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1 月は高く 海に照り |
《蛇足》『オー・ソレ・ミオ』『帰れソレントへ』『フニクリ・フニクラ』などとともに、ナポリ民謡、というよりイタリア民謡を代表する曲。かつては中学や高校の音楽教科書に必ずといっていいほど載っていたものですが、今はどうなんでしょうか。
1830年代後半から、ミケーレ・ツェッツァ作詞、A.ロゴ作曲(異説あり)による『サンタ・ルチア』がナポリ界隈で歌われていましたが、今日世界中で歌われているのは、作曲家で音楽出版者のテオドーロ・コットラウ(Teodoro Cottrau 1827–1879)が1849年に舟歌(barcarolle)として作曲し、出版した曲です。
サンタ・ルチアは、AD304年に殉教した女性聖人の名で、ナポリの波止場地区の地名になっています。内容は、絵のように美しいナポリ湾で夕涼みをしようと船頭が誘う楽しい内容です。『海に来たれ』と似ていますね。
ナポリでは、毎年9月7~8日に、ピエディグロッタ・フェスタ(Piedigrotta Festa)という、ローマ時代から続く祭りが開催されます。聖母マリアに捧げる祭りで、街中が光と花で彩られ、ナポリ湾内の舟では演奏が行われ、街では歌謡コンクールが開かれます(上の写真)。
テオドーロ・コットラウの曲は、このコンクールで演奏されたことにより、広く歌われるようになりました。
コットラウの『サンタ・ルチア』は、数あるナポリ民謡のなかで、標準イタリア語に翻訳された最初の曲とされています。
よく誤記されますが、翻訳したのは、テオドーロ・コットラウではなく、その父のグリエルモ・コットラウ(Guglielmo Cottrau 1797-1847…後述)です。
この翻訳のいきさつを理解するために、イタリア史をざっと見てみましょう。
5世紀に西ローマ帝国が崩壊してから、イタリアでは小国が分立し、統一政府が作られなかったため、フランスやスペイン、オーストリアの侵略や介入を受けることが多くなりました。また、それによって多くの方言が生まれ、地域が違うと意思疎通がむずかしくなるような状況もよく見られました。
とくにナポリ語は、 ラテン語以前に使われていて死語となったオスク語の残滓が残っており、発音や文法の一部まで、後述の標準イタリア語と違うほどです。
ちなみに、サンタ・ルチアは、標準イタリア語ではサンタ・ルチーアなのに対し、ナポリ語ではサンダ・ルシーアが近い発音です。
これではイタリアは落ち目になるばかりだと、1815年ごろから、おもに青年たちによってイタリア統一運動、いわゆるリソルジメントが始まりました。
リソルジメントでは、イタリア統一のためには標準イタリア語を作ることも必要だとされました。
そして、各地の方言のなかで、フランス語やスペイン語など周辺国の言語の影響を最も受けていない中部イタリアのトスカーナ方言にナポリ方言・シチリア方言の語彙を取り入れたものを標準イタリア語とすることになりました。
リソルジメントは、1861年にイタリア王国が建国されて、いちおうの成功を見ましたが、統一完成は、ローマが王国の首都と定められた1871年です。
統一後、標準イタリア語政策が強力に推し進められましたが、なかなか地方にまで浸透せず、「テレビ放送が始まってから、初めて標準イタリア語というものが存在することを知った」と驚く農山村部の老人が多かったといわれます。
ナポリ民謡の普及については、テオドーロの父、グリエルモ・コットラウの名を落とすことはできません。グリエルモのフランス名はギョーム・ルイ・コトロー(Guillaume Louis Cottrau)で、ナポレオン帝国の傀儡国だったナポリ王国で重職に就く父に連れられて、パリからナポリにやってきました。
彼もナポリ王に仕え、ナポリ民謡の採譜・収集に努めました。それらを順次『音楽の楽しみ(Passatempi Musicali)』というシリーズにまとめて出版、その数は1824年から1845年までに数100曲に及びました。そのなかにミケーレ・ツェッツァの作品もあったわけです。
グリエルモは、採集した民謡について、歌いやすいようにアレンジしたり、また自分の作品も入れたりしたようです。
この『音楽の楽しみ』がなければ、ナポリ民謡が国境を越えて、今ほど世界に広まることはなかったといっていいでしょう。イタリアの大衆歌謡にとって、偉大な功績です。
なお、日本語詞は上記のほかに、小松清のものなどいくつかあります。
(二木紘三)