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1 橋はミラボー 川はセーヌ 2 手に手をとり 向かいあえば 3 時も恋も 滅びるもの 4 橋の柵に 寄りかかると Le Pont Mirabeau Sous le pont Mirabeau coule la Seine |
《蛇足》原詩は、フランスの詩人ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880~1918)が1913年に刊行した詩集『アルコール』のなかの1作品。これにシンガー・ソングライターのレオ・フェレ(Léo Ferré、1916~1993)が曲をつけ、1953年4月に発表しました。
『ミラボー橋』には、何人もの作曲家が曲をつけましたが、レオ・フェレのものが最も有名で、イヴェット・ジローなど多くの歌手がカヴァーしています。
フランス近代詩のなかでもとりわけ人気のあるこの詩は、アポリネールが、画家マリー・ローランサン(Marie Laurencin)との6年にわたる恋とその終焉を歌ったものといわれます。
アポリネールは19歳のとき、母親や弟たちとともにイタリアからパリに出ました。父親はシチリア王国退役将校でしたが、ポーランド貴族の娘である母親とは正式な結婚ではありませんでした。
同じ頃、パブロ・ピカソはスペインからパリに出てきて、モンマルトルの「洗濯船」(Le Bateau-Lavoir〈ル・バトーラヴォアール〉)と呼ばれる安アパートにアトリエを構え、制作活動を行っていました。
洗濯船には、ピカソのほか、詩人で画家のマックス・ジャコブや、ドンゲン、オルランなど貧乏な画家たちが住み、創作に励んでいました。
洗濯船という呼び名は、嵐になると、建物が揺れてキーキー鳴り、セーヌ川の洗濯船のようだというので、ジャコブがつけたものといわれます。
洗濯船には、ドラン、ヴラマンク、ユトリロ、コクトー、マティス、モディリアーニ、ブラックなど、モンマルトルや南のモンパルナスに住む若い芸術家たちが出入りし、新しい芸術活動を創り上げようとする熱気があふれていました。
アポリネールもその1人で、とくにほぼ同年齢のピカソと親しくしていました。
洗濯船は、日本の漫画史でいうと、トキワ荘のような存在ですね。
モンマルトルに住んでいた若手の芸術家たちは、数年後、ほとんどがモンパルナスに移動しました。
1907年5月、アポリネールは、クロヴィス・サゴ画廊で開かれたピカソの個展で、マリー・ローランサンに紹介されました。そのとき、彼女は23歳で、アカデミー・アンペールの画学生でした。
その後、芸術家たちの集まりにローランサンを伴って現れるアポリネールの姿が、しばしば見られるようになりました。
1908年には、アンリ・ルソーが、アポリネールとローランサンの肖像画をもとにした『詩人に霊感を与えるミューズ』と題する大作をアンデパンダン展に出品し、2人の恋愛は芸術関係者たちに広く知られるところとなりました。
1909年10月、アポリネールは、パリ16区オートゥイユ地区のグロ街15番地に、翌年10月に同32番地に移りました。グロ街は、ローランサンが住むフォンテーヌ街37番地のすぐ近くです。
オートゥイユ地区はセーヌ川の右岸にあり、左岸とはグルネル橋、ミラボー橋(写真)、ガリリャーノ橋でつながっています。セーヌが蛇行しているので、オートゥイユは川の西側になります。
いずれにしても、ミラボー橋は、2人が行き来したり散歩したりするときに渡った思い出の橋だったはずです。
橋の名前になったミラボーは、フランス革命の初期、貴族だったにもかかわらず、民衆の側に立って活動しましたが、革命が比較的穏やかだったうちに病死しました。病死しなかったとしても、ジャコバン政府によってギロチンにかけられたことでしょう。ジャコバン党のリーダーだったダントンでさえ、首を落とされたのですから。
2人の恋は1912年の晩夏に終わりを告げます。その前年に起こった美術史上に残る大盗難事件をきっかけとして、ローランサンが急激に冷たくなったのです。事件のいきさつを見てみましょう。
1911年8月21日、ルーブル博物館から、世界の至宝『モナ・リザ』が盗み出されました。その有力容疑者として、まず名前が挙がったのが、アポリネールとピカソでした。(ルーブルは、日本では美術館と呼び慣わされていますが、展示物の構成から、博物館と呼ぶほうが適切なようです)。
なぜ、2人の名前が浮かんだのでしょうか。話は1907年に遡ります。
ピカソは常々、イベリアの彫刻に対する傾倒を口にしていました。それを知ったアポリネールの秘書ジェリ・ピエレは、ルーブルからイベリアの彫刻をいくつも盗み出し、出所をいわずにピカソにプレゼントしました。喜んだピカソは、1体につき50フラン渡したといいます。
ピエレはその後アメリカに渡りましたが、食い詰めて1911年に戻り、アポリネールのもとに身を寄せました。
無一文のピエレは、ルーブルから美術品を盗んで売るつもりだとアポリネールにいいました。驚いたアポリネールは、そんなことをしたら、家から追い出すときつく言い渡しました。
すると、ピエレは意趣返しのように、ルーブルからフェニキアの小像を盗み出し、それをアポリネールのアパルトマンに隠しました。5月11日のことです。
やがて、モナ・リザ盗難事件が起こります。ピエレは、謝礼を得る絶好の機会と考えて、アポリネールの作品をよく掲載していたパリ・ジュルナル社に行き、「ルーブルから美術品を盗むのは簡単だ。その証拠に、盗んだフェニキアの小像をある作家の家に隠した」と告げました。それは記事になり、パリ・ジュルナル紙に掲載されました。
それを読んで仰天したのがアポリネールです。ピカソがピエレから彫像をもらったことを知っていたので、至急善後策を相談しようと、南仏に行っていたピカソを呼び戻しました。
パニックになった2人は、馬鹿げた対策をいくつも考えたあげく、彫像をスーツケースに入れてセーヌに捨てるしかないという考えで一致しました。
2人は深夜、スーツケースを持ってセーヌ河岸をさまよいましたが、刑事から尾行されているような気がして、どうしても捨てることができませんでした。
午前2時頃、くたくたになって帰宅し、眠れないまま朝を迎えたアポリネールは、パリ・ジュルナル社にアンドレ・サルモン記者を訪ねました。そして、フェニキアの小像を引き渡すが、自分の名前は絶対出さないで、ルーブルに返還してほしい、と頼みました。
翌日、「ルーブルから盗まれた彫像、本紙に引き渡される」という記事が同紙に載りました。それに飛びついたのが、モナ・リザ盗難の手がかりがまったくつかめず焦っていた警察です。警察は同社を奇襲し、サルモン記者を逮捕するゾと脅して、アポリネールの名前を聞き出しました。
9月7日、アポリネールは、盗品隠匿および窃盗共犯の容疑で逮捕されました。予審判事の尋問を受けたアポリネールは、累が母親や恋人のローランサンにまで及ぶのを避けようと、あっさり罪を認めました。そして、矛盾する供述を繰り返したのち、モナ・リザはピエレが持って逃げたといったのです。アポリネールは、ラ・サンテ刑務所に留置されました。
なお、フランスの予審判事は、日本の司法体系でいうと、検事のような役職のようです。
ピエレがピカソのもとに足繁く出入りしていたことをつかんだ警察は、ピカソもモナ・リザ窃盗に関わりがあるものとにらみ、出頭させました。
予審法廷で顔を合わせたアポリネールとピカソは、お互いに相手を知らないように振る舞いました。
ピカソは最初虚勢を張っていましたが、予審判事の厳しい尋問が続くと、持ち前の男っぽさが消え、さらに「おまえは国際的美術品窃盗団の一員だな」と決めつけられると、崩れ落ち、すすり泣きながら、イベリアの彫刻が盗品とはまったく知らなかった、信じてほしいと懇願しました。
そして、判事がアポリネールを指して「この男とは知り合いか」と尋ねると、ピカソは「知り合いどころか、一度も会ったことがない」と答えました。
予審判事は、ピカソはモナ・リザ盗難に関係ないようだと判断し、釈放しました。
アポリネールは留置し続けられましたが、9月9日、逃走中のピエレが、マルセーユから「アポリネールは無実だ」という手紙を予審判事に送ってきたこと、アポリネールの供述が二転三転して証拠もなかったことから、9月12日に釈放されました。
予審法廷における振る舞いから、アポリネールとピカソの親友関係は終わり、以後つきあいはあったものの、冷え冷えとした間柄になりました。
アポリネールにとってもっと痛手だったのは、留置中にローランサンの気持ちが冷めてしまったことです。1912年夏、アポリネールがオートゥイユを離れて、17区ベルティエ通りの友人の家に移ったことによって、ローランサンとの破局は決定的になりました。
以上の後日談ですが、犯人はヴィンチェンゾ・ペルージアというイタリア人で、モナ・リザを盗む目的で塗装工としてルーブル博物館に入り、隙を見て盗んだものです。ペルージアは、事件から2年半後に逮捕され、8か月の懲役刑に処せられました。
それから数日後に第一次大戦が勃発、アポリネールは入隊したものの負傷して除隊、1918年11月9日にスペイン風邪で病死しました。享年38歳。ペール・ラシェーズ墓地に眠っています。
アポリネールと別れてから、ローランサンは画家としての評価を次第に高め、1914年にドイツ人の男爵オットー・フォン・ベッチェンと結婚しました。しかし、1920年に離婚し、以後はバイセクシャルとして過ごしたと伝えられています。
パリに戻ったローランサンは、夢見るような少女像という独特の画風を確立し、売れっ子になりました。パリの上流婦人たちは、争うようにローランに肖像画を描いてもらったといいます。
1956年、心臓発作により死去。72歳。
《上記の記述は主として次の2つの文献を参考にしています。鈴木信太郎・渡邊一民編『アポリネール全集』(紀伊國屋書店)の年譜、John Richardson:’A Life of Picasso-Vol 2’(Random House)のうちモナ・リザ盗難事件に関する部分の抄録》
『ミラボー橋』については、窪田般弥、福永武彦、飯島耕一など多くの人が訳しており、いずれも名訳ですが、私の頭にまず浮かぶのは、堀口大学の訳詞(下記)です。とくにリフレイン部分は、最初に読んでから50数年経ても、折に触れて自然に出てきます。
いずれの訳詞でも、上のメロディでは歌えません。歌う場合は、薩摩忠の日本語詞でどうぞ。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
(二木紘三)