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Channel: 二木紘三のうた物語
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芽生えてそして

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:永 六輔、作曲:中村八大、唄:菅原洋一

あなたのまつげが 震えて閉じて
涙のしずくが 伝って落ちて
私に芽生えた あなたへの愛
芽生えてひ弱な 愛の心を
優しく優しく 育てる月日
やがて私を 抱きしめる愛

その愛が 私を育てた愛が
いまは私を 苦しめ悩ませるの
あなたのまつげが 震えて閉じて
涙のしずくが 伝って落ちて
それが終わりの あなたへの愛

      (間奏)

その愛が 私を育てた愛が
いまは私を 苦しめ悩ませるの
あなたのまつげが 震えて閉じて
涙のしずくが 伝って落ちて
それが終わりの あなたへの愛
あなたへの愛

《蛇足》昭和42年(1967)6月、ポリドールから発売。ヒット曲を連発していた"六八コンビ"が満を持して世に送り出したもので、菅原洋一にとっては、昭和40年(1965)の『知りたくないの』に続くヒットとなりました。

 若いころ(に限ったことではないでしょうが)、女性の涙にグラッときた経験のある人は、けっこういるのではないでしょうか。
 友人か同僚以上ではないと思っていた女性が、何かのことで突然涙を流す。それを見た瞬間、いとおしさのような感情が男性に生じ、それが恋の芽生えとなります。

 恋仲になると、男性はじっくりその恋を育てていこうと思います。ところが、恋が深化するにつれて、お互いの思いにズレが生じ、愛情のバランスが崩れてくる場合があります。そうなると、女性の恋心が男性には重く感じられるようになります。相手の思いに応じきれなくなった男性は、別れを考えます。
 それを告げられた女性は、涙を流しますが、今度は、それで男性を引き留めることはできません。そして1つの恋が終わる……というのがこの歌の要旨でしょう。

 女性の涙は無敵の武器などといわれますが、男の涙も魔力を発揮することがあります。
 ある時期まで、といっても時点を特定できるわけではありませんが、まあ、半世紀以上前のことだと思ってください。「男は人前で泣くな。人前で泣いていいのは親が死んだときだけだ」といった趣旨のことをいわれた男性は多かったと思います。

 そんなふうに育てられて、陰で涙を流すことはあっても、人前では泣かない男性が、何かの折に耐えかねたかのように涙をにじませることがあります。それを見た女性が、「まあ、この強い人が泣いているんだわ」とグラッとくることがあるといいます。

 ふだん泣かない男が泣くから、男の涙が魔力をもつのであって、人前で簡単に泣く、つまり涙の安売りをしていると、男の涙の価値がなくなる……と思ったら、最近は全然違うようです。

 「泣き男子」といって、むやみやたらに涙を流す男がモテるそうです。大して感動的でもない映画やビデオを見て泣く、任せられた仕事をやり遂げたからといって泣く、上司に怒られたからといって泣く、ペットがかわいいからといって泣く、彼女につれなくされたからといって泣く、友人の結婚式でもらい泣きする、などなど。

 私などは、自分の涙にもう少し価値をもたせろよ、といいたくなりますが、若い女性たちには、すぐ泣くのは感受性がゆたかで優しい証拠と受け取られ、そういう男性と結婚すればいい家庭が築ける、と思われているそうです。
 男は強くあれ、女は優しくあれ、という古い価値観にとらわれているわけではありませんが、昔人間にはよくわかりませんな。

 なお、「男は簡単に泣くな」から私、および私と同年配以上の諸氏は除きます。年を取ると涙もろくなるのは自然の摂理ですから(*^_^*)。

(二木紘三)


死んだ男の残したものは

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:谷川俊太郎、作曲:武満 徹

1 死んだ男の 残したものは
  ひとりの妻と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  墓石ひとつ 残さなかった

2 死んだ女の 残したものは
  しおれた花と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  着もの一枚 残さなかった

3 死んだ子どもの 残したものは
  ねじれた脚と 乾いた涙
  他には何も 残さなかった
  思い出ひとつ 残さなかった

4 死んだ兵士の 残したものは
  こわれた銃と ゆがんだ地球
  他には何も 残せなかった
  平和ひとつ 残せなかった

5 死んだかれらの 残したものは
  生きてるわたし 生きてるあなた
  他には誰も 残っていない
  他には誰も 残っていない

6 死んだ歴史の 残したものは
  輝く今日と また来るあした
  他には何も 残っていない
  他には何も 残っていない

《蛇足》昭和40年(1965)4月24日に開かれた「ベトナム平和を願う市民の会」で発表されました。

 この前日、詩人の谷川(たにかわ)俊太郎が作曲家・武満徹(たけみつ・とおる)のところに詩をもって現れ、明日の市民集会で歌えるように曲をつけてほしいと依頼しました。武満はその夜のうちに作曲、「ベトナム平和を願う市民の会」の関係者に渡しました。
 翌日の市民集会では、バリトン歌手・友竹正則が歌うとともに、歌唱指導も行い、以後、反戦集会などで盛んに歌われるようになりました。

 『原爆を許すまじ』や『さとうきび畑』と並ぶ代表的な反戦歌。『原爆を許すまじ』は、反核のメッセージを直截に伝えていますが、この歌や『さとうきび畑』は、詩・曲とも、戦争の無残、暴戻、悲惨、無意味さが徐々に、かつ深く心に染みんでくるような表現方法をとっています。

 実際、武満はできあがった曲に「メッセージ・ソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』(正題は『旅の夜風』)でも歌うような気持ちで歌ってほしい」という手紙を添えて受け取りに来た人に渡したといいます。

 武満徹は世界的に知られた現代音楽の作曲家ですが、クラシック系の歌曲や、この歌のように歌いやすい大衆的な曲もかなり作っています。
 この歌は、のちに林光がピアノ伴奏付きの混声合唱曲に編曲、その後、武満自身も無伴奏の合唱曲に編曲しています。

 4月24日の「ベトナム平和を願う市民の会」で、ベトナム反戦を訴えるさまざまな団体やグループを結集した「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の結成が決まりました。代表は作家の小田実。
 この組織は、翌年、名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更、略称「ベ平連」で広く知られるようになります。

 組織といっても、政党のようながっちりしたシステムではなく、「来る者は拒まず、去る者は追わず」式のゆるい連合体でした。そのため、ベトナム反戦を訴える一般市民や学生、文化人から、反米右翼までさまざまな人が集まりました。

 ベ平連の母体は、昭和35年(1960)の第一次反安保闘争のときに、哲学者の鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏らが結成した「誰デモ入れる声なき声の会」です。
 新安保条約の強行採決→自然承認後、この運動は終息しましたが、
昭和40年(1965)2月7日に始まった米軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」で一般市民の死者が増えたことが報道されると、ベトナム反戦運動として復活しました。そのスタートが前述の「ベトナム平和を願う市民の会」だったわけです。

 ベ平連は反戦広報活動やデモを展開し、別組織で脱走米兵の支援を行いましたが、昭和48年(1973)1月27日に南北ベトナムとアメリカの間で和平が成立したことを受け、翌年1月に解散しました。
 運動に関わった小田実、鶴見俊輔、
高畠通敏、武満徹、友竹正則、吉川勇一、岡本太郎、林光などは鬼籍に入りましたが、谷川俊太郎は健在です(平成27年〈2015〉現在)

(二木紘三)

秋でもないのに

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:細野敦子、作曲:江波戸憲和、唄:本田路津子

1 秋でもないのに ひとこいしくて
  淋しくて 黙っていると
  だれか私に 手紙を書いて
  書いているような
  ふるさともない 私だけれど
  どこかに帰れる そんな気もして

2 秋でもないのに ひとりぼっちが
  切なくて ギタ-を弾けば
  誰か窓辺で 遠くをながめ
  歌っているような
  恋人もない 私だけれど
  聴かせてあげたい そんな気もして

3 秋でもないのに 沈む夕陽に
  魅せられて 街に出ると
  誰か夕陽を 悲しい顔で
  見ているような
  空に瞳が あるならば
  あかね雲さえ 泣いているだろう

《蛇足》昭和45年(1970)9月1日にCBSソニーから発売。フォークシンガー本田路津子(るつこ)のデビュー曲です。

 この頃、森山良子は出産・育児のため、音楽活動を一時休止していました。たまたまその穴を埋めるかのように登場したのが、本田路津子でした。
 森山良子同様、澄んだ声で正統的な歌い方をする路津子は、『秋でもないのに』や、昭和47年
(1972)の『耳をすましてごらん』のヒットで、女性フォークシンガーの代表格のようになりました。

 路津子とは変わった名前ですが、両親がキリスト教徒だったことから、旧約聖書の『ルツ記』から取ったものだそうです。
 この時期、路津子はまだキリスト教徒ではなく、入信するのは昭和50年
(1975)に結婚したときだったといいます。結婚後渡米した路津子は、フォークからゴスペルへと音楽活動を転換しました。

 さてこの歌ですが、思春期から青春期にかけて、これと同じような心的状況を経験した人は多いのではないでしょうか。寂しさと憧れが入り交じったような気分。具体的に恋しい人がいるわけではなく、胸の空洞を埋めてくれそうな何かを求めて、夕焼け空を眺めたり、街に出てみたりする。

 私も、友達と会わなかった日や、人とほとんど口をきかなかった日には、読むつもりもない本を1冊かかえて、街をさまよったものでした。
 この歌では、「ふるさともない私だけれど」とありますが、田舎から出てきた私の場合は、思郷の思いが混じっていたような気がします。

 こうした"軽い孤独感"は、思春期・青春期における一種のモードであり、恋人ができたり、夢中になれるものが何か見つかったりすると、簡単に取り替えられてしまいます。漱石がロンドンで味わったような深刻な孤独感なら、そうはいきません。

(二木紘三)

耳をすましてごらん

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:山田太一、作曲:湯浅譲二、唄:本田路津子

1 耳をすましてごらん
  あれは遥かな 海のとどろき
  めぐりあい 見つめあい
  誓いあった あの日から
  生きるの強く ひとりではないから

2 旅を続けてはるか
  ひとり振り向く 遠いふるさと
  想い出に 幸せに
  淋しくないわと 微笑んで
  生きるの強く あの海があるから

3 空を見上げてごらん
  あれは南の 風のささやき
  時は過ぎ 人は去り
  冬の世界を 歩むとも
  生きるの強く あの愛があるから

《蛇足》 NHK連続テレビ小説の12作目として、昭和47年(1972)4月3日から1年間放映された『藍より青く』の主題歌。

 『藍より青く』は、山田太一の同名の小説を作者自ら脚本化したもの。主題歌の歌詞も彼が書きました。
 ドラマは、熊本県天草を舞台に、戦争末期から敗戦後に至る苦難の時代を、明るく、たくましく生き抜いた女性の物語。
 松竹が映画化し、昭和48年
(1973)2月に公開されました。
 上の写真は、実際の舞台とされる天草の牛深
(うしぶか)。昭和38年(1963)ごろの撮影と推測されます。

 主題歌を歌ったのは本田路津子で、レコードは昭和47年(1972)7月に発売され、『秋でもないのに』に続く2発目のヒットとなりました。

 本田路津子といい、昭和54年(1979)に『異邦人』を大ヒットさせた久保田早紀といい、最盛期を過ぎたと思われるころ、宗教に行っちゃったのはなぜでしょう。無信仰の俗物としては、神様に焼き餅を焼きたくなります。

(二木紘三) 

涙の渡り鳥

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作詞:西條八十、作曲:佐々木俊一、唄:小林千代子

1 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
  わたしゃ浮世の 渡り鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も みんなちりじり
  わたしゃ涙の 旅の鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
  わたしゃあてない 旅の鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  明日(あす)も越えましょ あの山を

《蛇足》昭和7年(1932)、ビクターから発売。
 歌ったのは、覆面歌手第一号として知られる小林千代子で、この頃には本名で歌っていました。大ヒットしたので、翌年、松竹で映画化されました。

 作曲者の佐々木俊一は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業後、ビクターの楽団でドラムを叩いていました。この曲は彼の最初の作品で、それが大ヒットという、作曲家として実に幸運なスタートを切りました。

 その後、彼はおもに佐伯孝夫と組んでヒット曲を連発しましたが、昭和32年(1957)に49歳という若さで亡くなってしまいました。
 『
無情の夢』『燦めく星座』『新雪『桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン』『明日はお立ちか』『高原の駅よさようなら』『月よりの使者』『アルプスの牧場』『野球小僧』『白樺の小道』は、いずれも佐伯孝夫とのコラボ作品です。

 佐々木俊一は浪曲(浪花節)のファンで、とくに春日井梅鶯(かすがい・ばいおう)が好きだったそうです。常々、「浪曲には大衆の好むものが潜んでいる」といい、作曲の際には梅鶯のレコードに耳を傾けていたといいます。

 この楽譜を見たとき、私は「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズがすぐに口をついて出てきました。生まれる10年も前の流行歌の一節がすぐに出てくるというのは、なんとも不思議です。私が小学生だった昭和20年代にも、この歌がラジオや催し物で流されていたのでしょう。
 もちろん、歌いやすく特徴のあるメロディだったことも重要な条件でしょう。近年、記憶に残りやすい印象的なメロディ/フレーズの含まれた曲が少なくなったのは残念です。

(二木紘三)

グリーン・フィールズ

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作詞・作曲:T.ギルソン、R.ディール、F.ミラー、
唄:ブラザーズ・フォア、日本語詞:うさみ かつみ

降りそそぐ光は
流れゆく青い河は
空に飛ぶ白い雲は
肩寄せる二人のため
輝いてくれたあの日

燃え尽きた太陽
凍てついた風の中で
そして今ひとりぼっち
季節外れ迷子のように
失った夢を探す

何があなた変えたのか
ぼくには何もわからない
砕けた愛のかけら
寄せ集めて生きてゆく

降り注ぐ光よ
流れゆく青い河よ
空に飛ぶ白い雲よ
よみがえる愛の日々は
鮮やかに胸の奥に


   GREEN FIELDS

Once there were green fields
Kissed by the sun.
Once there were valleys
Where rivers used to run.
Once there were blue skies
With white clouds high above.
Once they were part of
An everlasting love.
We were the lovers
Who strolled through green fields

Green fields are gone now
Parched by the sun.
Gone from the valleys
Where rivers used to run
Gone with the cold wind
That swept into my heart.
Gone with the lovers
Who let their dreams depart
Where are the green fields,
That we used to roam?

I'll never know what
Made you run away.
How can I keep searching
When dark clouds hide the day
I only know there's
Nothing here for me.
Nothing in this wide world
Left for me to see

But I'll keep on waiting,
Till you return.
I'll keep on waiting,
Until the day you learn.
You can't be happy,
While your heart's on the roam,
You can't be happy
Until you bring it home.
Home to the green fields
And me once again

《蛇足》アメリカのフォーク・グループ、ブラザーズ・フォア(The Brothers Four)が1960年1月にコロムビア・レコードから発売したシングル曲。昭和30年代後半にラジオにしがみついてアメリカン・ポップスを聞いていた人たちには、忘れられない曲でしょう。

 家庭でも歌えるような歌詞やけれん味のない正統的な歌い方が、とくに白人保守層に受け、たちまちベストセラーになりました。シングル盤はポップ・チャート2位まで昇り、同年の年末に出たアルバム『Brothers Four』はトップ20に入りました。

 ブラザーズ・フォアは、シアトルのワシントン大学時代に親しくなったボブ・フリックなど4人が、1957年にフォーク・グループを結成したのが始まり。
 4人とも同じフラタニティに所属していたところから、
ブラザーズ・フォアと名乗ったとされています。

 フラタニティは、アメリカの各大学・大学院に古くからある男子学生の社交クラブで、秘密結社めいたしきたりや規律があり、それに入会できるのは名誉とされています。フラタニティは兄弟(brother)を意味するラテン語のfraterから来た言葉で、日本語には兄弟会と訳されることもあります。
 同様の組織が女子学生にもあり、こちらはソロリティと呼ばれます。

 ブラザーズ・フォアは、その後、1960年の大作西部劇『アラモ』の主題歌『遥かなるアラモ (The Green Leaves of Summer)』など、いくつかのヒットを飛ばします。
 1960年代後半から、聴衆へのアピール力の強いロックの手法を取り入れたフォークロックが流行り始めます。そのあおりでブラザーズ・フォアの人気に陰りが出てきますが、彼らは巡業を中心に演奏活動を続けています。日本へも来ました。

 『グリーン・フィールズ』を作詞・作曲したのは、テリー・ギルソン、リチャード・ディール、フランク・ミラーの3人から成るシンガー・ソングライターのグループ、イージー・ライダーズ(The Easy Riders)
 このトリオは、『マリアンヌ』というミリオンセラーを生んだほか、ディーン・マーチンなど何人もの大物歌手に楽曲を提供しています。自作曲の
『グリーン・フィールズ』も歌っています。

 日本でもブラザーズ・フォアと同傾向の演奏活動をする男声コーラス・グループがいくつか生まれました。ブラザーズ・フォアのまねだという人もいましたが、ダークダックスは昭和26年(1951)、デューク・エイセスは昭和30年(1955)、ボニージャックスは昭和33年(1958)の結成ですから、まねとはいえません。結成にあたって刺激を受けたグループが、ほかにあったかもしれませんが。

(二木紘三)

新雪

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作詞:佐伯孝夫、曲:佐々木俊一、唄:灰田勝彦

1 紫けむる 新雪の
  峰ふり仰ぐ このこころ
  麓の丘の 小草を敷けば
  草の青さが 身に沁みる

2 けがれを知らぬ 新雪の
  素肌へ匂う 朝の陽よ
  若い人生に 幸あれかしと
  祈るまぶたに 湧く涙

3 大地を踏んで がっちりと
  未来に続く 尾根づたい
  新雪光る あの峰越えて
  行こうよ元気で 若人よ

《蛇足》昭和17年(1942)8月にビクターから発売。このころ、敵性語排除政策により、社名は日本音響(株)に変わっていましたが、レーベルはビクターのままでした。

 この曲も、佐伯孝夫・佐々木俊一のコラボになる青春歌謡の傑作で、同年10月1日に公開された大映映画『新雪』(五所平之助監督)の主題歌です。
 原作は、昭和16年
(1941)11月24日から翌年4月28日まで『朝日新聞』に連載された藤澤桓夫(ふじさわ・たけお)の同名小説。小説も映画も大好評で、歌も大ヒットしました。

 内容は、情熱をもって教育に取り組む小学校教員とその恩師の娘や勝気な女医とのさわやかな恋模様。
 私は、歌詞から漠然と中部山岳地帯をイメージしていましたが、映画の舞台は阪急六甲駅とその周辺だそうです。そうすると、歌詞に出てくる峰は六甲山系ということになるのでしょう。

 公開後しばらくすると、このような明るく楽しい映画は青年の戦意を損なうものとして軍部により焼却されため、プリントもポジも残っていないとされていました。
 ところが、ソ連崩壊後の1996年と1998年の2回、東京国立近代美術館フィルムセンターが
ゴスフィルモフォンド(ロシア国立映画保存所)を調査したところ、オリジナル124分のうち84分のフィルムが保存されていることがわかりました。
 『新雪』のほか、『土』『父ありき』など、戦中・戦後の作品が多数見つかりました。

 それらのなかには、ソ連が対日参戦(昭和20年〈1945〉8月9日)する前に日本から輸入したものもあったでしょうが、大部分は満州侵入後、日本人居住地の映画館などから接収したものだと思われます。
 戦前、日本の傀儡国
(かいらいこく)だった満州国には、満州映画協会という機関があり、在留邦人のために多くの日本映画を輸入・公開していたのです。  

 『新雪』の歌・映画が公開された年の4月18日には米軍機による本土初空襲があり、5月7日の珊瑚海海戦、6月5日のミッドウェー海戦で日本軍は大打撃を受け、さらにキスカ島、アッツ島、ガダルカナル島と敗北を続けていました。しかし、国民の大部分は「勝った、勝った」の大本営を信じていたのです。

(二木紘三)

コサックの子守歌

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ロシア民謡、作詞:レールモントフ

               日本語詞1:度会祐一

1 眠れや愛し子 安らかに
  空から月も のぞいてる
  お聞きよ私の 子守歌
  まどろむお前の 頬に微笑(えみ)

2 やがては旅立つ 愛し子よ
  門出に手を振る りりしさよ
  見送る涙が 母の夢
  眠れや愛し子 安らかに


               日本語詞2:津川主一

眠れやコサックの 愛し子よ
空に照る月 見て眠れ
やさしい言葉と 歌を聞き
静かに揺り籠に 眠れよや
                                   (繰り返す)


КАЗАЧЬЯ КОЛЫБЕЛЬНАЯ ПЕСНЯ

1. Спи, младенец мой прекрасный,
    Баюшки-баю.
    Тихо смотрит месяц ясный
    В колыбель твою.
    Стану сказывать я сказки,
    Песенку спою;
    Ты ж дремли, закрывши глазки,
    Баюшки-баю.

2. По камням струится Терек,
    Плещет мутный вал;
    Злой чечен ползет на берег,
    Точит свой кинжал;
    Но отец твой старый воин,
    Закален в бою:
    Спи, малютка, будь спокоен,
    Баюшки-баю.

3. Сам узнаешь, будет время,
    Бранное житье;
    Смело вденешь ногу в стремя
    И возьмешь ружье.
    Я седельце боевое
    Шелком разошью...
    Спи, дитя мое родное,
    Баюшки-баю.

4. Богатырь ты будешь с виду
    И казак душой.
    Провожать тебя я выйду —
    Ты махнешь рукой...
    Сколько горьких слез украдкой
    Я в ту ночь пролью!..
    Спи, мой ангел, тихо, сладко,
    Баюшки-баю.

5. Стану я тоской томиться,
    Безутешно ждать;
    Стану целый день молиться,
    По ночам гадать;
    Стану думать, что скучаешь
    Ты в чужом краю...
    Спи ж, пока забот не знаешь,
    Баюшки-баю.

6. Дам тебе я на дорогу
    Образок святой:
    Ты его, моляся богу,
    Ставь перед собой;
    Да готовясь в бой опасный,
    Помни мать свою...
    Спи, младенец мой прекрасный,
    Баюшки-баю.

《蛇足》帝政ロシアの詩人で作家のミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов 1814-1841)が、軽騎兵士官としてテレク河畔のある村に宿営していたとき、コサックの若い母親の歌う子守歌に感動して採譜、1838年に作詞したもの。

 レールモントフの詩を見ますと、1番は、

おやすみ、私のかわいい赤ちゃん
ねんころろ、ねんころろ
明るいお月様があなたの揺り籠を
静かに照らしているわ
お話してあげましょう
歌ってあげましょう
さあお眠りなさい、目を閉じて
ねんころろ、ねんころろ

 といったふうで、どの子守歌にもあるように、赤ん坊を寝かしつける母親の優しい気持ちが歌われています。

 ところが、2番では「テレク川の岸を獰猛なチェチェン人が短刀を研ぎあげてよじ登ってくるわ。でもお父さんは古強者だから、安心しておやすみ」、3番では「時が来ればおまえも銃をとって馬に乗り、戦いに明け暮れるようになるでしょう」と、子守歌にはまったくふさわしくない歌詞になります。
 4番以降は、息子をそうした戦いに送り出さなければならない母親の辛さ、悲しさが歌われています。

 1番は、レールモントフが聞いた母親の歌をほぼそのまままとめたものでしょうが、2番以降は、彼が体験し、見聞きしたコサックの生活を描いたものだと思われます。

 コサックは、タタール人のグループに、支配者の抑圧や収奪を嫌った農民や職人たちが加わって軍事的共同体を築いたのが始まり。ドニエプル川(ドネプル川)中流域のザポロージャ地方に根拠地を築いたザポロージャ・コサック、ドン川下流に勢力を築いたドン・コサックが有名ですが、そのほか幾つかの地域にもコサックの共同体ができました。
 コサックは、自由な人とか豪胆な者を意味するトルコ語が由来で、ロシア語ではカザークといいます。騎兵戦を得意とした勇猛な民族です。

 17世紀後半から18世紀にかけて、たびたび帝政政府に対して反乱を起こしました。民謡『ステンカ・ラージン』に歌われたラージンの乱や、プーシキンの小説『大尉の娘』に描かれたプガチョフの乱がとくに有名です。
 19世紀に入ると、ロシアのコサックは、税金免除と引き換えに、国境警備や治安維持の兵役義務が課されました。

 レールモントフが士官として勤務した地域のコサックは、テレク・コサックと呼ばれます。
 テレク川はジョージア
(グルジア)の北端、オセチア地方に流れを発し、ほぼ北に向かって流れ、北緯・東経とも44度付近で東に方向を変え、やがてカスピ海に注ぎます。
 テレク・コサックの本拠地はこの川の西側で、東側にはイスラムの影響を受けたイングーシ人やチェチェン人が住んでいました。テレク川の南東側をロシア領にするのがテレク・コサック軍団に下された指令であり、それに抵抗する
イングーシ人、チェチェン人との間に絶えず激しい戦闘が交わされていました。

 すなわち、テレク・コサックの男は、大人になったら騎兵として戦うのが代々のしきたりであり、これは他のコサック軍団でも同じでした。したがって、コサックの妻たちは夫を、母親たちは息子を失うことを常に心配しなければなりませんでした。 
 レールモントフが書いた2番以降の歌詞は、こうした宿命を負った母親たちの苦しい心情を反映させたものといっていいでしょう。

 レールモントフが採譜・作詞した子守歌は、モスクワの友人たちによって、幾つかの集まりで演奏されました。それが評判になり、やがて国内にとどまらず、国外でも愛唱されるようになりました。
 ただ、ほとんどの場合、2番以降の悲劇的な歌詞は歌われないようです。上の日本語詞のうち、度会祐一の2番は、原詞の3番以降を婉曲な表現で1聯にまとめています。

 津川主一の日本語詞と下記のエスペラント訳は、原詞1番の内容だけを扱うとともに、1番・2番とも原曲1聯の前半のメロディだけを使っています。しかし、両方とも、原曲と同じく1つの聯として歌っても、メロディとのズレはあまりないので、ここでは1つの聯として表記しました。

 下のエスペラント訳は、私がまだエスペラントを熱心にやっていた頃の思い出の曲です。エスペラント自体は怪しくなりましたが、この歌の歌詞は戸惑うことなく出てきます。

 KOZAKA LULKANTO

Dormu bebo,mia kara,
Baj baj lul baj lul.
Gardas vin la luno klara
El ĉiel-angul'.
Kantas panjo,kantas pete,
Dormu do,karul'.
Fermu la okulojn prete,
Baj baj lul baj lul.

 レールモントフは貴族の家に生まれ、近衛軽騎兵の士官になりました。早くから文才を認められていましたが、敬愛するプーシキンを決闘に追い込んで死なせた宮廷貴族を憎悪する詩を書いたことが、当局の忌諱に触れ、辺境のカフカスに左遷されます。
 一度はモスクワに戻れましたが、決闘事件を起こしたため、また同地へ転任。刑罰としての派遣だったため退職が許されませんでした。
 幾つかの戦いで、彼は先頭を切って突進するなど、コサック兵たちも驚くような猛勇を振るいましたが、これは将来への絶望から死を願っての振る舞いだったようです。
 皮肉なことに、レールモントフは戦闘では死なず、些細な原因から同僚士官と決闘して負け、激情の生涯を終えました。26歳でした。

 その後のコサックの運命も悲惨です。1917年にロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、コサックは白軍=反革命軍に加わりましたが、敗北。第二次大戦では、ドイツ軍に味方しましたが、このときも敗北。
 このため、レーニンとその後を継いだスターリンによって、コサックたちは家族ぐるみ死刑、シベリアへの流刑、土地没収・強制移住による餓死などで数百万人が死亡し、共同体は姿を消しました。まさしくジェノサイド
(民族抹殺)でした。

(二木紘三)


サボテンの花

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作詞・作詞:財津和夫、唄:チューリップ

1 ほんの小さな出来事に
  愛は傷ついて
  君は部屋をとびだした
  真冬の空の下に
  編みかけていた手袋と
  洗いかけの洗濯物
  シャボンの泡がゆれていた
  君の香りがゆれてた
  絶えまなく降りそそぐ
  この雪のように
  君を愛せばよかった
  窓に降りそそぐ
  この雪のように
  二人の愛は流れた

2 想い出つまったこの部屋を
  僕も出てゆこう
  ドアに鍵をおろした時
  なぜか涙がこぼれた
  君が育てたサボテンは
  小さな花をつくった
  春はもうすぐそこまで
  恋は今終った
  この永い冬が終るまでに
  何かをみつけて生きよう
  何かを信じて生きてゆこう
  この冬が終るまで

  この永い冬が終るまでに
  何かをみつけて生きよう
  何かを信じて生きてゆこう
  この冬が終るまで
  ララララ……

《蛇足》昭和50年(1975)2月5日にリリース。フォークがニューミュージックへと変質し始めた時期に現れた傑作の1つです。
 江口洋介主演によるフジテレビ系の連続ドラマ、『ひとつ屋根の下』の主題歌として使われました。

 財津和夫は、 山本コウタローとの対談で、(サボテンの花)は前年の1974年にヒットした山本コウタローとウィークエンドの『岬めぐり』を参考にして"アンサーソングのつもり"で作詞した」と語っています(講談社『月刊現代』 平成19年〈2007〉11月号』
 しかし、この場合、彼は「アンサーソングのつもり」ではなく、「前編のつもり」というべきでした。アンサーソングは、歌詞の内容が元歌より時間的にあとのものをいうからです。

 製作年は『サボテンの花』のほうがあとですが、『サボテンの花』→『岬めぐり』とつなげることによって、1つのストーリーが生まれます。
 『サボテンの花』の恋人たちは、仲睦まじかったころ、どこどこの岬に行ってみようと話していたのでしょう。破局によって、それがだめになりました。ここから、『岬めぐり』の「二人で行くと約束したが、今ではそれもかなわないこと」につながるわけです。

 真冬に彼女が飛び出したあと、彼の胸に生じた「絶えまなく降りそそぐこの雪のように、君を愛せばよかった」という後悔は、春か初夏になって一人で岬めぐりにでかけたときも、「くだける波のあの激しさで、あなたをもっと愛したかった」という哀惜の思いとして残ります。

 この歌にも、『結婚するって本当ですか』にも、「ほんの小さな出来事で」というフレーズが出てきます。実際、青春期の恋には、「ほんの小さは出来事で」壊れてしまうケースが少なくないようです。

 しかし、「ほんの小さな出来事」は、概して一方の主観にすぎません。一方が「ほんの小さな出来事」と思っていても、もう一人には許しがたい重大な出来事だったりするのです。
 もし二人とも「ほんの小さな出来事」と思っていたのなら、口争いぐらいにはなるでしょうが、破局にまでは至らないはずです。

 「ほんの小さな出来事」と思っているほうがまず詫びること――これが別れを避けるための第一歩です。
 それでも、相手が受け入れず、別れることになったら、少なくとも愛別という思い出は残ったと思って、諦めるしかありません。思い出は、嬉しいものでも悲しいものでも、いつかは資産になるのです。
 ちなみに、『サボテンの花』には、財津和夫の失恋体験が反映されているそうです。

(二木紘三)

旅姿三人男

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作詞:宮本旅人、作曲 鈴木哲夫、唄:ディック・ミネ

1 清水港の 名物は
  お茶の香りと 男伊達(おとこだて)
  見たか聞いたか あの啖呵(たんか)
  粋な小政の 粋な小政の旅姿

2 富士の高嶺(たかね)の 白雪が
  溶けて流れる 真清水(ましみず)
  男磨いた 勇み肌
  何で大政 何で大政国を売る

3 腕と度胸じゃ 負けないが
  人情からめば ついほろり
  見えぬ片眼に 出る涙
  森の石松 森の石松よい男

《蛇足》昭和14年(1939)にテイチクから発売。
 幕末から明治にかけて、"海道一の大親分"と謳われた清水の次郎長の子分のなかでも、とりわけ人気のあった3人をテーマとした股旅演歌。

 ジャズ・ブルースなど洋楽系を得意としたディック・ミネの歯切れのよい、小粋な歌唱が大ヒットにつながりました。

 清水の次郎長の元の名前は高木長五郎。子どものなかった母方の叔父・山本次郎八の養子になったため、山本長五郎が本名になりました。「次郎八のところの長五郎」から次郎長と呼ばれるようになったといわれています。

 子どものころ、私はいろいろ覚えるのがおもしろくて、真田十勇士、水滸伝の108人の統領たち、清水二十八人衆の名前などを暗記しました。年を経て、今ではもう主だったキャラクターの名前しか出てきません。

 少年雑誌の付録で清水二十八人衆の名前を覚えたとき、何回数えても27人しかいないのを不思議に思いましたが、最近、次郎長も入れて清水二十八人衆ということを知りました。

 今日に至るまで、多くの人に知られている次郎長伝は、一時期次郎長の養子になった天田五郎(別名・鉄眉、のちに出家して天田愚庵)が書いた『東海遊侠伝 一名 次郎長物語』(明治17年〈1884〉輿論社)が基になっています。
 この本は、博打規則違反の罪で収監されていた次郎長を援護する目的で書かれたため、次郎長を美化しているうえに、
かなりフィクションが加えられています。

 このストーリーを脚色して講談に仕上げたのが、三代目神田伯山で、それを浪曲(浪花節)にしたのが二代目広沢虎造です。昭和2,30年代には、ラジオで盛んに浪曲が放送されたため、私も、広沢虎造や玉川勝太郎の次郎長伝を何度か聞きました。

 とくにおもしろかったのが、『石松三十石舟』のくだり。次郎長に金毘羅宮代参を命じられた石松は、船客のひとりが次郎長の子分で誰が強いかと話しだすのを聞きます。
 「一番はなんたって大政だな。二番は小政……」と続けますが、なかなか自分の名前が出てきません。
 石松は、「江戸っ子だってねェ、スシ食いねェ」と
おだてて、なんとか自分の名前をいわせようとします。そのうち、江戸っ子は彼が石松だと気がつきますが、わざと「そうだ、肝心なのを忘れていた。森の石松、これは強い。強いが馬鹿だ。馬鹿は死ななきゃ治らねェ」とからかいます。

 このくだりには笑いましたね。もちろんこのエピソードはフィクションです。
 次郎長伝には、このほか黒駒の勝蔵との抗争や荒神山の大でいりなどもありますが、子どもの私は、石松三十石舟のくだりがいちばん好きでした。

 次郎長伝にはいくつかフィクションがありますが、登場人物にも、実在が疑問視されている者が何人かいます。たとえば、追分の三五郎は神田伯山の創作だとされています。

 森の石松も、出自がはっきりせず、存在が疑問視されていますが、静岡県周智郡森町の大洞院(曹洞宗)ほか、数か所に墓があり、実在説を唱える人もいます。
 実在の人物だったとしても、片目は疑問で、喧嘩で片目・片腕を失った
三保の松五郎を、天田が石松に移し替えたか、石松と松五郎とを混同したのではないかといわれています。三保の松五郎は、豚松という名前で小説や映画によく登場します。

 大政・小政は実在の人物。本名は大政が原田熊蔵、小政が吉川冬吉ですが、次郎長の子分になったあと、その養子になり、ともに政五郎という名前を与えられました。
 同じ名前では識別しにくいので、体の大きい
熊蔵が大政、冬吉が小政と呼ばれるようになったそうです。

 江戸中期から明治維新前後に活動した侠客・ヤクザのなかでは、次郎長はずば抜けて人気があり、芝居はもちろん、何度も映画化されています。

 上の写真は荒神山抗争の手打ち式後の記念写真で、明治4年(1871)に撮られたもの。ほぼ全員の名前が判明しており、前列向かって左から3人目が次郎長、後列左から4人目が大政。

 2番の「国を売る」があまりよく理解されていないようですが、人を斬るなどの軽罪や義理を欠く行為を犯したために、郷里を出奔したり追放されたりすることです。今日の売国奴の売国とは意味が違います。

(二木紘三)

荒野の果てに

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フランス民謡/讃美歌、日本語詞:由木 康

1 荒野(あらの)の果てに 夕日は落ちて 
  妙(たえ)なる調べ 天(あめ)より響く 
  ※グロ――リア、イン エクセルシス デオ 
    グロ――リア、イン エクセルシス デオ 

2 羊を守る 野辺の牧人(まきびと)
  天なる歌を 喜び聞きぬ 
  ※(繰り返し)

3 御歌(みうた)を聞きて 羊飼いらは 
  馬槽(まぶね)に伏せる 御子(みこ)を拝みぬ 
  ※(繰り返し)

4 今日(きょう)しも御子は 生まれ給いぬ 
  よろずの民よ 勇みて歌え 
  ※(繰り返し)


(フランス語原歌詞)
Les anges dans nos campagnes

1. Les anges dans nos campagnes
   Ont entonné l’hymne des cieux;
   Et l’écho de nos montagnes
   Redit ce chant mélodieux.
   Glo――ria, in excelsis Deo,
   Glo――ria, in excelsis Deo.

2. Bergers, pour qui cette fête?
   Quel est l’objet de tous ces chant?
   Quel vainqueur, quelle conquête
   Mérite ces cris triomphants?
   Glo――ria, in excelsis Deo,
   Glo――ria, in excelsis Deo.

3. Ils annoncent la naissance
   Du Libérateur d’Israël,
   Et pleins de reconnaissance
   Chantent en ce jour solennel.
   Glo――ria, in excelsis Deo,
   Glo――ria, in excelsis Deo.

4. Bergers, loin de vos retraites
   Unissez-vous à leurs concerts
   Et que vos tendres musettes
   Fassent retentir dans les airs:
   Glo――ria, in excelsis Deo,
   Glor――ia, in excelsis Deo.

英語詞(by James Chadwick)
  Angels We Have Heard on High

1. Angel we have heard on high,
   Sweetly singing o'er the plains
   And the mountains in reply
   Echoing their joyous strains.
   Glo――ria, In Excelsis Deo
   Glo――ria, In Excelsis Deo 

2. Shepherd why this jubilee,
   Why your joyous strains prolong
   What the gladsome tidings be,
   Which inspire your heavenly song?
   Glo――ria, In Excelsis Deo
   Glo――ria, In Excelsis Deo 

3. Come to Bethlehem and see,
   Him whose birth the angels sing
   Come adore on bended knee,
   Christ the Lord the newborn king.
   Glo――ria, In Excelsis Deo
   Glo――ria, In Excelsis Deo 

4. See him in a manger laid,
   Whom the choirs of angels praise
   Mary, Joseph, lend your aid,
   While our hearts in love we raise.
   Glo――ria, In Excelsis Deo
   Glo――ria, In Excelsis Deo

《蛇足》質朴で敬虔な羊飼いの祈りを歌った、フランスの古いキャロル。キャロルは祝い歌という意味。教会では讃美歌として歌われています。

 南仏プロヴァンスのランゲドックあたりから歌われ始めたとされ、曲には16世紀フランスのキャロルの特徴が見られるといわれています。その後、さまざまな歌詞が付け加えられて、8番以上もあるようですが、上記歌詞欄では4番までにとどめました。

 フランスでは1846年にボルドーで、1848年にパリで出版された讃美歌集に収録されたという記録があります。

 1862年にイギリスのカトリックの司教ジェイムズ・チャドウィック(James Chadwick 1813-1882)が英語に翻訳したことから、英米等でも広く歌われるようになりました。

 歌詞は、20世紀初めまで各聯最初の4行だけでした。これを劇的に変えたのは、アメリカの教会オルガン奏者だったエドワード・シップン・バーンズ(Edward Shippen Barnes 1887-1958)です。
 彼は、曲調を整えただけでなく、各聯の末尾に"Gloria, In Excelsis Deo"というラテン語の詠唱を付け加えました。
 とくに、
Gloriaを4小節分伸ばして歌うようにしたことにより、荘厳さが強調されたメロディになりました。今日世界で歌われているのは、このバーンズ版です。
 
"Gloria, In Excelsis Deo"は、「いと高きにおわす神に栄光あれ」という意味。

 日本語詞作者の由木康ゆうき・こう 1896-1985)は、日本の牧師で讃美歌作家。讃美歌『きよしこの夜』の訳者で、パスカルの研究者としても知られています。

(二木紘三)

アフトン川の流れ

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スコットランド民謡、詩:ロバート・バーンズ
作曲:ジェームズ・E・スピルマン、
日本語詞:龍田和夫

1 やさし流れ 緑なす
  岸辺に立ち 歌いしは
  君が夢路 やすかれと
  流れに寄せ 祈る身は
  木々のさやぎ 丘を越え
  谷のつぐみ 鳴けばとて
  君が夢路 破るまじ
  わがいとしの 君なれば

2 浅き谷を 呼びあつめ
  谷をめぐる この流れ
  朝日はえて 群れあそぶ
  羊の声 なつかしや
  目路(めじ)の限り 花咲ける
  谷の緑 さやけしや
  夜のしじま いつしかに
  牧場を越え しのびきぬ

3 清き流れ すべりゆく
  風に散りて きらめきぬ
  みぎわ近く たたずめば
  紅き花の ただよいぬ
  窓辺近く 流れゆく
  水の音の 静けしや
  君が夢路 やすかれと
  流れに寄せ 祈る身は

       Flow Gently Sweet Afton

1. Flow gently, sweet Afton! among thy green braes,
   Flow gently, I’ll sing thee a song in thy praise;
   My Mary’s asleep by thy murmuring stream—
   Flow gently, sweet Afton, disturb not her dream.

2. Thou stock-dove, whose echo resounds thro’ the glen;
   Ye wild whistling blackbirds in yon thorny den;
   Thou green-crested lapwing, thy screaming forbear—
   I charge you disturb not my slumbering fair.

3. How lofty, sweet Afton! thy neighbouring hills,
   Far mark’d with the courses of clear, winding rills;
   There daily I wander as noon rises high,
   My flocks and my Mary’s sweet cot in my eye.

4. How pleasant thy banks and green valleys below,
   Where wild in the woodlands the primroses blow!
   There, oft as mild evening weeps over the lea,
   The sweet-scented birk shades my Mary and me.

5. Thy crystal stream, Afton, how lovely it glides,
   And winds by the cot where my Mary resides;
   How wanton thy waters her snowy feet lave,
   As gathering sweet flow’rets she stems thy clear wave.

6. Flow gently, sweet Afton! among thy green braes,
   Flow gently, sweet river, the theme of my lays!
   My Mary’s asleep by thy murmuring stream—
   Flow gently, sweet Afton! disturb not her dream.

《蛇足》 スコットランド民謡。ロバート・バーンズ(Robert Burns 1759-1796)の詩に、アメリカの弁護士で作曲家ジョナサン・E・スピルマン(Jonathan E. Spilman 1812-1896)が曲をつけたもの。

 バーンズは1759年、スコットランド南西部サウス・エアシャー、アロウェイの貧しい農家に生まれました。生活の資を補うため収税吏の職についた一時期を除いて、農業をしながら詩を書き続けました。作品の多くは方言(ゲール語)で書かれ、大衆に愛誦されました。

 彼の家はアフトン河畔のエアシャーにあり、その流れに感動して作ったものといわれます。詩の中のメアリーは、諸説ありますが、バーンズが27歳のとき求愛したメアリー・キャンベル(Mary Campbell 1763–1786)を指すというのがほぼ一致した見方。
 メアリーの母方の親戚で牧師のデイヴィッド・キャンベルは、メアリーは、美しく、溌剌とした青い目の少女だったと述べています。

 今日まで伝わっているところによると、バーンズは1786年の4月に教会でメアリーと知り合い、ひと目で恋に落ちたようです。2人は交流を重ねますが、メアリーは、チフスにかかった兄のロバートの看病している間に感染して、同年10月20日に亡くなってしまいました。23歳でした。

 わずか半年の付き合いであり、文献もほとんどないことから、どの程度の関係だったかはわかりませんが、サウス・エアシャーのエアー川の岸でスコットランドの伝統的な結婚の形式に従って貞節の誓いを交わした、という話が伝わっています。

 バーンズは、メアリーに『ハイランドのO嬢(The Highland Lassie O)』『ハイランドのメアリー(Highland Mary)』『天上のメアリーへ(To Mary in Heaven)』という3つの詩を捧げています。
 2つ目の詩から、メアリー・キャンベルは、「ハイランドのメアリー」とも呼ばれています。

 バーンズのいくつかの詩に曲が付けられていますが、『ハイランドのメアリー』もその1つです。Highlandmary
 ローラ・インガルス・ワイルダーが書いた「インガルス一家」のシリーズの4巻目『シルバーレイクの岸辺で』に、お父さんのバイオリンに合わせて、メアリーが
『ハイランドのメアリー』を歌うという場面があります。

  メアリー・キャンベルのあまりに短い生涯と、2人のはかない恋への感動が、『アフトン川』や『ハイランドのメアリー』が永く愛唱されてきた理由でしょう。
 右の写真はメアリーが葬られたグリーンノック中央墓地に建てられた記念碑。

 スピルマンのメロディは、アメリカでは讃美歌にも使われ、またサウス・カロライナ大学の校歌にもなっています。
                **********

 白河夜舟さんからコメント(投稿欄参照)をいただいたので、原詩について調べ直してみました。
 私が原詩を採ったのは、飯塚書店刊『イギリス民謡集』
(1957年11月5日発行)の98~99ページで、訳詞者は英独仏の民謡・歌曲を数多く訳している龍田和夫氏(本名は作曲家の清水脩)です。

  同書では、それぞれの箇所が、resounds from the hill,  in yon thorny dell とあり、私の写しまちがいではありませんでした。
 ただ、hillとdellについては、誤記か誤植の可能性もありますので、ほかの資料にも当たってみました。

 これならたぶんだいじょうぶだろうと思われたのが、アラン・カニンガム(Allan Cunningham)編の"The Complete Works of Robert Burns: Containing his Poems, Songs, and Correspondence.With a New Life of the Poet, and Notices, Critical and Biographical"で、1855年にニューヨークのPHILLIPS, SAMPSON, AND COMPANYから出版されています。

 これで見ると、問題の箇所は確かにglen、denとなっていました。ただし、resoundsの次がfromでなく thro’になっていました。そこで、原詩を上記のように直しました。

               **********

 櫻井雅人・一橋大学名誉教授から、『アフトン川の流れ』には別ヴァージョンの曲があるというご教示をいただきました。櫻井さんは、日本のオリジナル唱歌と信じられていた『仰げば尊し』が、実はアメリカの曲だったことを発見して、多くの人に衝撃を与えた人です。

 別ヴァージョンの曲とは、スコットランドの詩人で作曲家のアレクサンダー・ヒューム(Alexander Hume 1811–1859)が作曲したもので、曲のタイトルは"Afton Water"となっています(曲からこのページに戻るにはブラウザーの「戻る」ボタンをクリックしてください)
 ヒュームの曲の楽譜は
、"Scots Musical Museum"の第4巻にバーンズの詩とともに掲載されています。

 "Scots Musical Museum"は、彫刻師で楽譜販売業のジェームズ・ジョンソン(James Johnson 1753?-1811)が、18世紀から19世紀のスコットランド民謡を体系的に収録した6巻のシリーズで、スコットランドの民謡を研究するうえでは最重要な文献とされています。
 バーンズもこのプロジェクトに参画し、編纂に当たるとともに、自分の作品も寄稿しています。

 第4巻が発売されたのは1792年ですから、ヒュームの作曲はその前、たぶん1791年あたりということになります。

 櫻井さんによると、イギリスではスピルマンの曲を知る人は非常に少なく、『アフトン川』の曲というとヒュームの作品というのが常識のようになっているそうです。

(新しい情報を加えたので、再投稿しました。したがって、いただいたコメントとは日付が食い違っています)。

(二木紘三)

ゆき

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


文部省唱歌

1 雪やこんこ あられやこんこ
  降っては降っては ずんずん積もる
  山も野原も わたぼうしかぶり
  枯木残らず 花が咲く

2 雪やこんこ あられやこんこ
  降っても降っても まだ降りやまぬ
  犬は喜び 庭かけまわり
  猫はこたつで 丸くなる

Yuki
(上の絵は2016年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです)。

《蛇足》明治44年(1911)に発行された第2学年用の音楽教科書『尋常小学唱歌(二)』が初出。
 この教科書では、題名は「雪」と漢字で書かれ、ルビはついているものの、霰、火燵など小学2年生にはむずかしい漢字が使われていました。

 この歌でよく話題になるのは、各聯の1行目に出てくる「こんこ」です。テレビのクイズ番組で、これを「こんこん」と歌って失格になり、笑われるといった場面を何度も見ました。

 私は長い間、「こんこ」は、「雪がしんしんと降る」の「しんしん」と同じく擬態語だろうと思っていました。
 ところが、国語学者
の大野晋は「こんこの元は『来ム来ム』」、国文学者の池田弥三郎は「『来う来う』が語源」であり、いずれも「来い=降れ」の意で、雪を歓迎する言葉だと説明しています。

 この教科書の10年前、明治34年(1901)に発行された共益商社編『幼稚園唱歌』に載っている『雪やこんゝゝ』では、「雪やこんこん、あられやこんこん。もっとふれふれ、とけずにつもれ。~」となっています。作詞は東くめ、作曲は瀧廉太郎です(『池田小百合 なっとく童謡・唱歌』より)
 これも「雪よ降れ」を意味する「来い」がなまったものでしょう。
 ですから、唱歌『ゆき』では「こんこ」と歌わなければなりませんが、言葉としては「こんこん」でもまちがいとはいえないわけです。

 雪……子どものころの興奮がかすかに蘇ってきます。

 眠い目をこすって障子を開けると、しっかり閉めたはずの板戸のわずかなすき間から白い線が廊下に伸びている。
 ちょっとときめきながら、板戸を開けると、遠くの山の麓まで真っ白。山はずっと前から雪で覆われている。一晩で世界が変わった。「ウヮー」と歓声を上げる。

 おとなが雪かきしてくれた道を通って学校へ行く。雪が止みそうになると、もっと降れと思って、しょっちゅう窓の外を見る。
 「コーゾー君、よそ見するんじゃない!」と先生に叱られるが、心ここにあらず。昼休みはもちろん雪合戦。3年生ぐらいまでは女子も参加したが、その後は男の子だけ。
 帰り道は、雪が増えて歩きにくくなった道を押し進みながら、自分は極地の探検家であるかのように想像する。

 森羅万象に感動した日々は、はるかに遠くなりました。今は、母親に手を引かれた幼児や学校帰りの小学生たちが、つまらないことに歓声を上げたり、笑いこけたりする姿に、かつての自分を重ね合わせて喜びを感じているだけです。

(二木紘三)

アフトン川の流れ

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スコットランド民謡、詩:ロバート・バーンズ
作曲:ジェームズ・E・スピルマン、
日本語詞:龍田和夫

1 やさし流れ 緑なす
  岸辺に立ち 歌いしは
  君が夢路 やすかれと
  流れに寄せ 祈る身は
  木々のさやぎ 丘を越え
  谷のつぐみ 鳴けばとて
  君が夢路 破るまじ
  わがいとしの 君なれば

2 浅き谷を 呼びあつめ
  谷をめぐる この流れ
  朝日はえて 群れあそぶ
  羊の声 なつかしや
  目路(めじ)の限り 花咲ける
  谷の緑 さやけしや
  夜のしじま いつしかに
  牧場を越え しのびきぬ

3 清き流れ すべりゆく
  風に散りて きらめきぬ
  みぎわ近く たたずめば
  紅き花の ただよいぬ
  窓辺近く 流れゆく
  水の音の 静けしや
  君が夢路 やすかれと
  流れに寄せ 祈る身は

       Flow Gently Sweet Afton

1. Flow gently, sweet Afton! among thy green braes,
   Flow gently, I’ll sing thee a song in thy praise;
   My Mary’s asleep by thy murmuring stream—
   Flow gently, sweet Afton, disturb not her dream.

2. Thou stock-dove, whose echo resounds thro’ the glen;
   Ye wild whistling blackbirds in yon thorny den;
   Thou green-crested lapwing, thy screaming forbear—
   I charge you disturb not my slumbering fair.

3. How lofty, sweet Afton! thy neighbouring hills,
   Far mark’d with the courses of clear, winding rills;
   There daily I wander as noon rises high,
   My flocks and my Mary’s sweet cot in my eye.

4. How pleasant thy banks and green valleys below,
   Where wild in the woodlands the primroses blow!
   There, oft as mild evening weeps over the lea,
   The sweet-scented birk shades my Mary and me.

5. Thy crystal stream, Afton, how lovely it glides,
   And winds by the cot where my Mary resides;
   How wanton thy waters her snowy feet lave,
   As gathering sweet flow’rets she stems thy clear wave.

6. Flow gently, sweet Afton! among thy green braes,
   Flow gently, sweet river, the theme of my lays!
   My Mary’s asleep by thy murmuring stream—
   Flow gently, sweet Afton! disturb not her dream.

《蛇足》 スコットランド民謡。ロバート・バーンズ(Robert Burns 1759-1796)が1791年に書いた詩に、アメリカの弁護士で作曲家ジョナサン・E・スピルマン(Jonathan E. Spilman 1812-1896)が1837年に曲をつけたもの。

 バーンズは1759年、スコットランド南西部サウス・エアシャー、アロウェイの貧しい農家に生まれました。生活の資を補うため収税吏の職についた一時期を除いて、農業をしながら詩を書き続けました。作品の多くは方言(ゲール語)で書かれ、大衆に愛誦されました。

 彼の家はアフトン河畔のエアシャーにあり、その流れに感動して作ったものといわれます。詩の中のメアリーは、諸説ありますが、バーンズが27歳のとき求愛したメアリー・キャンベル(Mary Campbell 1763–1786)を指すというのがほぼ一致した見方。
 メアリーの母方の親戚で牧師のデイヴィッド・キャンベルは、メアリーは、美しく、溌剌とした青い目の少女だったと述べています。

 今日まで伝わっているところによると、バーンズは1786年の4月に教会でメアリーと知り合い、ひと目で恋に落ちたようです。2人は交流を重ねますが、メアリーは、チフスにかかった兄のロバートの看病している間に感染して、同年10月20日に亡くなってしまいました。23歳でした。

 わずか半年の付き合いであり、文献もほとんどないことから、どの程度の関係だったかはわかりませんが、サウス・エアシャーのエアー川の岸でスコットランドの伝統的な結婚の形式に従って貞節の誓いを交わした、という話が伝わっています。

 バーンズは、メアリーに『ハイランドのO嬢(The Highland Lassie O)』『ハイランドのメアリー(Highland Mary)』『天上のメアリーへ(To Mary in Heaven)』という3つの詩を捧げています。
 2つ目の詩から、メアリー・キャンベルは、「ハイランドのメアリー」とも呼ばれています。

 バーンズのいくつかの詩に曲が付けられていますが、『ハイランドのメアリー』もその1つです。Highlandmary
 ローラ・インガルス・ワイルダーが書いた「インガルス一家」シリーズの4巻目『シルバーレイクの岸辺で』に、お父さんのバイオリンに合わせて、メアリーが
『ハイランドのメアリー』を歌うという場面があります。

  メアリー・キャンベルのあまりに短い生涯と、2人のはかない恋への感動が、『アフトン川』や『ハイランドのメアリー』が永く愛唱されてきた理由でしょう。
 右の写真はメアリーが葬られたグリーンノック中央墓地に建てられた記念碑。

 スピルマンのメロディは、アメリカでは讃美歌にも使われ、またサウス・カロライナ大学の校歌にもなっています。
                **********

 白河夜舟さんからコメント(投稿欄参照)をいただいたので、原詩について調べ直してみました。
 私が原詩を採ったのは、飯塚書店刊『イギリス民謡集』
(1957年11月5日発行)の98~99ページで、訳詞者は英独仏の民謡・歌曲を数多く訳している龍田和夫(本名は作曲家の清水脩)です。

  同書では、それぞれの箇所が、resounds from the hill,  in yon thorny dell とあり、私の写しまちがいではありませんでした。
 ただ、hillとdellについては、誤記か誤植の可能性もありますので、ほかの資料にも当たってみました。

 これならたぶんだいじょうぶだろうと思われたのが、アラン・カニンガム(Allan Cunningham)編の"The Complete Works of Robert Burns: Containing his Poems, Songs, and Correspondence.With a New Life of the Poet, and Notices, Critical and Biographical"で、1855年にニューヨークのPHILLIPS, SAMPSON, AND COMPANYから出版されています。

 これで見ると、問題の箇所は確かにglen、denとなっていました。ただし、resoundsの次がfromでなく thro’になっていました。そこで、原詩を上記のように直しました。

               **********

 櫻井雅人・一橋大学名誉教授から、『アフトン川の流れ』には別ヴァージョンの曲があるというご教示をいただきました。櫻井さんは、日本のオリジナル唱歌と信じられていた『仰げば尊し』が、実はアメリカの曲だったことを発見して、多くの人に衝撃を与えた人です。

 『アフトン川』には何人もの作曲家が曲をつけていますが、おもなものは次の2つ。曲のタイトルは、両方とも"Afton Water"となっています。
 1つは、"Scots Musical Museum"の第4巻に載っている "Afton Water
(伝承版)"。作曲者は不明ですが、作曲は第4巻が発売された1792年の前ということになります。

 "Scots Musical Museum"は、彫刻師で楽譜販売業のジェームズ・ジョンソン(James Johnson 1753?-1811)が、18世紀から19世紀のスコットランド民謡を体系的に収録した6巻のシリーズで、スコットランドの民謡を研究するうえでは最重要な文献とされています。
 バーンズもこのプロジェクトに参画し、編纂に当たるとともに、自分の作品も寄稿しています。

 もう1つは、スコットランドの詩人で作曲家のアレクサンダー・ヒューム(Alexander Hume 1811–1859)が作曲した"Afton Water"
 グラスゴーのデイヴィッド・ジャック社から1859年に出版された"The Songs Of Robert Burns With Music"に載っています。

 櫻井さんによると、イギリスではスピルマンの曲を知る人は非常に少なく、『アフトン川』の曲というと、"Scots Musical Museum"版またはヒュームの作品というのが常識のようになっているそうです。

(新しい情報を加えたので、再アップロードしました。したがって、いただいたコメントとは日付が食い違っています)。

(二木紘三)

ミヨちゃん

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:平尾昌章

   セリフ
   「みなさん、まあ僕の話を聞いて下さい。
   ちょうど、僕が高校二年であの娘(こ)も
   ミヨちゃんも、高校二年の時でした。」

1 僕のかわいいミヨちゃんは
  色が白くて小ちゃくて
  前髪たらしたかわいい娘
  あの娘は高校二年生

2 ちっとも美人じゃないけれど
  なぜか僕をひきつける
  つぶらな瞳に出あう時
  何にもいえない僕なのさ

3 それでもいつかは逢える日を
  胸にえがいて歩いていたら
  どこかの誰かとよりそって
  あの娘が笑顔で話してる

       (間奏)

4 父さん母さんうらむじゃないが
  も少し勇気があったなら
  も少し器量よく生まれたら
  こんなことにはなるまいに

   セリフ
   「そんなわけで、僕の初恋は
   みごとに失敗に終わりました。
   こんな僕だから恋人なんて、いつのことやら
   でも、せめて夢だけは
   いつまでももちつづけたいんです。」

5 今にみていろ僕だって
  素敵なかわいい恋人を
  きっとみつけてみせるから
  ミヨちゃんそれまでさようなら
  さようなら

《蛇足》昭和35年(1960)にキングレコードから発売。平尾昌晃の最初の自作・自演曲で、大ヒットとなりました。
 ソロの大ヒットとしては、この前年に発売された『星は何でも知っている』がありますが、これは水島哲作詞、津々美洋作曲でした。

 昭和33年(1958)から数年間、ミッキー・カーチス、山下敬二郎とともに"ロカビリー三人男"として、「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博したことは有名。

 『ミヨちゃん』の大ヒットを機に、作曲に軸足を移すようになり、結核で療養していた数年間を除いて、次々とヒット曲を生み出しました。演歌からポップス調、フォーク調までと、そのレパートリーは広く、才能の高さを物語っています。

 高校時代には、たいていの男の子がこの歌のような思いをしたはずです。
 しかし、4番「勇気がない」のは親のせいではなく、自分に意気地がないだけ。
 器量は確かに遺伝が多少影響します
(あの両親からなんでこの美形が、という例もたまに見受けますが)。しかし、ブサメンが美人をゲットした例は多々あります。

 私が学生のころ、近くの女子大にまれに見る美人がいまして、その噂は私の大学まで聞こえていました。身長170センチ以上で、脚が長く、さっそうと歩いていました。某劇団に請われて舞台に立ったこともあったそうです。

 私も含め、何人もの"美男子(;´Д`)"が果敢にアタックしましたが、みなあえなく戦死。彼女には、前から約束していた男性がいたのです。
 彼は、彼女より背が低く、色黒で、風采が上がるとはいいがたい顔立ちでしたが、彼女はほかの誰にもない何かを彼に見出したのでしょう。

 ……というような例もありますから、見てくれで諦めることはありません。誰にも負けない何かを、1つでも身につければいいのです。高校時代からがんばれば、いつか実を結ぶとオジーサンは思いますよ。

(二木紘三)


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作詞:竹久夢二、作曲:小松耕輔

ふるさとの 山のあけくれ
みどりのかどに たちぬれて
いつまでも われ待ちたまふ
母はかなしも

幾山河 とほくさかりぬ
ふるさとの みどりのかどに
いまもなほ われ待つらむか
母はとほしも

《蛇足》竹久夢二の詩に、作曲家で評論家の小松耕輔が曲をつけたもの。作詩の時期はわかりませせんが、作曲されたのは大正8年(1919)、小松耕輔が35歳のときです。

 小松耕輔は東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身で、日本初のオペラ『羽衣』を作曲したことで有名。学習院などで永く音楽教育に携わり、合唱活動にも貢献しました。

 成長して遠くに行った息子は、なかなか帰りません。いつ帰るかわからない息子を、母は待ち続けます。
 『谷間のともしび』では、息子が絶対に帰れない状況にいるとも知らずに、毎夜ランプを点して帰りを待ちます。ロシア歌謡『マリーナの鐘』では、母は出征した息子を窓辺に座って待ち続けます。必ず生きて帰ると信じて。

 戦争のない時代でも、息子はめったに帰りません。私がそうでした。そして、母が亡くなってから、『吾亦紅』のように、「仕事に名を借りたご無沙汰/あなたにあなたに謝りたくて」墓参りに帰ってくるのです。

 女性遍歴を重ねる男には、単なる色好みと、無意識に「母」を求め続ける男の2タイプがあると思います。"恋多き男"竹久夢二は、まちがいなく後者でしょう。

 詩のなかで「さかりぬ」は、漢字では「離りぬ」と書き、遠ざかること。

(二木紘三)

夢見る乙女

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作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田 正、唄:藤本二三代

1 花の街角 有楽町で
  青い月夜の 心斎橋で
  乙女が燃えて 見るその夢は
  愛の灯影(ほかげ)の スイートホーム

2 窓のフリージャ 小雨の午後は
  何故かしみじみ 一人がさみし
  乙女がいつも 見ている夢を
  知っているのよ あの人だけは

3 夢よいつなる 抱かれて溶けて
  二人一つの すてきな夢に
  乙女がまこと 見ている夢は
  星も輝く スイートホーム

《蛇足》昭和32年(1957)11月にビクターからレコード発売。美人歌手といわれた藤本二三代の最大のヒット曲。

 藤本二三代は芸名で、本名は三谷綾子。芸者歌手の草分けの1人・藤本二三吉の娘。父親の再婚相手が二三吉だったという関係で、義理の母娘でしたが、実の母娘以上に仲がよかったといわれます。

 二三代が歌手になりたいといいだしたとき、芸能界の厳しさを知り尽くした二三吉は反対しましたが、二三代の再三の希望についに折れ、以後は吉田正に紹介するなど、熱心にサポートしたといいます。

 ただし、芸には厳しく、二三代が二三吉の持ち唄『祇園小唄』を歌いことになったとき、何度歌っても、「おまえの『祇園小唄』は京都の舞妓さんになりきっていない」と、なかなかOKを出さなかったそうです。

 写真は、昭和30年代の心斎橋筋。

(二木紘三)

悲しき雨音

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作詞・作曲:J, Gummoe、日本語詞:あらかはひろし、
唄:ザ・カスケーズ/ザ・ピーナッツ

耳をすませて聞こうよ あの雨の音
恋にやぶれたおろかな 私のため息
みんな雨に流したいの 私のこの思い
だけどあの人はいつでも 心にこの雨を
あの人に教えて 切ないこの気持
とてもこのまま まちきれないの

みんな雨に流したいの 私のこの思い
だけどあの人はいつでも 心にこの雨を
あの人に教えて 切ないこの気持
とてもこのまま 待ちきれないの
みんな雨に流したいの 私のこの思い
だけどあの人はいつでも 心にこの雨を

  Rhythm of the Rain

Listen to the rhythm of the falling rain
Telling me just what a fool I've been
I wish that it would go and let me cry in vain
And let me be alone again

The only girl I care about has gone away
Looking for a brand new start
But little does she know
That when she left that day
Along with her she took my heart  

Rain please tell me now does that seem fair
For her to steal my heart away when she don't care
I can't love another when my hearts somewhere far away

The only girl I care about has gone away
Looking for a brand new start
But little does she know that when she left that day
Along with her she took my heart

Rain won't you tell her that I love her so
Please ask the sun to set her heart aglow
Rain in her heart and let the love we knew start to grow

Listen to the rhythm of the falling rain
Telling me just what a fool I've been
I wish that it would go and let me cry in vain
And let me be alone again

Oh, listen to the falling rain
Pitter-patter, pitter-patter
Oh, oh, oh, listen to the falling rain
Pitter-patter, pitter-patter

《蛇足》アメリカのコーラス・グループ"ザ・カスケーズ(The Cascades)"が1962年11月にリリースした曲。
 翌
63年3月9日にアメリカのポップ・チャートで3位、その2週間後にイージー・リスニング・チャートで1位、さらにその年のビルボード・ランキングでは4位に輝きました。

 ザ・カスケーズは1960年、カリフォルニア州サンディエゴで5人の若者によってに結成されました。この曲はメイン・ヴォーカルのジョン・ガモーが作りました。

 日本ではザ・ピーナッツが歌って大ヒットとなりました。
 
ザ・カスケーズの演奏をまねて、冒頭に雷と雨の音を入れてみました。また、原詞の最後の聯は、私が使用した楽譜にはなかったので、8小節分のpitter-patterが雨音の中でフェードアウトするアレンジにしました。

 pitter-patter(pitter-patとも)は、英語にには珍しい擬音語で、パラパラパラとかパタパタといった音を表します。日本語には多数の擬音語・擬態語があり、それが表現の幅を広げていますが、ヨーロッパ語では、漫画以外ではあまり使われないようです。
 もっとも、日本語でも、擬音語や擬態語を多用する文章は品格が下がる、とされていますが。

 前にどこかに書きましたが、日本語詞を作った「あらかはひろし」は、「音羽たかし」と同じく、キングレコード制作部メンバーの共同ペンネーム。ディレクターの牧野剛や和田壽三を中心に、多数の外国ポップスに日本語詞をつけました。

 原詞と日本語詞とでは、男女の関係が逆になっています。『ラストダンスは私と』もそうでした。女性からのかきくどきにしたほうが、歌として据わりがいいのでしょうか。

(二木紘三)

旅の終りに

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作詞:立原 岬、作曲:菊池俊輔、唄:冠 二郎

1 流れ流れて さすらう旅は
  きょうは函館 あしたは釧路
  希望も恋も 忘れた俺の
  肩につめたい 夜の雨

2 春にそむいて 世間にすねて
  ひとり行くのも 男のこころ
  誰にわかって ほしくはないが
  なぜかさみしい 秋もある

3 旅の終りに みつけた夢は
  北の港の ちいさな酒場
  暗い灯影(ほかげ)に 肩寄せあって
  歌う故郷の 子守唄

《蛇足》昭和52年(1977)に日本コロムビアから発売。冠二郎の初の、かつ最大のヒットとなりました。

 作詞の立原岬は五木寛之の別名。昭和52年4月7日から同年9月29日まで25回にわたってテレビ放映された朝日系列のドラマ『海峡物語』の主題歌に使われました。冠二郎も出演しています。
 原作は五木寛之の同名小説で、『艶歌』の続編。両作とも、伝説の音楽プロデューサー・馬淵玄三が主人公。馬淵玄三については、『北帰行』の蛇足で少し触れています。

 『旅の終りに』の最初の2行は、戦前に東海林太郎が歌った『流浪の旅』(作詞・作曲:宮島郁芳、後藤紫雲)の歌い出し「流れ流れて落ち行く先は/北はシベリヤ南はジャワよ」に似ています。パクりだという人もいますが、この程度の類似はよくあることで、本歌取のようなものだといっていいでしょう。

 この歌は旅をテーマとしていますが、旅には陽の旅と陰(いん)の旅、もしくは正(プラス)の旅と負(マイナス)の旅があると思います。前者は目的または目的地がはっきりしていて、多くの場合事前に予定を立てて行われるもので、通常は旅行と呼ばれます。
 いっぽう、後者は、その時どきの気持ちや都合で
当ても期限もなくさまようもので、漂泊、流浪、放浪、彷徨、流れ歩き、さすらいといったことばで表現されます。

 江戸時代の旅人いえば、まず浮かぶのが松尾芭蕉。『奥の細道』の冒頭に、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ……」とあります。
 漂泊についての当時の語義や、
人びとの語感がどうだったかわからないので、断定はできませんが、私の語感では芭蕉の旅は漂泊とは違うような気がします。

 芭蕉は、ここではこれを見たいと思ったものを見ているし、経路もほぼ予定どおり。宿泊先も、宿屋、俳諧仲間や門人の家です。おまけに、身の回りの世話をする門人も同行しています。
 『奥の細道』の前に東海道を歩いた『野ざらし紀行』もそうですが、漂泊というより長期の吟行あるいは旅行といったほうが当たっていそうです。
 旅行以外の言葉を使うとしたら、回歴、回遊、遊歴、
経巡りでしょうか。

 私が青春期に心惹かれたのは、陰の旅、負の旅のほうです。大衆演劇に例をとると、赤城山に追い詰められた国定忠治が手下にいうセリフの「当ても果てしもない旅」ですね。これが本来の漂泊、流浪、放浪、彷徨、流れ歩き、さすらいだと思います。
 種田山頭火や尾崎放哉の後半生は、これに近いといっていいでしょう。

 有り余る資金があって、足の向くまま、気の向くまま各地を経巡る、という人もたまにいますが、これは形は漂泊や放浪に似ていても、予定を定めない遊歴、回遊でしょうね。

 陰の旅、負の旅には、うらぶれ感、落魄感が伴っていなくてはなりません。こうした暗鬱な情感は、旅が失望や、それより強い絶望から始まることにより生じます。

 そして、失望や絶望の原因は、多くの場合、失行や自堕落、家庭や仕事の行き詰まりなどによる居場所の喪失ですが、青春期で最も多いのは失恋でしょう。
 厭世感ないし哲学的懊悩から漂泊の旅に出るといった例もありますが、青春期におけるこうした悩みは、たいてい陰に失恋が隠されています。

 それでは、私はなぜ陰の旅、負の旅に惹かれたか。それは、たとえば肌を刺すような寒風の吹く道や、冷たい氷雨の降る道を長時間歩いているようなときに生じる「うらぶれ感、落魄感に似た感覚」が、私の中に一種の快さを呼び覚ましたからです。

 学生時代、自分の愚かさやだらしなさから世の中が嫌になったことがありましたが、実際に漂泊の旅に出ることはありませんでした。
 手持ちの金に加えてわずかばかりの持ち物を売り払ったら、仙台か盛岡あたりまでいけるが、その先はどうするか――こうした計算を始めた段階で、自分が「当ても果てしもない旅」に向いていないとわかりました。

 いろいろ嫌になっても、実家に帰って満面の笑みで迎えてくれる父母を見れば、薄っぺらな厭世感は雲散霧消しました。
 漂泊や放浪は、私の場合、ついに観念的な憧れに終わったのでした。

(二木紘三)

ブーベの恋人

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:Carlo Rustichelli、日本語詞:漣 健児、
唄:Claudia Cardinale/いしだあゆみ他

女のいのちは
野原に人知れずに咲く花よ
女の愛のいのちは
嵐さえふみ越えて咲く花よ

女の運命(さだめ)
荒野をあてどもなく飛ぶ小鳥
女の愛の運命は
苦しみをのり越えて飛ぶ小鳥

  ああ男の ああ愛だけ ああ求める
  ブーベの恋人
  ムムムム……

女のいのちは
野原に人知れずに咲く花よ
女の愛のいのちは
嵐さえふみ越えて咲く花よ

女の運命は
荒野をあてどもなく飛ぶ小鳥
女の愛の運命は
苦しみをのり越えて飛ぶ小鳥

《蛇足》 1963年に制作・公開されたイタリア・フランス合作映画"La Ragazza di Bube"(ルイジ・コメンチーニ監督)の主題歌。

 カルロ・ルスティケッリ(Carlo Rustichelli, 1916年-2004年)は、 イタリアを代表する映画音楽作曲家の1人。非常に多くの作品がありますが、そのなかでもとくにヒットしたのが、『刑事』(ピエトロ・ジェルミ監督)の主題歌『死ぬほど愛して』と『ブーベの恋人』。
 両方とも、ルスティケッリ独特の哀切なロマンティシズムに溢れ、胸に迫ってきます。

 ルスティケッリが自ら作詞した歌は、カルディナ―レと、ルスティケッリの娘のアリーダ・ケッリが歌っているはずですが、原詞が見つかりませんでした。

 映画は1944年、終戦直後のイタリアを舞台とした社会派ドラマ。
 田舎町に住むマーラ
(クラウディア・カルディナ―レ)は、戦死した兄のパルチザン仲間だったブーベ(ジョージ・チャキリス)と婚約します。しかし、彼の実家の貧しい暮らしぶりに加えて、ブーベが活動に明け暮れて愛の言葉を言わないことに幻滅して、別の青年に心を移します。
 ブーベは、仲間を殺した警察署長とその息子を殺してしまい、国外に逃亡しますが、捕まってイタリアに移送されます。「
君しか頼る人がいない」というブーベの言葉に心を動かされたマーラは、懲役14年の刑に処せられたブーベを待つ決心をしました。

 ジョージ・チャキリスの名前は、昭和36年(1961年)公開の映画『ウエスト・サイド物語』で初めて知った人が多いのではないでしょうか。
 ミュージカルなどというものは女子どもの見るものと思っていた私は
(偏見ですな、今は違います)、同時期に公開されたソ連映画『戦場』のほうが印象に残っています。あとで考えてみると、ソ連の国策映画でしたが、迫力がありました。

(二木紘三)

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