傷つけると同時に、結果として自分たちをデッドエンドに追い込むことになります。
 反面、それほどの犠牲を払っても恋を貫こうとする愛の深さは、人を感動させずにはおきません。

 2人が最後の時間を過ごした場所は、トーシンエ島のネレシコゥ(Nørreskov)の森の中で、正確にいうと北緯55度00506分・西経10度63377分の地点です。ここから南西へ約2.5キロの場所に2人の比翼塚が作られました(タイトル下の写真)。その前の通りは、エルヴィラ・マディガン通りと名付けられています。
 ここは恋人たちの聖地のようになっており、今なお世界中から観光客や恋人たちが訪れるそうです。

 映画が公開された1967年は、長女が生まれた年です。出産から半年ほど経ったとき、長女をごく信頼できる人に預け、ねぎらいと感謝の気持ちを込めて妻を誘って見に行ったのがこの映画でした。場所は新宿通りをはさんで伊勢丹本店の向かいにあった映画館でした。そんなこともあって、今も忘れられない作品です。

 『エルヴィラ・マディガン』につけられたドイツ語やスウェーデン語などの歌詞はないようですが、岩谷時子の歌詞が見つかったので、掲載します。映画の邦題は「短くも……」ですが、歌詞のタイトルは「みじかくも……」とひらがなになっています。
 歌詞のタイトルは映画と同じですが、「この手に我が子だいて/子守歌をくちずさみ」というフレーズがあることから、映画や実際の事件とは関係なく作詞されたようです。シクステンとエルヴィラの間に子どもはいませんでした。
 益田宏美は旧姓岩崎で、『聖母
(マドンナ)たちのララバイ』などのヒット曲をもっています。

 上のmp3は、最初、『映画音楽大全集』収録の楽譜で作ろうとしたのですが、これが第二楽章の半分ほどしかありませんでした。どうせ配信するなら第二楽章全部をmp3にしたいと思い、ネット上を捜したところ、無料の総譜が見つかりました。
 ところが、その解像度が低く、印刷してみたら、音符が小さいうえに、滲んでいるところもあり、読みにくい楽譜でした。そういうわけですから、曲に多少の瑕瑾があっても大目に見ていただきたいと思います。
 なお、総譜に指定されている楽器とは違う音源を使ったパートがいくつかあります。

(二木紘三)

中国地方の子守唄

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


日本古謡、編作曲:山田耕筰

1 ねんねこしゃっしゃりませ
  寝た子のかわいさ
  起きて泣く子の ねんころろ
  つらにくさ
  ねんころろん ねんころろん

2 ねんねこしゃっしゃりませ
  きょうは二十五日さ
  あすはこの子の ねんころろ
  宮詣り
  ねんころろん ねんころろん

3 宮へ詣ったとき
  なんと言うて拝むさ
  一生この子の ねんころろん
  まめなように
  ねんころろん ねんころろん

《蛇足》1番の「起きて泣く子の……つらにくさ」を見ると、子守娘の心情を歌った守り子唄(『五木の子守唄』参照)のようにも思えますが、2番・3番の歌詞から、子どもの幸せを願う親心を歌った子守唄だとわかります。

 原曲は岡山県井原市高屋町あたりで歌い継がれてきた子守唄だとされています。この地に生まれ育った声楽家の上野耐之(うえの・たいし)が幼時に母親が歌ってくれた子守唄を、師事した山田耕筰の前で歌ったところ、心を動かされた山田耕筰がすぐに独唱曲に仕上げたと伝えられています。発表は昭和3年(1928)4月4日(異説あり)

 上野が歌った歌詞は、現在歌われているのと若干違い、次のようなものでした。

ねんねこしゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ
起きて泣く子の ネンコロロン つらにくさ

ねんねんころいちや 今日は二十五日さ
あすはこの子の ネンコロロン 宮参り

ネンコロロン ネンコロロン
宮へ参ったときゃ なんというて拝むさ

一生この子の ねんころろん まめなよに
ネンコロロン ネンコロロン

まめになったら 絵馬買うてあげましょ
絵馬はなに絵馬 武士絵馬あげましょ
ネンコロロン ネンコロロン

 また、メロディも、上野の母親がキリスト教徒だったためか、近隣の家で歌われていたのとは少し異なり、讃美歌の影響を受けたものだったようです。

(二木紘三)

旅役者の唄

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇

1 秋の七草 色増すころよ
  役者なりゃこそ 旅から旅へ
  雲が流れる 今年も暮れる
  風にさやさや 花芒(はなすすき)

2 桜三月 菖蒲(あやめ)は五月 
  廻(めぐ)る町々 知らない町で
  恋もしました あきらめました
  旅の夜風が うすなさけ

3 時雨(しぐれ)ふる夜は こおろぎ啼いて
  なぜか淋しい 客寄(よせ)太鼓
  下座(げざ)の三昧(しゃみ)さえ こころにしみる
  男涙の 牡丹刷毛(ぼたんばけ)

4 幟(のぼり)はたはた 夕雲見れば
  渡る雁(かりがね) 故郷は遠い
  役者する身と 空飛ぶ鳥は
  どこのいずくで 果てるやら

《蛇足》昭和21年(1946)9月にコロムビアから発売されました。
 西條八十、古賀政男、霧島昇という名手たちによる、歌詞、メロディとも快調な曲ですが、永く歌われたという記憶が私にはありません。戦前から昭和30年代半ばまでのヒット曲には、10年、20年という長期にわたって歌い継がれるものが多かったのですが。

 『石狩エレジー』や『流れの旅路』にも書きましたが、敗戦からの復興が軌道に乗り、さらに経済成長が始まると、旅芝居の人気が落ち、それに伴ってこのような歌にシンパシーを感じる人が減ったのではないでしょうか。

 それはさておき、旅役者とか旅芝居という言葉を聞くと、まず思い出されるのが、小津安二郎監督の『浮草』です。これは、昭和34年(1959)公開の大映作品ですが、小津が戦前に作った『浮草物語』を小津自身がリメイクしたもの。内容は次の通り。

 嵐駒十郎(二代目中村鴈治郎)一座が久しぶりにある田舎町に公演にやってきます。そこには、駒十郎がかつて一膳飯屋の女・お芳(杉村春子)との間にもうけた子ども・清(川口浩)がいますが、すでに成人しています。駒十郎は清の伯父という触れ込みで、公演の合間に清と交流します。
 駒十郎と内縁関係にある女優のすみ子(京マチ子)が、駒十郎がしばしばお芳のもとに通うのに焼き餅を焼いていろいろ画策したことから、駒十郎との仲が壊れてしまいます。
 天候不順もあって、客の入りが悪くなり、一座はピンチに陥ります。そんな折、次の公演先への先乗りを命じられた男が、一座の金をごっそり盗んで消えてしまいます。一座は解散せざるを得なくなり、役者や裏方たちはてんでんばらばらに去っていきます。
 映画は、駒十郎とすみ子が、ひと言もしゃべらずに夜汽車の席に並んで座っているシーンで終わります。

 私はこの映画を2回見ましたが、それは、旅役者の物語に心惹かれたというより、映画に描かれた田舎町の風景にたまらなくノスタルジックなものを感じたからです。映画の公開は昭和34年ですが、そこに描かれた風俗はどう見てもその10年前、すなわち昭和20年代半ばの光景でした。

 昭和20年代半ばといえば、私が小学校1、2年生の頃。私が生まれ育ったのは田園地帯ですが、父がもみ療治を受けるとか何かの用件で町に出かける際に、よく連れていってもらいました。そうした折に通った町のたたずまいや人びとの服装などが『浮草』の光景とそっくりだったのです。
 『浮草』の舞台は海べりの伊勢志摩で、私が連れていってもらった町とはいくぶん違いますが、まるで昭和20年代半ばにタイムスリップしたかのようでした。
 昭和2、30年代の映画館では、本編の前に予告編やニュース映画を流すのが常でしたが、その頃のニュース映画がたまにインターネットやテレビに映されることがあります。
 そんなとき、昭和20年代の人びとの服装や貧しげな町並みなどが映し出されると、「わー、懐かしい」と思わず声に出してしまうことがあります。それと同じような気持ちといえば、おわかりいただけるでしょうか。

 旅役者をテーマとした映画としては、ほかに、昭和15年(1940)12月に公開された成瀬巳喜男監督の『旅役者』(東宝)や、昭和37年(1962)4月公開の青柳信雄監督作品『雲の上団五郎一座』(宝塚映画)などがあります。前者は見ていませんが、後者はGyaoだかテレビだかで見ました。

(二木紘三)

アリラン

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


朝鮮民謡、日本語詞:不詳

1 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  私を捨てて 行く人は
  一里も行かずに 足が痛む

2 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  晴れた空には 星も多く
  おいらの胸には 夢がいっぱい

3 アリラン アリラン アラリヨ
  アリラン峠を 越えて行く
  あそこの山が 白頭山だよ
  厳しい冬でも 花が咲く


     아리랑

1.아리랑 아리랑 아라리요
  아리랑 고개로 넘어간다
  나를 버리고 가시는 님은
  십리도 못 가서 발병난다

2.아리랑 아리랑 아라리요
  아리랑 고개로 넘어간다
  청천 하늘엔 별도 많고
  우리네 가슴엔 꿈도 많다

3.아리랑 아리랑 아라리요
  아리랑 고개로 넘어간다
  저기 저 산이 백두산이라지
  동지 섣달에도 꽃만 핀다

《蛇足》『トラジ』とともに朝鮮民謡を代表する曲。南北朝鮮はもちろん、中国領内の朝鮮族の人びとにも愛唱されてきました。

 発生の時期は明らかではありませんが、大院君(興宣大院君)が摂政をしていた李朝末期だという説があります。
 すなわち、1860年ごろ、傾き始めた朝廷の権威を回復するため、秀吉軍による侵略
(壬申倭乱)で焼け落ちたままになっていた王宮・景福宮を再建しようと、大院君が全国から大工や人夫を強制的に徴集しました。そうした男たちの身を案じた妻や恋人たちが歌い出したのが始まりだというのです。1番の歌詞には、そんな女性たちの気持ちがよく表れています。

 なお、1番の4行目は、原詞では「十里も……」となっていますが、朝鮮の十里は日本の1里に当たるので、上の日本語詞では1里としたようです。

 また、アリランの意味や語源については諸説あり、確定したものはありません。朝鮮半島の何か所かにアリラン峠という地名がありますが、これはこの歌が広まってからつけられたものとされています。

 歌詞については、全羅道の珍島アリラン、京畿道のキンアリランなど、地方色を反映したアリランが80以上もあるといわれています。

 少なからぬ韓国人たちが信じているという「『アリラン』は世界で最も美しい曲の1位に選定された」は、根拠薄弱な噂にすぎませんが、それでも『アリラン』が世界の民謡のなかでも美しい曲の1つであることにまちがいはありません。かつての歌声喫茶でも、よく歌われました。

(二木紘三)

東京アンナ

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作詞:藤間哲郎、作曲:渡久地政信、唄:大津美子

1 ライトの虹を 踏みながら
  銀座の夜を ひらく薔薇
  ああ誰(たれ)か呼ぶ 舞姫の
  その名はアンナ 東京アンナ
  噂のアンナ

2 柔(やわら)な肌を 黒髪に
  隠せど甘き 流し瞳(め)
  ああ誰ゆえに 情熱の
  その名はアンナ 東京アンナ
  妖(あや)しきアンナ

3 重ねる酒の 激しさは
  堪(こら)えた恋の しわざやら
  ああ誰が知ろ くずれ咲く
  その名はアンナ 東京アンナ
  吐息のアンナ

《蛇足》昭和30年(1955)10月にキングレコードから発売されました。『ここに幸あり』『いのちの限り』『銀座の蝶』などと並ぶ大津美子のヒット曲。

 ラテンのリズムが快いですね。落ち込んでいるときに聞くと、気持ちが昂揚してきます。

 ナイトクラブやキャバレーのフロアダンサーをテーマとした歌ですね。
 私は、フロアダンサーが踊るような店に行ったことがないので、実物を知りません。その昔、日活の無国籍映画で白木マリ
(のち万里と改名)がキャバレーで踊るのを見て、フロアダンサーというものの存在を知っただけです。

 学生で若かったので、白木マリが半裸で踊るのを見て興奮したものです。小林旭がすぐ金子信雄の子分たちと乱闘を始めたりして、ダンスはおしまいになってしまいました。
 そんな程度で興奮するなら、多少収入があるようになったとき、そういう場所に行けばよかったのに、1人ではもちろん行かないし、友人たちに誘われても、できるだけ避けるようにしていました。『東京ナイトクラブ』に書いたように、ホステスさんと話すのが苦手だったからです。

 久しぶりに会った友人たちは、私と話すより、ホステスと話したり、ダンスをしたりするほうがおもしろいらしく、私が話しかけても上の空でした。彼らは、冗談をいってホステスたちをキャーキャー笑わせ、高い酒を飲ませているのに、お金をもらうのではなく、払います。これは、なんとも不思議な経済関係だなんて思っていました。まあ、バブルのころの話ですが。
 てなこと考えているから、私は、ホステスさんに「コチラ、お静かね」と冷笑され、放っておかれるわけです。もてない男のひがみでしょうか。ひがみでしょう。野暮の骨頂。

(二木紘三)

ダヒル・サヨ

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作詞:Dominador Santiago、作曲:Mike Velarde
日本語詞:酒井 弘/エセル中田

1 ダヒル・サヨ
  やわらかな黒髪 花飾り
  月影の 浜辺に
  愛の歌 風に乗る
  ダヒル・サヨ 君ゆえに
  わが胸 火と燃えて
  夢見るは しあわせ
  月青い 浜辺よ

2 ダヒル・サヨ
  君ゆえに わが愛告げるとき
  いつまでも 忘れず
  愛の歌 風に乗る
  ダヒル・サヨ 君ゆえに
  わが胸 火と燃えて
  夢見るは しあわせ
  月青い 浜辺よ

 (エセル中田)
ダヒル・サヨ 君ゆえに
わが愛を 告げるとき
胸おどる 口づけよ
忘れないで わが愛を
ダヒル・サヨ 愛の歌
きらめく 星の下
いつまでも 変わらずに
愛すと歌う
ダヒル・サヨ

    Dahil Sa Iyo

Sa buhay ko'y labis ang hirap at pasakit,
Ng pusong umiibig mandi'y wala ng langit.
At ng lumigaya hinango mo sa dusa,
Tanging ikaw, sinta, ang aking pag-asa.
    (Repeat)
    Dahil sa'yo, nais kong mabuhay,
    Dahil sa'yo, hangang mamatay,
    Dapat mong tantuin, wala ng ibang giliw,
    Puso ko'y tanungin ikaw at ikaw rin.
    Dahil sa'yo ako'y lumigaya,
    Pagmamahal ay alayan ka.
    Kung tunay man ako ay alipinin mo
    Ang lahat sa buhay ko'y, dahil sa'yo 

《蛇足》原曲はフィリピンの古い子守唄。1938年にフィリピンで恋愛映画が作られたとき、その主題歌として新しくタガログ語の歌詞が作られ、原曲をベースとして作曲されました。
 歌ったのは同国映画界の大スター、ロゲリオ・デ・ラ・ローザ。

 映画が封切られ、レコードが発売されると、たちまち大ヒットとなり、フィリピンのポピュラーソング歌手がこぞってカバーしました。歌いやすく、あたたかいメロディが大ヒットの原因でしょう。

 1964年にアメリカで英語とタガログ語が混ざった歌詞でレコーディンがされると、各国語に訳されて、世界的なヒットとなりました。ナット・キング・コール、ビング・クロスビー、フリオ・イグレシアスなど、名だたる大歌手がカバーしています。

 日本では、エセル中田や小林旭などが歌っています。
 日本語詞では、エセル中田の詞がよく知られていますが、上の歌詞は1番だけです。2番は英語とタガログ語が混ざった歌詞のようですが、見つかりませんでした。

 Dahil sa iyoは、Because of you(あなたゆえに、あなたのおかげで)の意。歌詞中では、iyoのiは省略されています。

(二木紘三) 

硝子(ガラス)のジョニー

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作詞:石濱恒夫、作曲・唄:アイ・ジョージ

1 黒い面影 夜霧に濡れて
  ギターも 泣いている
  ジョニーよ どこに
  いつかは 消えてゆく
  恋の夢よ

2 赤い花束 なみだにうるむ
  何故に 帰らぬ
  ジョニーよ どこに
  いつまた 逢える日
  淡い夢よ

3 黒い太陽 まぶたに消えて
  空しい グラスよ
  ジョニーよ どこに
  語らん いついつ
  恋の夢よ

《蛇足》昭和36年(1961)、日本コロムビアから発売。
 大ヒットしたので、翌年日活が『硝子のジョニー 野獣のように見えて』というタイトルで映画化しました。蔵原惟繕監督で、主演は宍戸錠と
芦川いづみ。アイ・ジョージも準主役で出演しています。

 アイ・ジョージは昭和8年(1933)生まれで、本名は石松讓治。アイは苗字の頭文字、ジョージは名前をカタカナにしたもの。母親はスペイン系フィリピン人。
 父親の仕事の都合で香港や中国各地、フィリピンを転々としたものの、一家の生活は豊かだったようです。
 しかし、幼時に母親が亡くなり、父親も徴兵され、復員後まもなく亡くなったため、讓治は十代半ばで孤児となりました。その後、パン屋や運送屋、ボクサー、競輪選手など多くの職業を経て、流しの歌手になりました。

 やがて歌のうまさが認められて、プロデビューします。小柄ながら、分厚い胸板から繰り出す大声量と本格的な歌唱が圧巻でした。
 ずば抜けた歌唱力にもかかわらず、ヒットしたのは『硝子のジョニー』と、志摩ちなみとデュエットした『赤いグラス』ぐらい。数多くの曲をレコーディングしていますが、外国のポピュラーソングや民謡のカバーがほとんどでした。

 曲に恵まれなかっただけかもしれませんが、彼の歌唱法が日本の演歌的風土に合わなかったのではないでしょうか。平時で、かつ両親を早くに亡くすようなことがなかったなら、音大に進んでクラシック系の歌手になっていたかもしれません。そう思わせるほどの正統的な発声と表現力でした。
 後年、活動の舞台をアメリカに移し、日本のファンからはしだいに忘れられました。惜しいことです。

(二木紘三)


若いふたり

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作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤 実、唄:北原謙二

1 君には君の 夢があり
  僕には僕の 夢がある
  ふたりの夢を よせあえば
  そよ風甘い 春の丘
  若い若い 若いふたりの
  ことだもの

2 君には君の 歌があり
  僕には僕の 歌がある
  ふたりが歌を おぼえたら
  たのしく晴れる 青い空
  若い若い 若いふたりの
  ことだもの

3 君には君の 道があり
  僕には僕の 道がある
  ふたりの道は 遠いけど
  昨日も今日も はずむ足
  若い若い 若いふたりの
  ことだもの

《蛇足》昭和37年(1962)にコロムビアから発売、年末から翌年にかけて大ヒットしました。北原謙二の最初のヒットで、『ふるさとのはなしをしよう』と並ぶ彼の代表作です。独特の粘るような発声が印象的でした。

 平成3年(1991)に脳内出血で倒れ、左半身マヒになりましたが、リハビリを重ねて3年後に復活。相当人柄のいい人だったようで、復活に当たって多くの歌手仲間や芸能人が支援したと伝えられています。
 平成17年
(2005)1月26日没。

 この歌が流行り始めたのは、私が大学に入って2年目。東京の生活にも慣れ、女友達もできたりして、自由気ままな、というより自堕落で怠惰な生活を送っていました。入ったのが学生を野放しにすることで知られた大学だったことも、放埒さに拍車をかける一因だったかもしれません。
 かつては、学生にやりたいことをさせる校風から、多様な個性や才能が育ったものでした。しかし、ある時期から若者気質が変わり始め、放任主義が逆効果になっていると大学が気づいたようで、今では高校並みにきめ細かく学生の面倒を見る方針に変わったと漏れ聞いています。

 放埓で怠惰な日々のなかで、心に多少傷を負うこともありましたが、今考えると、それも含めてまあまあ楽しい生活だったと思います。
 しかし、そのツケはすぐに回ってきました。卒業してしまうと、時間と規律に縛られ、勤勉さを求められる社会に出なければなりません。なんとかモラトリアム期間を延ばせないものかとジタバタしましたが、ムダなあがきに終わり、何の覚悟もできないまま、社会に押し出されてしまいました。
 そのせいで、現実社会の厳しさに適応するまで、人一倍苦労しました。しかし、結局組織に適応できず、はじき出されてしまうのですが……。

 『若いふたり』を聴くと、大学生活のなかで最も自由で、感情の振幅も大きかった2,3年次のさまざまなシーンが浮かんできます。

(二木紘三)

ミラボー橋

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作詞:ギョーム・アポリネール、作曲・唄:レオ・フェレ、日本語詞:薩摩 忠

1 橋はミラボー 川はセーヌ
  水も恋も 流れて行く
  思い出そう 喜びは
  苦しみ悩みに 続いて来たの

2 手に手をとり 向かいあえば
  二人の手の 橋の影を
  疲れはてた まなざしが
  波打ち渦巻き 音もなく流れる

3 時も恋も 滅びるもの
  流れて行く 水のように
  この物憂(ものう)い 人の世の
  歩みの遅さよ 激しい希望(のぞみ)よ

4 橋の柵に 寄りかかると
  遠い日々が よみがえるよ
  夕べの鐘 鳴り響け
  月日は流れる 私は……
  とどまる

    Le Pont Mirabeau

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours après la peine

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
Tandis que sous
Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l'onde si lasse

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

L'amour s'en va comme cette eau courante
L'amour s'en va
Comme la vie est lente
Et comme l'Espérance est violente

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

    Vienne la nuit sonne l'heure
    Les jours s'en vont je demeure

《蛇足》原詩は、フランスの詩人ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880~1918)が1913年に刊行した詩集『アルコール』のなかの1作品。これにシンガー・ソングライターのレオ・フェレ(Léo Ferré、1916~1993)が曲をつけ、1953年4月に発表しました。
 『ミラボー橋』には、何人もの作曲家が曲をつけましたが、レオ・フェレのものが最も有名で、イヴェット・ジローなど多くの歌手がカヴァーしています。

 フランス近代詩のなかでもとりわけ人気のあるこの詩は、アポリネールが、画家マリー・ローランサン
(Marie Laurencin)との6年にわたる恋とその終焉を歌ったものといわれます。

 アポリネールは19歳のとき、母親や弟たちとともにイタリアからパリに出ました。父親はシチリア王国退役将校でしたが、ポーランド貴族の娘である母親とは正式な結婚ではありませんでした。
 同じ頃、パブロ・ピカソはスペインからパリに出てきて、モンマルトルの「洗濯船」
(Le Bateau-Lavoir〈ル・バトーラヴォアール〉と呼ばれる安アパートにアトリエを構え、制作活動を行っていました。

 洗濯船には、ピカソのほか、詩人で画家のマックス・ジャコブや、ドンゲン、オルランなど貧乏な画家たちが住み、創作に励んでいました。
 洗濯船という呼び名は、嵐になると、建物が揺れてキーキー鳴り、セーヌ川の洗濯船のようだというので、ジャコブがつけたものといわれます。

 洗濯船には、ドラン、ヴラマンク、ユトリロ、コクトー、マティス、モディリアーニ、ブラックなど、モンマルトルや南のモンパルナスに住む若い芸術家たちが出入りし、新しい芸術活動を創り上げようとする熱気があふれていました。
 アポリネールもその1人で、とくにほぼ同年齢のピカソと親しくしていました。
 洗濯船は、日本の漫画史でいうと、トキワ荘のような存在ですね。
 モンマルトルに住んでいた若手の芸術家たちは、数年後、ほとんどがモンパルナスに移動しました。

 1907年5月、アポリネールは、クロヴィス・サゴ画廊で開かれたピカソの個展で、マリー・ローランサンに紹介されました。そのとき、彼女は23歳で、アカデミー・アンペールの画学生でした。
 その後、芸術家たちの集まりにローランサンを伴って現れるアポリネールの姿が、しばしば見られるようになりました。
 1908年には、アンリ・ルソーが、アポリネールとローランサンの肖像画をもとにした『詩人に霊感を与えるミューズ』と題する大作をアンデパンダン展に出品し、2人の恋愛は芸術関係者たちに広く知られるところとなりました。

 1909年10月、アポリネールは、パリ16区オートゥイユ地区のグロ街15番地に、翌年10月に同32番地に移りました。グロ街は、ローランサンが住むフォンテーヌ街37番地のすぐ近くです。
 オートゥイユ地区はセーヌ川の右岸にあり、左岸とはグルネル橋、ミラボー橋(写真)、ガリリャーノ橋でつながっています。セーヌが蛇行しているので、オートゥイユは川の西側になります。

 いずれにしても、ミラボー橋は、2人が行き来したり散歩したりするときに渡った思い出の橋だったはずです。

 橋の名前になったミラボーは、フランス革命の初期、貴族だったにもかかわらず、民衆の側に立って活動しましたが、革命が比較的穏やかだったうちに病死しました。病死しなかったとしても、ジャコバン政府によってギロチンにかけられたことでしょう。ジャコバン党のリーダーだったダントンでさえ、首を落とされたのですから。

 2人の恋は1912年の晩夏に終わりを告げます。その前年に起こった美術史上に残る大盗難事件をきっかけとして、ローランサンが急激に冷たくなったのです。事件のいきさつを見てみましょう。

 1911年8月21日、ルーブル博物館から、世界の至宝『モナ・リザ』が盗み出されました。その有力容疑者として、まず名前が挙がったのが、アポリネールとピカソでした。(ルーブルは、日本では美術館と呼び慣わされていますが、展示物の構成から、博物館と呼ぶほうが適切なようです)。

 なぜ、2人の名前が浮かんだのでしょうか。話は1907年に遡ります。
 ピカソは常々、イベリアの彫刻に対する傾倒を口にしていました。それを知ったアポリネールの秘書ジェリ・ピエレは、ルーブルからイベリアの彫刻をいくつも盗み出し、出所をいわずにピカソにプレゼントしました。喜んだピカソは、1体につき50フラン渡したといいます。

 ピエレはその後アメリカに渡りましたが、食い詰めて1911年に戻り、アポリネールのもとに身を寄せました。
 無一文のピエレは、ルーブルから美術品を盗んで売るつもりだとアポリネールにいいました。驚いたアポリネールは、そんなことをしたら、家から追い出すときつく言い渡しました。
 すると、ピエレは意趣返しのように、ルーブルからフェニキアの小像を盗み出し、それをアポリネールのアパルトマンに隠しました。5月11日のことです。

 やがて、モナ・リザ盗難事件が起こります。ピエレは、謝礼を得る絶好の機会と考えて、アポリネールの作品をよく掲載していたパリ・ジュルナル社に行き、「ルーブルから美術品を盗むのは簡単だ。その証拠に、盗んだフェニキアの小像をある作家の家に隠した」と告げました。それは記事になり、パリ・ジュルナル紙に掲載されました。

 それを読んで仰天したのがアポリネールです。ピカソがピエレから彫像をもらったことを知っていたので、至急善後策を相談しようと、南仏に行っていたピカソを呼び戻しました。
 パニックになった2人は、馬鹿げた対策をいくつも考えたあげく、彫像をスーツケースに入れてセーヌに捨てるしかないという考えで一致しました。
 2人は深夜、スーツケースを持ってセーヌ河岸をさまよいましたが、刑事から尾行されているような気がして、どうしても捨てることができませんでした。

 午前2時頃、くたくたになって帰宅し、眠れないまま朝を迎えたアポリネールは、パリ・ジュルナル社にアンドレ・サルモン記者を訪ねました。そして、フェニキアの小像を引き渡すが、自分の名前は絶対出さないで、ルーブルに返還してほしい、と頼みました。

 翌日、「ルーブルから盗まれた彫像、本紙に引き渡される」という記事が同紙に載りました。それに飛びついたのが、モナ・リザ盗難の手がかりがまったくつかめず焦っていた警察です。警察は同社を奇襲し、サルモン記者を逮捕するゾと脅して、アポリネールの名前を聞き出しました。

 9月7日、アポリネールは、盗品隠匿および窃盗共犯の容疑で逮捕されました。予審判事の尋問を受けたアポリネールは、累が母親や恋人のローランサンにまで及ぶのを避けようと、あっさり罪を認めました。そして、矛盾する供述を繰り返したのち、モナ・リザはピエレが持って逃げたといったのです。アポリネールは、ラ・サンテ刑務所に留置されました。
 なお、フランスの予審判事は、日本の司法体系でいうと、検事のような役職のようです。

 ピエレがピカソのもとに足繁く出入りしていたことをつかんだ警察は、ピカソもモナ・リザ窃盗に関わりがあるものとにらみ、出頭させました。
 予審法廷で顔を合わせたアポリネールとピカソは、お互いに相手を知らないように振る舞いました。
 ピカソは最初虚勢を張っていましたが、予審判事の厳しい尋問が続くと、持ち前の男っぽさが消え、さらに「おまえは国際的美術品窃盗団の一員だな」と決めつけられると、崩れ落ち、すすり泣きながら、イベリアの彫刻が盗品とはまったく知らなかった、信じてほしいと懇願しました。

 そして、判事がアポリネールを指して「この男とは知り合いか」と尋ねると、ピカソは「知り合いどころか、一度も会ったことがない」と答えました。
 予審判事は、ピカソはモナ・リザ盗難に関係ないようだと判断し、釈放しました。

 アポリネールは留置し続けられましたが、9月9日、逃走中のピエレが、マルセーユから「アポリネールは無実だ」という手紙を予審判事に送ってきたこと、アポリネールの供述が二転三転して証拠もなかったことから、9月12日に釈放されました。

 予審法廷における振る舞いから、アポリネールとピカソの親友関係は終わり、以後つきあいはあったものの、冷え冷えとした間柄になりました。
 アポリネールにとってもっと痛手だったのは、留置中にローランサンの気持ちが冷めてしまったことです。1912年夏、アポリネールがオートゥイユを離れて、17区ベルティエ通りの友人の家に移ったことによって、ローランサンとの破局は決定的になりました。

 以上の後日談ですが、犯人はヴィンチェンゾ・ペルージアというイタリア人で、モナ・リザを盗む目的で塗装工としてルーブル博物館に入り、隙を見て盗んだものです。ペルージアは、事件から2年半後に逮捕され、8か月の懲役刑に処せられました。
 それから数日後に第一次大戦が勃発、アポリネールは入隊したものの負傷して除隊、1918年11月9日にスペイン風邪で病死しました。享年38歳。ペール・ラシェーズ墓地に眠っています。

 アポリネールと別れてから、ローランサンは画家としての評価を次第に高め、1914年にドイツ人の男爵オットー・フォン・ベッチェンと結婚しました。しかし、1920年に離婚し、以後はバイセクシャルとして過ごしたと伝えられています。

 パリに戻ったローランサンは、夢見るような少女像という独特の画風を確立し、売れっ子になりました。パリの上流婦人たちは、争うようにローランに肖像画を描いてもらったといいます。
 1956年、心臓発作により死去。72歳。

《上記の記述は主として次の2つの文献を参考にしています。鈴木信太郎・渡邊一民編『アポリネール全集』(紀伊國屋書店)の年譜、John Richardson:’A Life of Picasso-Vol 2’(Random House)のうちモナ・リザ盗難事件に関する部分の抄録》

 『ミラボー橋』については、窪田般弥、福永武彦、飯島耕一など多くの人が訳しており、いずれも名訳ですが、私の頭にまず浮かぶのは、堀口大学の訳詞(下記)です。とくにリフレイン部分は、最初に読んでから50数年経ても、折に触れて自然に出てきます。
 いずれの訳詞でも、上のメロディでは歌えません。歌う場合は、薩摩忠の日本語詞でどうぞ。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

(二木紘三)

陽気な渡り鳥

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作詞:和田隆夫、作曲:万城目 正、唄:美空ひばり

1 旅のつばくろ わびしいじゃないか
  君がバンジョーに 山越え野越え
  歌う野末に 小花(おばな)が揺れる
  わたしゃ可愛い 渡り鳥

2 秋の七草 涙で摘めば
  露がこぼれる 旅空夜空
  遠いみ空の 父さま星よ
  わたしゃ流れの 渡り鳥

3 ちいちゃな毛布に くるまりながら
  馬車に揺られて 町から村へ
  涙隠して 笑顔で歌う
  わたしゃピエロの 渡り鳥

4 親にはぐれて 鳴く鳥さえも
  何時か優しい ねぐらに帰る
  唄を振りまき 旅から旅へ
  わたしゃ陽気な 渡り鳥

《蛇足》昭和27年(1952)1月1日公開の松竹映画『陽気な渡り鳥』の主題歌として制作されました。この曲のようにハイテンポで快調なメロディでも、何か所かに哀調が入るという万城目作品の特徴がよく表れています。

 この時代、正月映画は、1年で最も収益が見込める映画として、各社が企画力と制作力を競ったものでした。収益第一でしたから、名画とか問題作はあまりなく、ほとんどが娯楽作品でした。
 『陽気な渡り鳥』も、松竹が満を持して送り出した娯楽作品で、佐々木康がメガフォンを取り、主演は美空ひばりで、淡島千景、桂木洋子 望月優子、堺駿二、高橋貞二、安倍徹などが脇を固めました。

 内容は、孤児の少女が旅の一座に入り、歌のうまさで人気者になり、終幕近くで戦死したと思われていた父親と再会するという、他愛のない筋書きです。この頃の美空ひばり映画と同様、彼女の人気におんぶにだっこといった作品でした

(二木紘三)

涙をふいて

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作詞:康 珍化、作曲:鈴木キサブロー、唄:三好鉄生

あの日 夢をさがして
オレたち愛を 捨てたふたりさ
二度と めぐり逢うとは
思わなかった この街角で

ぬれたまつ毛 ふきなよ
あれからつらい 暮らしをしたね
やせた お前の肩を
この手に抱けば すべてがわかる
涙をふいて 抱きしめ合えたら
あの日のお前に 戻れるはずさ
涙をふいて ほほえみ合えたら
遠い倖(しあわ)せ きっとふたりで

泣いて 涙涸れても
心に愛は 消せやしないさ
迷いつづけた人生
今日からお前 離しはしない
涙をふいて 抱きしめ合えたら
どこかで明日(あした)が 待ってるはずさ
涙をふいて 歩いて行けたら
遠い倖せ きっとふたりで

涙をふいて だきしめ合えたら
あの日のふたりに 戻れるはずさ
涙をふいて ほほえみ合えたら
遠い倖せ きっとふたりで

《蛇足》昭和57年(1982)8月5日、三好鉄生(みよし・てっせい)の2番目のシングルとして発売。同年、中外製薬のドリンク剤『新グロモント』のCMソングに起用されました。その影響もあってか、大ヒットとなりました。

 この楽譜を見たとき、私は、どんな曲だったかすぐには思い出せませんでしたが、「涙をふいて……」の部分で記憶が甦りました。この頃、歌番組はほとんど見なかったので、おそらくこのサワリの部分がコマーシャルソングを通じて自然に記憶に入っていたのでしょう。

 若い人たちは、サワリをサビというようですが、サビは本来、サワリとは意味が異なります。 しかし、今は、パソコンで音楽を作るDTMの世界でも、サワリの意味でサビを使うようになっていますから、あまり口うるさいことはいわないでおきます。

 ヒットする曲は、概してサワリに、そこまでとは違うトーンの印象的なメロディが入っています。それが、この曲では「涙をふいて……」であり、『東京砂漠』では「あなたの傍で ああ 暮らせるならば……」でしょう。

 楽譜でアドリブ演奏と指定されている17小節は、私が作りましたが、ミュージシャンではないので、平凡なメロディになってしまいました。しかし、平凡なほうがオリジナルのメロディをじゃましないので、かえってよかったかもしれません。

(二木紘三)

霧子のタンゴ

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作詞:吉田 正、唄:フランク永井

1 好きだから とても とても とても
  好きだから 別れてきたんだよ
  霧子はこの俺 信じてくれた
  それだから 俺はつらくなって
  旅に出たんだよ

2 逢いたくって とても とても とても
  逢いたくて お前の名を呼んだ
  可愛い霧子よ 泣いてはせぬか
  いますぐに 汽車に乗って行きたい
  愛の降る街へ

3 愛してる いまも いまも いまも
  愛してる 死ぬほど愛してる
  心の奥に 生きてる霧子
  幸福(しあわせ)に なっておくれ霧子
  幸福に霧子
  幸福に霧子 幸福に霧子

《蛇足》昭和37年(1962)にビクターから発売。作曲者の吉田正が作詞まで手がけたという珍しい作品。
 フランク永井は、歌謡曲に転向するまで、ジャズ歌手として進駐軍のクラブ巡りをしていたことから、英語が堪能で、台湾公演の際には、この曲の英語版を披露したそうです。

 リリースの翌年には、日活が同名のタイトルで映画化しました。主演は松原智恵子。可憐でしたなァ。

(二木紘三)

春の唄

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作詞:野口雨情、作曲:草川 信

1 桜の花の 咲く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  ガラスの窓さえ みなうらら
  学校の庭さえ みなうらら

2 河原(かわら)で雲雀(ひばり)の 鳴く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  乳牛舎(ちちや)の牛さえ みなうらら
  鶏舎(とりや)の鶏(とり)さえ みなうらら

3 畑に菜種(なたね)の 咲く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  渚(なぎさ)の砂さえ みなうらら
  どなたの顔さえ みなうらら

《蛇足》今日、桜がチラホラ咲き始めた川沿いの道を連れ合いと歩いていたら、彼女がこの歌を口ずさみ始めました。そういえば、小学校で習ったなと思いながら、さまざまな状況・時期に見た桜を側頭葉から引っ張り出しているうちに、mp3にしたくなりました。

 春を歌ったいろいろな童謡や唱歌を聞いていると、春愁とは無縁だった子ども時代が、たまらなく懐かしくなります。

 『春の唄』の詩と曲は、雑誌『少女号』(小学新報社)の大正11年(1922)4月号に掲載されました。
 2番の「河原で……」は、「河原に……」とされた時期がありましたが、今では原詩通り「河原で……」で定着しているようです。
 また、唄という漢字が児童にはあまりなじみがないせいか、タイトルを『春の歌』としている歌集もあります。

 なお、戦前に創られた国民歌謡に同名の曲(喜志邦三作詞、内田元作曲)があります。

(二木紘三)

20歳のめぐり逢い

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作詞・作曲:田村イサ夫、唄:シグナル

風に震えるオレンジ色の
枯葉の舞いちる停車場で
君と出逢った九月の午後
男と女のめぐり逢い

君の話す身の上話が
いつか涙でとぎれてしまう
命を賭けた恋に破れて
心は傷ついて
人を信じる事ができない
そんな女(ひと)だった

月日は流れて季節は変わり
いつしか二人は愛し合う
今日は君の誕生日
ワインを飲んで祝おうね

20歳(はたち)になって 大人になって
出直すんだね 過去など忘れ
手首の傷は消えないけれど
心の痛みは
僕がいやしてあげる 優しさで
君のためなら

20歳になって 大人になって
出直すんだね 過去など忘れ
手首の傷は消えないけれど
心の痛みは
僕がいやしてあげる 優しさで
君のためなら 君のためなら

《蛇足》フォークグループ・シグナルのデビュー曲で、昭和50年(1975)9月21日にポリドールから発売され、約30万枚売り上げました。

 シグナルは田村イサ夫・浅見昭男・住出勝則の3人がオリジナル・メンバーでしたが、のちに田村イサ夫が抜けるなど、メンバーの入れ替わりがありました。イサ夫のイサ(オ)はにんべんに功ですが、小さい漢和辞典には載っていません。

 この歌詞ですが、私は最初、リストカットまでした苦しい失恋を初対面の人に告白するものだろうかと疑問に感じました。しかし、作詞者が一般的な「出会い」ではなく、「めぐり逢い」という言葉を使っていることにすぐ気がつきました。
 「巡り会う」は、「めぐりめぐって出あう。別れ別れになっていた相手や、長く求めていたものに出あう」ことです
(『デジタル大辞泉』)

 人は、誰にもいえなかった苦しい過去を心を許した人に聞いてもらうことによって、いくぶんかでも傷みを癒やすことができます。この女性は、意識的か無意識的かはわかりませんが、そんな人を求めていたのでしょう。そして、秋の停車場でそんな人に出会ったのです。

 とはいえ、初めて会った人が信頼できるかどうか見極めるのは困難です。したがって、その男性は初対面ではなく、以前知っていた人か何らかの交流があった人と見るのが妥当でしょう。
 『20歳のめぐり逢い』とありますから、その人はそれ以前の知り合い、たとえば高校の同級生だったのではないでしょうか。

 その頃、彼は彼女に心を寄せていたかもしれませんが、友人以上の関係にはならなかったのでしょう。もしかしたら、彼は、彼女が危ない恋にのめり込んでいるのを知っていて、ハラハラしながら見守っていたかもしれません。

 そんな2人が、秋の停車場で偶然巡り会ったのです。そのとき、彼は彼女の手首の疵に気がついたのでしょうが、あえて訊きませんでした。その後交流が続いて、2人の間に信頼感が醸成されたときに、初めて彼は疵について尋ねました。
 彼女は、堰を切ったように苦しかった過去を吐き出しました。そして、2人の間に恋が生まれたのです。

 というようなことを想像していたとき、私はふと夏目漱石『三四郎』の1場面を思い出しました。

 廣田先生、与次郎、美禰子、三四郎の4人が’Pity's akin to love.’をどう訳すのが適切かについて論議しています。なかなかいい案が出なかったとき、与次郎が「ここは俗謡調でいくべきだ」といって、「かわいそうだたほれたってことよ」はどうかと提案します。
 すると、廣田先生は「いかん、いかん、下劣の極だ」と叱ります。そこへ野々宮さんが入ってきて何の話かと尋ねます。美禰子の説明を聞いて、彼は「なるほどうまい訳だ」と感心します。
 廣田先生は、与次郎の翻訳がだめだといったのではなく、伝法なべらんめえ調が気に入らなかったのでしょう。

 余談ですが、与次郎は鈴木三重吉、野々宮さんは寺田寅彦、三四郎は小宮豊隆、美禰子は平塚らいてう(雷鳥)がモデルだとされています。

 それはさておき、『20歳のめぐり逢い』は、「かわいそうだはほれたってことよ」の1つの例だと思います。これはpityを感じたほうについての表現ですが、心を許して告白したほうについては、「打ち明けるとはほれたってことよ」といえるでしょう。

 『20歳のめぐり逢い』もあれば、『22才の別れ』もあります。この年頃には、いくつも恋が生まれ、消えていきます。恋に破れていくら苦しくても、自傷行為はいけません。リストカットしても、その疵は苦しみの記録として残るだけです。
 苦しみに耐えていけば、数十年後には芳醇な恋の思い出に変わっているはずです。破恋でも、というより破恋だからこそ、恋をしなかった場合より財産を1つ多く得たことになるのです。

 『生き続けていけ、今にきっとわかるだろう』(ゲーテ)
 これは、私が
高校時代に、早世した友人から教えられた言葉です。

(二木紘三)


君がすべてさ

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作詞:稲葉爽秋、作曲:遠藤 実、唄:千 昌夫

1 これきり逢えない 別れじゃないよ
  死にたいなんて なぜ云うの
  遠く離れて 暮らしても
  ただひとすじに 愛しているよ
  君がすべてさ 君がすべてさ

2 心の小箱に しまっておくよ
  やさしい君の 面影を
  頬をぬらして 光ってる
  その涙さえ 愛しているよ
  君がすべてさ 君がすべてさ

3 希望(のぞみ)を果たして 迎えに来るよ
  必ず待って いておくれ
  かたく結んだ 約束の
  指先までも 愛しているよ
  君がすべてさ 君がすべてさ

《蛇足》昭和43年(1968)12月1日発売。この9日後に、例の3億円強奪事件が起こりました。

 この年のNHK紅白歌合戦に、千昌夫は大ヒット中の『星影のワルツ』を引っさげて初出場を果たしました。
 『君がすべてさ』は、翌44年
(1969)に大ヒットし、千昌夫は再び紅白に出場しました。

 昭和44年は、私が初めて事務所を構えた年です。私のあとで同じ出版社をやめた男と、演劇青年からライターに転向したと男との3人で、渋谷の場外馬券売り場の近くに小さい部屋を借りました。

 そこで、私はよくこの歌を口ずさみ、2人から「(この歌の)どこがいいんだか……」と笑われました。歌謡曲ではありふれたフレーズなのに、(君がすべてさ)に惹かれるものがあったのかもしれません。
 過ぎた日々の惑いは、消し去ったつもりでいても、意識の奥でいつまでも後を引くもののようです。

 3人とも、高い志があってライターになったわけではないので、事務所はほどなく解散となりました。

(二木紘三)

蛙の笛

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作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実、唄:川田正子

1 月夜の 田んぼで コロロコロロ
  コロロコロコロ 鳴る笛は
  あれはね あれはね
  あれは蛙の 銀の笛
  ささ 銀の笛

2 あの笛きいてりゃ コロロコロロ
  コロロコロコロ 眠くなる
  あれはね あれはね
  あれは蛙の 子守唄
  ささ 子守唄

3 蛙が笛吹きゃ コロロコロロ
  コロロコロコロ 夜が更ける
  ごらんよ ごらんよ
  ごらんお月さんも 夢みてる
  ささ 夢みてる

《蛇足》昭和21年(1946)4月12日の夜更け、来し方行く末を思い、展転として眠れないでいた斎藤信夫の耳に、コロコロ、コロコロというカエルの鳴き声が聞こえてきました。それを聞いているうちに、自然に1つの詩が浮かんできました。
 斎藤はそれを書き留め、『里の秋』の制作を通じて親しくなった作曲家・海沼実に送りました。こうしてできあがったのが、この郷愁を誘う童謡です。

 『蛙の笛』は、川田正子の唄で、昭和21年8月18日にNHKラジオから初放送されました。
 曲は好評で、振り付けも考えられ、幼稚園や小学校の学芸会などで演じられたりしました。

 なかには、カエルはゲロゲロ、ゲーゲーと濁った声で鳴くもので、コロロコロロと澄んだ声で鳴くというのは違うのではないか、と疑問を呈する人もいました。田植え時になると、夜、村中がゲーゲーゲコゲコという鳴き声で満たされる水田地帯に生まれ育った私も、そう思っていました。

 これについて、新潟県でネイチャー・ガイドをしている井上信夫さんは、鳴き声が銀の笛に例えられているカエルはシュレーゲルアオガエルだろう、といっています。
 外国人名がついていても、れっきとした日本在来種で、モリアオガエルの近縁種だそうです。

 シュレーゲル(Hermann Schlegel 1804-1884)は、ドイツ生まれの博物学者で、研究生活のほとんどをオランダのライデン王立自然史博物館で送ったことから、オランダの学者と書かれることもあります。
 彼は、シーボルトが日本から持ち帰った生物標本を研究して、この蛙が日本固有種だと発見したことから、この名前がつけられたそうです。

 シュレーゲルアオガエルは、本州・四国・九州とその周辺の島々(対馬を除く)に広く分布していますが、千葉県・栃木県・兵庫県では、数が減って準絶滅危惧種に指定されています。千葉県の成東(なるとう)(現・山武市)出身の斎藤信夫にとっては、残念な状況でしょう。

 いっぽう、この歌を歌った川田正子は、自著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局刊)のなかで次のように書いています。

 ある年、秋田県に演奏旅行に出かけた時でした。旅館の庭から、とても印象的な声が聞こえてきました。「コロロ、コロロ」。はっとして耳を傾けました。まるで「蛙の笛」そのままの鳴き声でした。それは、カジカガエルでした。昔から美しい鳴き声を人々に愛された蛙です。以来、私は、斎藤先生が詞に織り込んだのは、カジカガエルのことだったのではないだろうかと考えています。

 どちらが『蛙の笛』の発想源かはわかりませんが、いずれにしてもアマガエルやトノサマガエルなどのゲロゲロ、ゲコゲコ組ではないことは明らかです。

 「兵庫県立人と自然の博物館」のホームページで、シュレーゲルアオガエルカジカガエルの鳴き声が聴けます。

(二木紘三)

君は遥かな

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作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:佐田啓二・織井茂子

(女)    恋は悲しい 雲仙の
      花のつつじも 霧氷のかげに
      君の名を 君の名を
      呼びつつめぐる 春を待つ
      春には花が 咲くかしら

(男)    われは遥かな フランスの
      セーヌのほとり 旅路のはてに
      君の名を 君の名を
      呼びつつ待てば 秋の路
      木の葉が落ちて 百舌(もず)が鳴く

(男女)夢は悲しい 数寄屋橋
      水の流れに ネオンが咲いて
      君の名を 君の名を
      夜空の月に きいたなら
      またたく星が 涙ぐむ

《蛇足》松竹の大作『君の名は』の完結編・第三部の主題歌。東京を軸に、佐渡、北海道、雲仙をめぐる希有のメロドラマは、やっと大団円を迎えることになります。

 第三部の主題歌としては、佐田啓二と織井茂子がデュエットした『君は遥かな』のほかに、伊藤久男が歌った『忘れ得ぬ人』と『数寄屋橋エレジー』、淡島千景が歌った『綾の歌』があります。

 映画の公開は昭和29年(1954)4月で、レコードのリリースは同年6月。
 この年は、東宝の『七人の侍』『ゴジラ』、松竹大船撮影所の『二十四の瞳』という世界の映画史に残る名作も公開されましたが、最高の興行収入を得たのは『君の名は 第三部』でした。

 この年の2月、マリリン・モンローが夫の野球選手ジョー・ディマジオと来日しました。彼らは何回か飛行機を乗り継いでやってきたのですが、後宮春樹はどんな方法で渡仏したのでしょう。昭和20年代にも、フランスへの乗り継ぎ便はあったのでしょうか。
 船でスエズを通って行ったとすると、1か月近くかかったでしょうし、シベリア鉄道でも、数週間は要したでしょう。
 真知子が春樹に会いに行こうとしても、そう簡単に行ける状況ではなく、まさに「君は遥かな」だったわけです。

 しかし、この「遥かな」は、単に地理的な遠さだけを意味しているのではないと思います。相手が比較的近くにいたとしても、周囲の反対やら妨害、病気、決断できない状況などのためにいっしょになりにくい、といった事情も含んでいるのではないでしょうか。
 一般的にいって、そうした制約や障害が多いほど、情熱は燃え上がり、激しい恋になりがちです。

 周囲がみな賛成し、祝福してくれて、会いたくなればすぐに会え、地理的に離れていても、スカイプやらラインやらで顔を見ながら話ができ、数時間から10数時間も飛行機に乗れば直接相手に会える。これは恋というより、結婚か事実婚への普通のプロセスというべきでしょう。

 情熱の総量は人ごとに決まっており、短期間で急激に燃やすか、長期にわたって少しずつ燃やすかが違うだけ。前者が恋であり、多くの場合、破綻するか、燃え尽きて終了します。後者は破局しにくいものの、恋とは違うような気がします。
 そこで私はあえていいましょう、「破れない恋は恋ではない。何の障害もなく結ばれる男女の交わりは、波長の長い感情の交流にすぎない」と。

(上の写真は、真知子が勤める雲仙のホテルで病気になった徳枝〈浜口勝則の母〉が真知子の看病を受け、それまでの仕打ちを詫びる場面)。

(二木紘三)

青春のパラダイス

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:吉川静夫、作曲:福島正二、唄:岡 晴夫

1 晴れやかな 君の笑顔
  やさしく われを呼びて
  青春の 花に憧れ
  丘を越えてゆく
  空は青く みどり萌ゆる大地
  若きいのち かがやくパラダイス
  ふたりを招くよ

2 囁くは 愛の小鳥
  そよ吹く 風もあまく
  思い出の 夢に憧れ
  丘を越えてゆく
  バラは紅く 牧場の道に咲く
  若きいのち あふれるパラダイス
  ふたりを抱くよ

3 花摘みて 胸にかざり
  歌ごえ 高くあわせ
  美わしの 恋に憧れ
  丘を越えてゆく
  ゆらぐ青葉 白き雲は湧きて
  若きいのち うれしきパラダイス
  ふたりを結ぶよ

《蛇足》昭和21年(1946)11月、キングレコードから発売されました。
 この頃、私はまだ4歳でしたが、この歌をよく覚えています。その後何年かにわたってヒットを続け、ラジオで何度も放送されたためでしょう。

 昭和21年11月といえば、敗戦から1年ほど。復興が始まっていたとはいえ、戦争で心身が傷ついたままの人も大勢いました。そうした人たちを力づけ、励ましたのが、並木路子の『リンゴの唄』や、岡晴夫が明るく快調に歌ったこの歌でした。

 岡晴夫は陽気な性格だったようで、岡ッ晴(オカッパル)の愛称で多くの人びとに親しまれました。
 昭和24年
(1949)に芸能雑誌『平凡』が行った「花形歌手ベストテン」では、岡晴夫が1位になり、以後3年連続で1位を占めました。昭和20年代、彼のステージは熱狂的ファンで常に超満員だったそうです。

(二木紘三)

村祭

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文部省唱歌、作詞:不詳、作曲:南 能衛

1 村の鎮守(ちんじゅ)の神様の
  今日はめでたい御祭日
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  朝から聞こえる笛太鼓

2 年も豊年満作で
  村は総出(そうで)の大祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  夜までにぎわう宮の森

3 治まる御代(みよ)に神様の
  めぐみ仰ぐや村祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  聞いても心が勇み立つ

《蛇足》明治45年(1912)に発行された3年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌』に収録されたのが初出。以後、平成22年(2010)まで一貫して小学校3年生用の音楽教材として扱われてきました。

 ただし、敗戦後の昭和22年(1947)版では、3番の前半「治まる御代に神様の/めぐみ仰ぐや村祭」が、「みのりの秋に神様の/めぐみたたえる村まつり」に変えられました。
 これは、「
治まる御代に」が天皇統治を、「神様の/めぐみ仰ぐや」が神道を思わせるというのが理由だったようです。
 昭和26
(1951)に小学校3年だった私は、この変更版で歌っていたと思います。

 3番の歌詞については記憶が定かではありませんが、音楽の時間にはまちがいなく歌っていました。タイトルの上にあった横長の挿絵まで鮮明に覚えています。左端に石段があり、そこを登ると幟が並んでいて、右端に本殿があるといった構図でした。
 歌詞もメロディも、待ちかねたお祭りに心躍らせる子どもの気持ちをみごとに表しています。

 私が子ども時代を過ごした集落では、春には神社、夏には寺院の祭礼があり、そのほか、夏休みに小学校の男児だけで行う道祖神のお祭がありました。
 神社と寺院の祭礼では、多数の露店が並びました。友達と露店を見て回り、親からもらったわずかな小遣いでモノを買うことのなんと楽しかったことか。

 よく買ったモノ……かみかんピストル、かんしゃく玉、プリズム、水風船ヨーヨー、メンコ、綿あめ、ニッキアメ、ゼンマイ自動車など。
 かみかんピストルは、直径1.5センチぐらいのロール式火薬が入っていて、引き金を引くとパンと音がするものです。弾は出ません。追加で火薬ロールを買うこともできましたが、たいていは撃ち終えるとご用済みになりました。
 露店がともすカーバイド・ランプ
(アセチレン・ランプ)の独特の匂い。行き交う人びとのさんざめき。忘れられません。

 それから映画。神社でも寺院でも、宵祭の夜には露天にスクリーンを張って映画が上映されました。人びとは持参したゴザなどに座って観覧しました。上映されたのは、東映の時代劇が多かったような気がします。

 翌日の本祭の寂しさ。ほとんどの露店が引き払っており、詣でる人もまばらで、ウロウロしているのは、前日の楽しさが忘れられない子どもたちばかり。夏休みが終わって、明日からは学校という日の白茶けた気持ちと同じですね。

 昭和の大合併、平成の大合併を経て、村は激減しました。平成26年2014)4月5日の時点で、市が790、特別区が23、町が745に対して、村はたったの183。栃木県など13県には、村は1つもありません。

 しかし、村祭まで激減したわけではありません。村祭という呼び名には合わないかもしれませんが、今も、合併される前の神社・寺院のエリア単位で祭礼を行っているところが多いようです。
 ただ、ゲームなど多様な娯楽が増えた現在、子どもたちは、かつての子どもたちのようにはお祭に心を沸き立たせなくなっているかもしれません。

(二木紘三)

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