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Channel: 二木紘三のうた物語
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岩尾別旅情

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲・唄:さとう宗幸

1 北の涯(はて)知床(しれとこ)
  吹く風はつめたく
  波荒いオホーツクに
  白いカモメはあそぶ
  丘の上に咲く一輪の
  エゾニューの花によれば
  茜色(あかねいろ)の空に光る
  小さな星ひとつ

2 友と語る知床の
  岩尾別(いわおべつ)の宿よ
  静かに雨降る夜の
  思い出はもう消えぬ
  ランプを見つめ彼(か)の友と
  旅の情(なさけ)うたえば
  暗い夜の谷間へそっと
  美わしく流れゆく

3 別れてゆく知床の
  霧にけむる道で
  手を振る君の姿は
  花のかげに消えた
  いつの日かまた会えると
  笑顔で別れてきた
  君の声が今もきこえる
  その日までさようなら

  君の声が今もきこえる
  その日までさようなら

《蛇足》昭和53年(1978)5月5日に発売したデビュー曲『青葉城恋唄』がいきなり大ヒット。これに続いて、同年11月21日にリリースしたのがこの曲。
 前作で示された独特のリリシズムは、この曲でも遺憾なく発揮されています。
 

 歌の舞台となった「岩尾別の宿」は「知床岩尾別ユースホステル」(上の写真)で、北海道斜里郡斜里町岩尾別にあります。さとう宗幸が滞在したころは、まだ電気がなく、ランプだったようです。現在は自家発電を行っていますが、電線はまだ通っていません。

 知床が世界遺産に指定されて観光開発が進んだ今も、交通は不便ですが、その不便さを愛する若者の来訪があとを絶たないといいます。
 『岩尾別旅情』が発表されてから、宿泊中の若者たちがこの曲を合唱するのが習わしになっていたと聞きますが、今はどうなんでしょう。

 学生時代、私も何度かユースホステルを利用しました。人といっしょに何かをするのが苦手な私には、ペアレントと称する管理人のリードのもと、宿泊者たちがゲームをしたり、歌を歌ったりする「ミーティング」が嫌でした。
 相部屋であること、夜10時に全館消灯されてしまうこともマイナスポイントでしたが、とにかく安いので、我慢して使いました。

 こうしたシステムが不人気だったためか、現在ではミーティングをしないユースホステルが多くなったそうですし、消灯後も食堂兼用の集会室では明かりがつけられ、仲間と語り合ったりすることができるようになっているようです。

Ezonyuu 歌詞に出てくるエゾニューは、セリ科シシウド属の多年草で、夏に花を咲かせます。北海道のほか、本州中部以北の比較的標高の高い地域に分布しています(右の写真)

 私にとって忘れがたいのは、伊豆のユースホステル。ああ、長い年月が経ってしまいました。

(二木紘三)


黒い目(黒い瞳)

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作曲:ヘルマン、作詞:フレビーンカ/シャリャーピン、
日本語詞:門馬直衛/堀内敬三

(日本語詞:門馬直衛)

1 美しき 黒い目よ
  燃えたてる 君が目よ
  こがれては 忘れえぬ
  わが君の 黒い目

2 その瞳 見ざりせば
  のどかにも 暮らせしを
  なやましき 黒い目よ
  わが幸を うばいぬ

3 いつまでも 燃えさかり
  消え去りぬ 黒い目よ
  わが生命(いのち)絶ゆるごと
  くるおしき 黒い目


(日本語詞:堀内敬三)

1 黒い目 君の目よ
  狂おしく 燃える目よ
  いつまでも まぼろしに
  うかぶのは 黒い目よ

2 あの日の あの夜の
  悲しさよ くるしさよ
  呪われた 愛情は
  飢えていた 燃えていた

3 いつまでも まぼろしに
  浮かぶのは 黒い目よ
  このいのちを かけた恋
  忘れ得ぬ 黒い目よ


(原詞1 イェヴヘン・パヴローヴィチ・フレビーンカ)
1. Очи чёрные, очи страстные,
    Очи жгучие и прекрасные!
    Как люблю я вас, как боюсь я вас!
    Знать, увидел вас я в недобрый час!

2. Ох, недаром вы глубины темней!
    Вижу траур в вас по душе моей,
    Вижу пламя в вас я победное:
    Сожжено на нём сердце бедное.

3. Но не грустен я, не печален я,
    Утешительна мне судьба моя:
    Всё, что лучшего в жизни Бог дал нам,
    В жертву отдал я огневым глазам!


(原詞2 フョードル・イヴァーノヴィチ・シャリャーピン)
1. Очи чёрные, очи жгучие,
    Очи страстные и прекрасные,
    Как люблю я вас, как боюсь я вас,
    Знать увидел вас я не в добрый час.

2. Очи чёрные, очи пламенны
    И мaнят они в страны дальные,
    Где царит любовь, где царит покой,
    Где страданья нет, где вражды запрет.

3. Очи чёрные, очи жгучие,
    Очи страстные и прекрасные,
    Как люблю я вас, как боюсь я вас,
    Знать увидел вас я не в добрый час.

4. Не встречал бы вас, не страдал бы так,
    Я бы прожил жизнь улыбаючись,
    Вы сгубили меня очи чёрные
    Унесли на век моё счастье.

5. Очи чёрные, очи жгучие,
    Очи страстные и прекрасные,
    Как люблю я вас, как боюсь я вас,
    Знать увидел вас я не в добрый час.

《蛇足》 わが国では、『黒い瞳』というタイトルでも知られています。同じロシア民謡の『黒い瞳の』とよくまちがわれます。

 この曲は、ロマ音楽の影響を受けたロシア・ロマンスとして知られてきました。ロシア・ロマンスについては、『一週間』で少し触れていますが、ロシア風歌曲といったところでしょうか。

 作曲者については信憑性の高い資料が見つかりませんでしたが、ナポレオンロシア戦役の際にフランス軍楽隊の隊長だったフロリアン・ヘルマン(Florian Hermann)が作ったとする説が有力です。

 1812年、ナポレオンは70万人の大軍でロシアに侵攻したものの、ロシア軍の焦土作戦に遭って惨敗、祖国に帰還できた者は2パーセントに満たなかったといわれます。フロリアン・ヘルマンも、おそらく戦死か餓死したと思われます。

 彼が作った曲は2拍子の軍隊行進曲だったようですが、やがて3拍子のワルツで演奏されるようになり、さらにロマ音楽の影響を受けて、私たちが知る 『黒い目(瞳)となりました。
 なお、フロリアン・ヘルマンはフランス人とされていますが、ドイツ系とする説もあります。

 このほかに、ドイツ系ロシア人のフョードル・ヘルマン(Foedor Hermann)が作ったとする説もあります。しかし、彼の経歴も作曲時期も不明です。

 ところで、ヘルマンは、標準ロシア語では Германと書き、ゲルマンと発音されます。それがラテン文字表記ではHermannとなるのは、ウクライナ語やベラルーシ語では、Гは咽喉音のうちの声門音(発音記号は[ɦ])で発音されるからです。
 この音は、咳払いするときにのどの奥から出すような音、すなわち日本語の「は、へ、ほ」に似た音になるので、Hermannと表記されるようになったようです。

 作曲関係の情報がきわめて曖昧なのに対して、作詞の経緯や時期ははっきりしています。
 ウクライナの詩人で作家のイェヴヘン・パヴローヴィチ・フレビーンカ
(Yevhen Pavlovych Hrebinka 1812‐1848)――ロシア語ではエフゲーニィ・パヴローヴィチ・グリビョーンカ(Evgeny Pavlovich Grebyonka)――が書いたもの。

 フレビーンカは、退役大佐の娘、マリア・ヴァシリヴニェ・ロステンベルグに会ったとき、一目で恋に落ち、その美しさを讃える3聯の詩をウクライナ語で書きました。彼はその詩を自らロシア語に訳して、『文芸新聞(Literaturnaya Gazeta)』に投稿、1843年1月17日号に掲載されました。
 翌年2人は結婚しましたが、フレビーンカは1848年12月3日、結核のため亡くなってしまいました。わずか36年の生涯、4年弱の結婚生活でした。

 その約半世紀後、ロシアの高名なバス歌手、フョードル・イヴァーノヴィチ・シャリャーピン(Foedor or Fyodor Ivanovich Chaliapin 1873-1938)が、フレビーンカの詩を下敷きにして5聯の歌詞を作り、自分のレパートリーに加えました。
 彼はそれをイタリアのバレリーナ、イオーレ・トルナーギに捧げ、2人はのちに結婚しました。上の写真は
シャリャーピン夫妻です。

 余談ですが、シャリャーピンの名は、シャリアピン・ステーキの創始者として多くの日本人に記憶されています。
 昭和11年
(1936)に彼が来日した折、柔らかいステーキが食べたいという彼の希望に応じて帝国ホテルの料理長が考案したもので、簡単にいえば牛肉のマリネステーキです。日本以外ではほとんど知られていないので、外国のレストランで「シャリアピン・ステーキを」と注文しても通じないようです。

 2つの詩の英訳を挙げておきましょう。

(フレビーンカ版)
1. Black eyes, passionate eyes,
   Burning and beautiful eyes!
   How I love you, how I fear you,
   It seems I met you in an unlucky hour!

2. Oh, not for nothing are you darker than the deep!
   I see mourning for my soul in you,
   I see a triumphant flame in you:
   A poor heart immolated in it.

3. But I am not sad, I am not sorrowful,
   My fate is soothing to me:
   All that is best in life that God gave us,
   In sacrifice I returned to the fiery eyes!


(シャリャーピン版)
1. Dark eyes, burning eyes
   Passionate and splendid eyes
   How I love you, How I fear you
   Truly, I saw you at a sinister hour

2. Dark eyes, flaming eyes
   They implore me into faraway lands
   Where love reigns, where peace reigns
   Where there is no suffering, where war is forbidden

3. Dark eyes, burning eyes
   Passionate and splendid eyes
   I love you so, I fear you so
   Truly, I saw you at a sinister hour

4. If I hadn't met you, I wouldn't be suffering so
   I would have lived my life smiling
   You have ruined me, dark eyes
   You have taken my happiness away forever

5. Dark eyes, burning eyes
   Passionate and splendid eyes
   I love you so, I fear you so
   Truly, I saw you at a sinister hour

 

 私感ですが、これらの詩に描かれたような神秘的で情熱的な瞳に出会い、恋に落ちた場合、その人と結婚するというのはどうなんでしょう。
 憧れは実態を知らないことから生まれるといいます。結婚して生活をともにするうちに、黒い瞳の衝撃力は消えてしまうのではないでしょうか。ドストエフスキーも、「人間は何にでも慣れる動物である」といっています。
 恋に落ちてもあえて抑制し続ける、または告白して手痛い失恋を被る――これによって、神秘的で情熱的な瞳の記憶は永く、ときには一生保たれるのではないかと思います。

 このやや哀調を帯びた官能的なメロディが世界に知られるようになったのは、アルフレッド・ハウゼが自作のコンチネンタルタンゴ『黒い瞳』のなかにこのメロディを取り入れて演奏してからだと思われます。

 また、ルイ・アームストロングは、映画『グレン・ミラー物語』のなかで『オチ・チョー・ニ・ヤ(黒い瞳)』というタイトルで、トランペットを吹き、かつ歌っています。
 スペインの歌手、フリオ・イグレシアスは『黒い瞳のナタリー』というタイトルで情熱的に歌い、70年代から80年代にかけて世界的な大ヒットを飛ばしました。

(二木紘三)」

(「蛇足」を全面的に書き直したので、再アップロードしました。そのため、以前にご投稿いただいたコメントとの日付がずれています。mp3は10数年前に作ったもので、おかしなところがあるため、近々作り直す予定です)。

アキラのダンチョネ節

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西沢 爽、作編曲:遠藤 実、唄:小林 旭

1 逢いはせなんだか 小島の鴎
  可愛あの娘(こ)の 泣き顔に
  いやだ やだやだ 別れちゃやだと
  いまも聞こえるサ この胸に
  ダンチョネ

2 赤い椿が ほろりと散った
  旅のお方の 恋しさに
  沖の瀬の瀬で どんと打つ波は
  なぜに出船をサ 押し戻す
  ダンチョネ

3 別れ風だよ やませの風だ
  俺をうらむな 風うらめ
  忘れまいぞと あとふりむいて
  ダンチョうたえばサ また涙
  ダンチョネ

《蛇足》昭和35年(1960)2月28日封切の日活映画『海から来た流れ者』の主題歌。翌月1日にレコードが発売されました。

 この頃の日活の売り物だった「渡り鳥シリーズ」では、小林旭の役名は滝伸次ですが、この作品では野村浩次になっています。ほかにも、『海を渡る波止場の風』など、役名が野村浩次の作品がいくつかあります。

 私が日活の西部劇風無国籍映画に初めて触れたのは、『海から来た流れ者』でした。そのリアリティのなさにあきれる一方で、魅せられもしました(写真は舞台となった伊豆大島の波浮港)
 見たのは高校2年の3月初め。同級生たちは、みな受験準備に入っていましたが、私は授業をサボっては映画を見たり、街中や高校近くの丘をほっつき歩いたりしていました。

 放埒きわまる、しかし楽しく痛快な高校生活でした。佐藤春夫が慶応の学生時代を謳った詩のなかに、「酒、歌、煙草、また女/外(ほか)に学びしこともなし」というヴァースがありますが、「女」以外はこれに近い状態でした。
 羽目を外しすぎて、高3のとき2回無期停学を受けました。本来なら退学になるところでしたが、かばってくださる先生が何人かいて、首がつながりました。
 この頃から、安定を嫌う気持ちや孤立癖といった、生きていくうえでは損な性格が顕著になり始めたようです。

 いわゆる受験勉強を始めたのが10月頃。それでも映画を見るのをやめず、日活映画のほか、東宝の「愚連隊シリーズ」、洋画では『顔のない眼』『許されざる者』『スパルタカス』などが記憶に残っています。
 『顔のない眼』は、怪奇映画とされていますが、私は、父親の狂った親心と顔を失った娘の悲しい運命に心を揺さぶられました。
 『アラモ」は、入試を終えたあと、新宿のミラノ座で見ました。歌舞伎町には、ブラザーズ・フォーの「A time to be reaping……」が流れていました。

 話が『ダンチョネ節』からずいぶん外れてしまいましたが、このサイトは、もともと私が自分の思い出を反芻するために作ったものなので、ご容赦を。

 『ダンチョネ節』は神奈川県・三浦半島の先端にある三崎(現在は三浦市の一部)から始まった民謡で、原曲は『三崎甚句』とされています。
 三崎甚句は、ハイヤ節を流れを汲むお座敷唄で、漁師などが酒席で歌ったことから広まったようです。

 ハイヤ節は、九州の西海岸一帯で江戸時代から歌われていた民謡で、熊本県天草市の『牛深ハイヤ節』が代表的。天然の良港である牛深は、海運の中継地で、漁船も含め、諸国の帆船が出入りしていました。
 それらの船が三崎までハイヤ節を伝え、やがて三崎甚句が生まれたとされています。

 甚句は7・7・7・5で1コーラスを構成する歌謡形式で、たとえば『三崎甚句』で最も有名な歌詞は、「エー 三浦三崎に アイヨーエ どんと打つ波は 可愛いお方の 度胸さだめ エーソーダヨーエ」となっています。

 『ダンチョネ節』にも同じ歌詞がありますが、「度胸さだめ」が「度胸だめし」になっており、また、囃子詞は末尾に「ダンチョネ」をつけるだけです。
 ダンチョネの語源は、「断腸の思い」「漁師の掛け声」など諸説ありますが、確かなものはありません。

 哀調を帯びたメロディと印象的な囃子詞から、いくつもの替え歌が生まれました。それらのなかで、戦前から戦中にかけてよく歌われたのが、兵隊節としての『ダンチョネ節』です。兵隊節は軍歌とは違い、兵士たちが本音を吐いた歌です(『ズンドコ節』参照)

 以下、混乱を避けるために、民謡のダンチョネ節をMD、兵隊節のダンチョネ節をHDと表記します。
 HDは、歌い継がれるたびに歌詞が付け加えられたため、10数番までありますが、
1番は「沖の鴎と飛行機乗りは/どこで散るやらネ/果てるやら/ダンチョネ」となっています。
 『勇波節』というヴァリエーションもあります。これもMDのメロディに乗せた兵隊節ですが、ダンチョネという囃子詞はついていないようです。

 ウィキペデアその他のサイトに、HDは『特攻隊節』ともいう、といった記述がありますが、これはまちがいです。
 『特攻隊節』は、最初、朝鮮民謡の『白頭山節』
(作詞:植田国境子)のメロディで歌われていたものが次第に変化したもので、メロディはHDとは全然違います。

 西沢爽は、ダンチョネ節の元になった甚句の形式に従って、3聯とも7・7・7・5の形式で歌詞を構成しました。また、遠藤実は、後半のダンチョネ節に違和感なくつながるみごとなメロディを前半につけました。

 『海から来た流れ者』では、小林旭は元のダンチョネ節に近い静かなトーンで歌っていたと思いますが、その後の再吹き込みだか再々吹き込みでは、ハイテンポでリズミックなマンボ調で歌っています。時代に合わせたものでしょう。

 3番に出てくる「やませの風」は、おもに関東より北の地方で梅雨時から夏にかけて吹く、北東寄りの冷たい風。長期間吹くと、稲作に冷害をもたらします。

(二木紘三)

さのさ節

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


日本俗謡

1 恋しさに 雨戸引き明け眺むれば
   山端(やまは)に懸かりし 残月の
  妻を慕うてネ 追う雁(かり)
  声聞きゃ思いが いや増さる
  サノサ

2 人は武士 気概は高山彦九郎
  京の三条の 橋の上
  遙かに皇居をネ 伏し拝み
  落つる涙は 加茂の水
  サノサ

3  一年や 二年三年待ったとて
  添い遂げられりゃ なんのその
  曾我の兄弟ネ 十八年目で
  本望遂げたじゃ ないかいな
  サノサ

4 主(ぬし)さんに とても添われぬ縁ならば
  思い切りましょ 忘れましょ
  とは言うもののネ 心では
  添い遂げたいのが 身の願い
  サノサ

《蛇足》明治30年(1897)ごろから流行り始めた大衆歌謡。大正の初めまでが流行期でしたが、その後もお座敷唄として歌い継がれてきました。

 次々と歌詞が付け加えられ、また歌詞の組み合わせも変わったので、これがスタンダードという歌詞はありません。どの歌詞でも、各聯の最後に「さのさ」という囃子詞がつくことから、『さのさ節』と呼ばれるようになりました。
 上の歌詞は、高山彦九郎や曾我の兄弟が出てくることから、初期の歌詞の1つだと思われます。

 『さのさ節』は、明治初期から昭和初期まで歌われた『法界節(ほうかいぶし)』から出たものとされます。歌の中で、「ホーカイ」という言葉が繰り返されるのが曲名の由来。法界は囃子詞のようなもので、とくに意味はないようです。

  『法界節』は、門付け芸人の主要なレーパートリーの1つでしたが、ほかの歌を歌う芸人も法界屋と呼ばれました。
 法界屋は、明治から昭和初期までは、日常生活におけるありふれた存在だったようで、芥川龍之介の『本所両国』『追憶』、岡本綺堂『銀座の朝』、夢野久作『悪魔祈祷書』、志賀直哉『真鶴』には、法界屋とか法界節という言葉が出てきます。

 『法界節』の原曲は、江戸時代に清国から長崎に伝わった『九連環』という恋歌だとされます。最初は長崎の花街で歌われ、そこから全国に広まったようです。こうした経緯から、『九連環』は『唐人節』とか『長崎節』とも呼ばれました。

 『九連環』からは、江戸時代から幕末にかけて庶民に歌われた『かんかんのう』(『かんかん踊り』とも)も生まれています。歌詞は、中国語の歌詞の音訳がさらに変化したもので、意味はちんぷんかんぷんです。
 
私が『かんかんのう』という歌を知ったのは、古典落語の『らくだ』でした。気の弱いくず屋が、頓死したやくざ・らくだの兄貴分に強制されて、大家の家でらくだの死体に『かんかんのう』を踊らせるという話です。
 気弱なくず屋と強面
(こわもて)のやくざの立場が次第に逆転していく過程が愉快でした。

 上の歌詞に出てくる高山彦九郎は、江戸・寛政期の尊皇思想家。同時期にロシアに対する海防論を唱えた林子平、海防論者で尊皇思想家の蒲生君平
(がもう・くんぺい)とともに、「寛政の三奇人」と称されました。
 奇人と呼ばれたのは、その思想や業績が尊敬される一方で、奇行が多かったこ
とによります

 高山彦九郎は、上京するたびに三条大橋で皇居の方向に向かって土下座し、「草莽(そうもう)の臣、高山彦九郎でございます」と叫んだといいます。
 三条大橋の東のたもとに、「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」という銅像が建っています。その姿は、膝と手をついているものの、顔を上げているため、土下座ではないという人もいますが、
まず土下座をしてから皇居を望拝したと思われるので、土下座でもまちがいとはいえないでしょう。
 ついでながら、土下座とは地面に直に座って平伏することなので、畳や床の上で平伏するのは土下座とはいいません。

 高山彦九郎については、足利家の菩提寺・等持院にある尊氏の墓を、「この国賊め」とののしりながら、何十回も鞭で打ったという話が伝わっています。

 曾我兄弟の仇討ちは、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行った際、曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)の兄弟が、父親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った事件。
 荒木又右衛門と渡辺数馬による伊賀・鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入りとともに、「日本三大仇討ち」の1つとされています。

 私は、「日本三大仇討ち」という言葉を聞くたびに、なぜ浄瑠璃坂の仇討ちが入っていないんだろう、と疑問に思ったものです。浄瑠璃坂の仇討ちは、赤穂浪士討ち入りの30年前に起きた大事件です。
 宇都宮藩・奥平家の内紛に端を発した仇討ちで、参加人数の多さや劇的な展開は、赤穂事件に劣るものではありません。
 赤穂浪士たちは、討ち入りの方法や本懐を遂げたあとの進退などについて、浄瑠璃坂の仇討ちを参考にしたといわれます。

 三大美女、三大夜景、三奇人など、三で括る場合、どれかを落とさざるを得ず、仇討ちでは浄瑠璃坂の仇討ちが落とされたのでしょう。「江戸時代の三大仇討ち」という括りなら、当然、浄瑠璃坂の仇討ちが入るはずです。

 『さのさ節』からは編曲された歌がいくつか生まれています。私の記憶に残っているのは、江利チエミが歌った『さのさ』。三井良尚の作詞で、レコードは昭和33年(1958)11月に発売されました。かなり編曲されているので、上のメロディでは歌えないかと思いますが、歌詞を挙げておきます。


なんだ なんだ なんだ ネー
あんな男の 一人や二人
欲しくばあげましょう のしつけて
アーラ とはいうものの ネー
あの人は 初めて
あたしが ほれた人

好きなのよ 好きなのよ
とっても好きなの
死ぬほど 好きなのよ
だけれど あなたにゃ わからない
アーラ それでいいのよ ネー
あたしだけ 待ちましょう 待ちましょう
来る春を…
でも さみしいのよ

(二木紘三)

帰らざる河

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作詞:Ken Darby、作曲:Lionel Newman、
日本語詞:穂高五郎、唄:Ernie Fords/Marilyn Monroe

ああ 帰らざる河
悲しみ込めて
静かに流れゆくよ
果てなき荒野を はるばると
音もなく 流れゆく

ウェラリー もう帰らない
(ノー・リターン ノー・リターン)
遠い日の夢 ウェラリー
岸辺に ひとり立てば
(ノー・リターン ノー・リターン)
かすかに聞こえる いとしい人の声
波の間(ま)に 微笑んで消える
遠く帰らない 河の流れよ
(ノー・リターン ノー・リターン
ノー・リターン ノー・リターン)


           River of No Return

There is a river called the "River of No Return"
Sometimes it's peaceful and sometimes wild and free!
Love is a trav'ler on the "River of No Return"
Swept on forever to be lost in the stormy sea

Wail-a-ree
I can hear the river call (no return, no return)
Where the roarin' waters fall wail-a-ree
I can hear my lover call "Come to me" (no return, no return)
I lost my love on the river and forever my heart will yearn
Gone, gone forever down the "River of No Return"
Wail-a-ree wail-a-ree
She'll never return to me!
(no return, no return, no return, no return)

《蛇足》二十世紀フォックスの西部劇『帰らざる河(River of No Return)』の主題歌。主演はロバート・ミッチャムとマリリン・モンローで、日本での公開は昭和29年(1954)8月13日。

 ウェスタン歌手テネシー・アーニー・フォードの渋い歌声がタイトルバックに流れましたが、多くの人の記憶に刻まれたのは、モンローが劇中で歌ったほうでした。現在でも、『帰らざる河』はマリリン・モンローの持ち歌、ということになっています。

 モンロー版では、最初に"If you listen you can hear it call/Wail-a-ree wail-a-ree"が入り、最後のヴァースが"She'll...."ではなく、"He'll..."となっています。

 1954年1月14日、モンローはヤンキースの4番打者、ジョー・ディマジオと結婚、2月1日に新婚旅行で来日しました。
 ディマジオは、ベーブ・ルース引退後、続いてルー・ゲーリック引退後のヤンキースを支え続けた大打者で、その背番号5は永久欠番になっています。
 ところが、日本での記者会見では、質問はモンローにばかり集中し、ディマジオにはおざなりの質問が1、2度向けられただけでした。球界のスーパースターは、誇りをいたく傷つけられたようです。

 帰国後も、自由奔放で映画の仕事に忙しいモンローと、誠実で彼女を独占したいディマジオとの間に摩擦は絶えませんでした。そして、その年の10月、ついに離婚。わずか274日間の結婚生活でした。
 離婚後もディマジオは、マスコミの攻撃などで孤独感に悩まされたモンローを支え続けたといいます。

 モンローは、マフィアと関係が深かったとされるフランク・シナトラの紹介で、J. F. ケネディ大統領と知り合い、まもなく不倫関係に陥ります。また、彼の弟、ロバート・ケネディ司法長官とも肉体関係があったといわれます。

 そして、1962年8月5日の衝撃的な死。自殺ともいわれていますが、その死は謎に包まれています。
 当時、ケネディ兄弟は、
マフィア撲滅に立ち上がろうとしていました。モンローとの関係をマフィアに暴露されると、その政策が烏有(うゆう)に帰しかねません。それを恐れたケネディ兄弟の意を受けた何者かによってモンローは殺された、という噂が公然と囁かれました。
 ディマジオはこの噂を信じ、ケネディ一族を終生憎み続けたといいます。

 ディマジオが離婚後もモンローを愛し続けたのはまちがいないようです。葬儀で、彼は棺の前で涙を流しながら「愛している」と呼びかけ続け、ある女性誌から巨額の報酬を提示されても、モンローとの愛について語ることを拒否したと伝えられます。また、その後だれとも再婚せず、独身を通しました。

 ところで、美空ひばり『川の流れのように』のように、川はよく人生に喩えられます。
 山地の水源を出た頼りなげな細流は、あちこちからしみ出す水を合わせて、やがて急流、激流となり、平地に流れ出ると、いくつもの支流を合わせて力強く、堂々とした流れに変わります。そして、河口が近づくにつれて、川幅が広がり、ゆったりと流れるようになります。

 急流、激流が川の中の岩にぶつかり、両岸を削りながら流れるように、人を傷つけ、自分も傷つきながら、自己のアイデンティティを探し求めた青春の日々。河口が近づくと、そんな惑いと彷徨の時代がひたすら懐かしくなります。しかし、そこに戻るすべはなく、やがて忘却の大海へと流れ込みます。
 「帰らざる河」でなく、「帰られざる河」なのです、だれの人生も。

(二木紘三)

孝女白菊の歌

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作詞:落合直文、作曲:不詳

           その一

Kou1_3

阿蘇の山里秋ふけて 眺さびしきゆふまぐれ
いづこの寺の鐘ならむ 諸行無常と告げわたる
をりしもひとり門(かど)にいで 父を待つなる少女(をとめ)あり
年は十四の春あさく 色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわかねども 末たのもしく見えにけり
父は先つ日遊獵(かり)にいで 今なほおとづれなしとかや

軒に落ちくる木の葉にも 筧(かけひ)の水のひゞきにも
父やかへるとうたがはれ 夜な夜な眠るひまもなし
わきて雨ふるさ夜中は 庭の芭蕉のおとしげく
なくなる虫のこゑごゑに いとゞあはれをそへにけり
かゝるさびしき夜半なれば ひとりおもひにたへざらむ
菅の小笠(をがさ)に杖とりて いでゆくさまぞあはれなる

Kou2

八重の山路をわけゆけば 雨はいよいよふりしきり
さらぬもしげき袖の露 あはれいくたびしぼるらむ
にはかに空の雲はれて 月のひかりはさしそへど
父をしたひてまよひゆく こゝろの闇にはかひぞなき
遠くかなたをながむれば ともし火ひとつぞほの見ゆる
いづこの里かわかねども それをしるべにたどりゆく

松杉あまたたちならび あやしき寺のそのうちに
讀經(どきやう)のこゑのきこゆるは いかなる人のおこなひか
(まがき)もなかばやれくづれ 庭には人のあともなく
月のかげのみさえさえて 梢(こづゑ)のあたり風ぞふく
門べにたちておとなへば かすかにいらふ聲すなり
待つまほどなく年わかき 山僧ひとりいでて來ぬ

Kou3

いかにあやしと思ひけむ しばし見てありこなたをば
少女はそれと知るよりも やがてまぢかくすゝみより
(われ)はあやしきものならず 父をたづねてきつるなり
ゆくへを君のしりまさば 敎へてよかしそのゆくへ
少女の姿をよく見れば にほへる花のかほばせに
やなぎの髮のみだれたる この世のものにもあらぬなり

山僧こゝろやとけぬらむ 少女をおくにさそひゆき
ぬしはいづこの誰なるか つばらにかたれ家も名も
をりしも風のふきすさび あたりのけしきものすごく
軒の梢にむさゝびの なくなる聲さへきこゆなり
少女はいよいよたへがたく おつる涙をかきはらひ
妾はもとは熊本の ある武士(ものゝふ)のむすめなり

Kou4

はじめは家も富みさかえ こゝろゆたかにありければ
月と花とに身をよせて たのしく世をばおくりにき
一とせいくさはじまりて 靑き千草も血にまみれ
ふきくる風はなまぐさく 砲のひゞきもたえまなし
親は子をよび子は親に わかれわかれてあちこちに
にげゆくさまはあはれとも うしともいはむ悲しとも

この時母ともろともに 阿蘇のおくまでのがれしが
ながめられけり朝夕に なれし故郷(ふるさと)その空を
人のことばに父上は 賊にくみしてましますと
きくよりいとゞ胸つぶれ 袖のひるまもあらざりき
あけくれ父を待つほどに はやくも秋の風たちて
雲井(くもゐ)の雁はかへれども 音づれだにもなかりけり

母はおもひに堪へかねて やまひの床につきしより
日毎日毎におもりゆき つひにはかなく世を去りぬ
父の生死もわかぬまに 母さへかへらずなりぬれば
夢にゆめみしこゝちして おもへば今なほ身にぞしむ
いかにつれなきわが身ぞと 思ひかこちてありつるに
神のたすけか去年(こぞ)の春 父は家にぞかへり來し

Kou5

母のうせぬときゝしより たゞになげきてありけるが
うき世のならひとなぐさめて この年月はすぐしたり
先つ日遊獵(かり)にといでしより 待てどくらせどかへらねば
またも心にたのみなく かゝる山路にたづねきぬ
妾の氏は本田にて 名は白菊とよびにけり
父は昭利(あきとし)母は竹 兄は昭英(あきひで)その兄は

おこなひあしく父上の いかりにふれて家出しぬ
風のあしたも雨の夜も しのばぬ時のなきものを
いづこの空にまよふらむ 今なほゆくへのわかぬなり
これをきくより山僧は にはかに顔のけしきかへ
ものをも言はず墨染の そでをしぼりて泣き居たり
とにもかくにもこの寺に 一夜あかせとすゝめてし

Kou6

この山僧のこゝろには ふかき思ひのあるならむ
少女はそれと知りたるか はた知らざるかわかざれど
さすがに否ともいなみかね その夜はそこにかりねせり
ぬる間ほどなく戸をあけて あやしく父ぞ入りきたる
まくらべ近くさしよりて 聲もあはれに涙ぐみ
われあやまりて谷におち 今は千尋(ちひろ)のそこにあり

谷は荊棘(いばら)のおひしげり いでてきぬべき道もなし
明日だに知らぬわが命 せめてはこの世のわかれにと
子を思ふてふ夜の鶴 泣く泣くこゝにたづねきぬ
ことばをはらぬそのさきに 裾ひきとめて父上と
呼ばむとすればあともなく 窓のともしびかげくらし
夢かうつゝかあらぬかと 思ひみだれてあるほどに
あかつき近くなりぬらむ 木魚のこゑもたゆむなり

Kou7

           その二

夜もやうやうにあけはなれ 心もなにかありあけの
月のひかりの影おちて 庭のやり水おとすごし
少女は寺をたちいでて まだものぐらき杉むらを
たどりてゆけば遠(をち)かたに きつねの聲もきこゆなり
道のゆくての枯尾花 おとさやさやにうちなびき
ふきくる風の身にしみて さむさもいとゞまさりけり

巖根(いはね)こゞしき山坂を のぼりつおりつゆくほどに
みやまの奥にやなりぬらむ 人かげだにも見えぬなり
梢のあたりきこゆるは いかなる鳥のこゑならむ
木かげをはしるけだものは 熊てふものにやあるならむ
こゝは高嶺かしら雲の 袖のあたりをすぎて行く
わが身をのせてはしるかと 思へばいとゞおそろしや

Kou8

はるばる四方(よも)を見わたせば 山また山のはてもなし
父はいづこにおはすらむ かへりみすれどかひぞなき
をりしもあとより聲たてゝ 山賊(やまだち)あまたよせきたり
にぐる少女をひきとらへ かたくその手をいましめぬ
あなおそろしとさけべども 人なき山のおくなれば
山彦ならで外にまた こたへむものもなかりけり

山のがげぢををれめぐり 谷の下みちゆきかよひ
ともなはれつゝゆくほどに あやしき家にぞいたりける
やれかゝりたる竹の垣 くづれがちなる苔の壁
あたりは木々にとざされて 夕日のかげもてりやらず
内よりしれものいできたり 少女のすがた見つるより
めでたきえものと思ひけむ ほてうち笑ふさまにくし

Kou9_2

かねてまうけやしたりけむ 酒と肴を取りいでて
のみつくらひつするさまは 世にいふ鬼にことならず
(かしら)とおぼしきものひとり 少女のもとにさしよりて
汝のこゝにとらはれて きたるはふかきえにしなり
今よりわれを夫(せ)とたのみ この世のかぎり仕へてや
わが家に久しく秘めおける いとも妙なる小琴(をごと)あり

幾千代かけてちぎりせむ 今日のむしろの喜びに
かなでてわれにきかせてよ 唄ひてわれをなぐさめよ
かりにも辭(いな)まむその時は 劒の山にのぼらせて
針の林をわけさせて からきうきめを見せやらむ
少女はいなとおもへども いなみがたくや思ひけむ
なくなく小琴をひきよせて しらべいでしぞあはれなる

Kou10

風やこずゑをわたるらむ 雁やみそらをゆくならむ
軒端(のきば)を雨やすぎぬらむ 岸にや波のよせくらむ
いとも妙なるしらべには かしこき神もまひやせむ
いともめでたき手ぶりには ひそめる龍もをどるべし
嵯峨野のおくにしらべけむ 想夫戀(さうふれん)にはあらねども
父のゆくへをしのぶなる 心はなにかかはるべき

峯のあらしか松風か たづぬる人の琴の音か
ひとり木陰にたゝずみて きゝ居し人やたれならむ
たづぬる人のつま音と いよゝ心にさとりけむ
しらべの終る折しもあれ 斬りて入りしぞいさましき
刃のひかりにおそれけむ とみのことにやおぢにけむ
斬られて叫ぶものもあり 逐(お)はれてにぐるものもあり

Kou11

斬りて入りにしその人の すがたはそれとわかねども
身に纏(まと)ひしは墨染の ころもの袖と知られたり
わなゝく少女の手をばとり 月のかげさす窓にきて
なおどろきそおどろきそ われは汝の兄なるを
いざこまやかに語りなむ 心をしづめてきゝねかし
父のいかりにふれしより こゝろにおもふことありて

(あづま)の都にのぼらむと 筑紫の海をば舟出しぬ
あらき波路のかぢまくら かさねかさねて須磨明石
淡路の島をこぎめぐり 武庫(むこ)の浦にぞはてにける
こゝより陸路(くがぢ)をたどりしに ころはやよひの末なれば
並木のあたり風ふきて 衣のそでに花ぞちる
都につきしその後は たゞ文机(ふづくえ)によりゐつゝ

Kou12

朝夕ならひし千々(ちぢ)のふみ はじめて人の道知りぬ
父のめぐみを知るごとに 母のなさけを知るたびに
悔しきことのみおほかれば 泣きてその日をおくりけり
こゝろあらため仕へむと ふる里さしてかへりしに
いくさのありしあとなれば そのさびしさぞたゞならぬ
見わたすかぎりは野となりて むかしのかげもあらしふく

尾花が袖もうちやつれ つゆの玉のみちりみだる
こやわが家のあとならむ そや父母の遺骸(から)ならむ
照らす夕日のかげうすく ちまたの柳に鴉なく
たのみすくなきわが身ぞと 思ひわぶればわぶるほど
うき世のことのいとはれて かの山寺にのがれけり
朝夕讀經をするごとに はてなき事のみかこたれて

Kou13

よみゆく文字の數よりも しげきは袖のなみだなり
昨夜そなたのたづねきて かたる言葉をきゝしとき
わがうれしさはそもいかに わがかなしさはまたいかに
たゞにわが名を名のらむと おもひしかどもしかすがに
名のりかねたる身のつらさ 名のるよりなほつらかりき
あかつきふかくわかれしを 道にてこともやありなむと

汝を追ひきて今こゝに 汝をかくはたすけたり
そなたを助けし上からは 心にのこることもなし
この後なにのおもありて 父にふたゝびまみえまし
彼の世にありてまたばやと いひもはてぬに腰がたな
ぬく手も見せず一すぢに 切らむとすなりわが腹を
少女は見るより聲たてゝ かたくその手をおさへつゝ

泣きつさけびつなぐさむる こゝろの底やいかならむ
をりしも空の霜しろく 夜半のあらしの音たえて
雲間きえゆく月かげに かりがね遠くなきわたる


           その三

Kou14

四方(よも)にきこゆる虫の音も あはれよわるときく程に
ありあけ月夜かげきえて 峯のよこ雲わかれゆく
しづかにそこをたちいでて あたりのさまを眺むれば
軒の松風聲かれて あれたる庭に霜白し
手をばとられつとりつして かたみに山路をすぎゆけば
ゆふべの賊のむれならむ あとよりあまた追ひてきつ

山僧それと知りしかば はやくも少女を遁(のが)しやり
おのれはこゝにとゞまりて きりつきられつたゝかひつ
しげる林ををれめぐり 谷のかけ橋うちわたり
少女はからくにげしかど あとに心やのこるらむ
きられて痛手はおはせぬか 兄上さきくましませと
はるかに高嶺をうち眺め しのぶこゝろぞあはれなる

Kou15

道のかたへにしめゆひし 小祠(ほこら)はたれをまつるらむ
涙ながらにぬかづきて いのるもあはれその神に
そこに柴刈る翁(おきな)あり なくなる少女を見てしより
いかにあはれとおもひけむ こなたに近くよりてきぬ
事のよしをばたづねしに まことかなしきことなれば
翁は少女をなぐさめて わが家にともなひかへりけり

深くとざしゝ柴の門 なかばやれにし竹の垣
片山里のしづけさは ひるなほ夜にことならず
木々の木葉のちりみだれ まがきの菊のいろもなく
あらしは時雨をさそひきて 虫のなく音もいとさむし
父のゆくへに兄の身に 朝夕こゝろにかゝれども
ふかきなさけにほだされて しばしはそこにとゞまりぬ

Kou16

ひまゆく駒の足はやく 二とせ三とせは夢のまに
はかなく過ぎてまた更に のどけき春はめぐりきぬ
み山の里のならひにて 髮もすがたもみだせども
色香はいかでかうせやらむ あはれ名におふ菊の花
若菜つみにとうちむれて ちかき野澤にゆく道も
ならの林に一もとの 花のまじるがごとくなり

里の長なるなにがしは はやくもそれときゝつらむ
媒介(なかうど)ひとりたのみきて 長きちぎりをもとめしが
翁はいたくかしこみて こへるまにまにゆるしたり
少女はかくときゝしとき そのおどろきやいかならむ
袖もて顔はおほへども とゞめもかねつその涙
思ひまはせば母上の この世をさらむそのをりに

妾をちかくめしたまひ いひのこされしことぞある
ある年秋の末つかた 御墓(みはか)まうでのかへるさに
つゆけき野路をわけくれば 白菊あまたさきみてり
にほへる花のその中に あはれなく子の聲すなり
かゝるめでたき子だからを いかなる親かすてつらむ
悲しきことにてありけりと ひろひとりしはそなたなり

Kou17

菊さく野べにてあひたるも ふかきちぎりのあるならむ
千代に八千代に榮えよと やがてその名をおはせにき
更に告ぐべき事こそあれ 汝はたえて知らざれど
汝の兄ともたのむべく 夫(せ)といふべき人こそあれ
はやく家出をなしてより 今にゆくへはわかねども
この世にあらばかへり來む 老いたる父もましませば

かへり來らむそのをりは ゆくすゑかけて契りあひ
夫といひ妻とよばれつゝ この世たのしくおくりてよ
母のいまはの言の葉は 今なほ耳にのこりけり
いかでか敎へをそむくべき いかでか敎へにそむかれむ
さはいへこゝに來てしより 翁のめぐみはいとふかし
とやせむかくと人知れず 思ひまどふもあはれなり

かれを思ひて泣きしづみ これを思ひてうちなげき
思ふおもひはちゞなれど 死ぬるひとつにさだめてむ
をりしも媒介入り來り 少女におくりしそのものは
にしきの衣あやの袖 げにもまばゆく見えにけり
少女のこゝろのかなしさを あたりの人は知らざらむ
見つゝ翁のよろこべば 隣の嫗(おうな)も來て祝ふ

Kou18

時雨ふりきて照る月の かげもをぐらきさ夜中に
いづこをさして行くならむ 少女はしのびて家出しぬ
村里とほくはなれきて 川風さむき小笹原
死ぬるいそぎてゆきゆけば 水音すごくむせぶなり
雲井をかへるかりがねも 小笹をわたる風の音も
にぐる少女のこゝろには 追手とのみやきこゆらむ

橋のたもとに身をかくし わが來しかたを眺むれば
遠里(とほざと)小野のともし火の 影よりほかに影もなし
下に流るゝ川水の 底のこゝろは知らねども
あはれかなしきその音は 少女が死をやさそふらむ
死ぬるいのちはをしまねど かくと知らさむそのをりは
さこそなげかめ父上の いかにかこたむわが兄は

父上ゆるさせたまひてよ 兄上うらみなしたまひそ
この世をわれはさきだちて 母のみもとに待ちぬべし
南無阿彌陀佛といひすてゝ とばむとすればうしろより
まちてと呼びて引きとめし 人はいかなる人ならむ
おぼろ月夜のかげくらく さやかにそれとわかねども
春秋かけてしのびてし 兄と少女は知りてけり

Kou19

夢かうつゝかまぼろしか 思ひみだるゝさ夜中に
里のわらべのふきすさぶ 笛の音とほくきこゆなり
とひつとはれつ來しかたを きゝつきかれつゆく末を
ひと夜かたりてあかせども なほ言の葉やのこるらむ
わがふる里のこひしさに 道をいそぎて歸らむと
野こえ山こえゆきゆけば かすみたなびき花もさく

日數(ひかず)もいく日(ひ)ふる雨に ぬれてやつるゝたび衣
家にかへりしそのをりは 五月頃にやありつらむ
山ほとゝぎすなきしきり かどの立花かをるなり
しげる夏草ふみわけて 軒端をちかくたちよれば
むかししのぶの露ちりて 袖にかゝるもあはれなり
妻戸(つまど)おしあけ内みれば あやしく父はましましき

こなたのおどろきいかならむ かなたの嬉しさまたいかに
父上さきくとおとなへば 子らもさきくとこたふなり
事をこまかにきゝてより 父もあはれと思ひけむ
兄のいましめゆるしやり 妹(いも)のみさををほめにけり
親子の三人うちつどひ すぎにし事ども語りあひて
くむ盃のそのうちに うれしき影もうかぶらむ

Kou20
われあやまちて谷におち のぼらむすべもあらざれば
木の實(み)を拾ひ水のみて ながき月日をおくりにき
ある日のあしたおきいでて 峯のあたりを見あぐれば
ながくかゝれる藤かづら 上にましらの啼き叫ぶ
啼くなる聲のなにとなく こゝろありげにきこゆれば
神のたすけと攀ぢのぼり はじめて峯にのぼりえつ

うれしとあたりを見わたせば さきのましらはあともなく
木立のしげき山かげに 蝉のこゑのみきこゆなり
うき世のならひといひながら うき世の常とはいひながら
人になさけのうせはてゝ 獸にのこるぞあはれなる
父のことばをきゝ居たる 二人のこゝろやいかならむ
うれしと兄のたち舞へば たのしと妹もうたふなり

千代に八千代といひいひて ともによろこぶをりしもあれ
うしろの山の松が枝に ゆふ日かゝりて鶴ぞなく

《蛇足》西南の役(明治10年〈1877〉)直後の九州阿蘇を舞台に、ひとりの少女の数奇な運命を描いた叙事詩で、全552行(552句)から成る、わが国ではあまり例のない長詩です。
 なお、上の表示では2句をもって1行とし、読みやすくするために6行ごとに1行空けています。これは機械的な段落分けであり、意味内容によって分けたものではありません。

 明治17年(1884)1月18・19・21日の『郵便報知新聞』に掲載された井上哲次郎の長篇漢詩『孝女白菊詩』に感動した落合直文が、かなり自由に七五調の和文叙事詩に訳出したもの。
 井上哲次郎は、阿蘇あたりで語り継がれていた伝承からこの詩を発想したといわれますが、確かなことはわかりません。
 井上哲次郎
(1856-1944)は、号を巽軒(そんけん)といい、西欧哲学をわが国に紹介した哲学者であるとともに、新体詩運動の先駆者でもありました。

 落合直文の『孝女白菊の歌』は、明治21年(1888)2月から翌22年5月にかけて発行された『東洋学会雑誌』に、3回に分けて掲載されました。
 その後、これに加筆訂正したものが明治37年
(1904)刊の『萩之家遺稿』に収録されました。萩之家は落合直文の号です。
 上の詩は加筆訂正後のヴァージョンです。国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」収録の『萩之家遺稿』によりました。

 『孝女白菊の歌』は、初出以来『少年園』その他の雑誌に転載され、若い人を中心に当時の人びとを感動させました。フィクションであるにもかかわらず、いくつかの伝説や碑を生みました。
 タイトル下の石碑もその1つで、昭和33年
(1958)9月、熊本県阿蘇郡長陽村(現南阿蘇村)に、東海大学の創設者である松前重義によって建てられたもの。

Dshiragiku 『孝女白菊の歌』に感動したのは日本人だけではありません。この詩が発表 されたころ、東京帝国大学でドイツ語やドイツ文学を講義していたカール・フローレンツは、井上巽軒の原詩をドイツ語に翻訳して出版したのです。
 "Weißaster: ein romantisches Epos"というタイトルで、
巽軒の他の漢詩や上田万年の詩、都々逸なども含まれていました(右の写真)

Ekoujo さらに、同じころ慶應義塾大学や東京帝国大学で英語を教えていたイギリス人の宣教師、アーサー・ロイドは、ローレンツの訳書から英語に翻訳し、出版しました(左の写真)
 これらは、それぞれの本国でも評判になったようです。

 上の詩に入れた20枚の絵は、昭和4年(1929)3月に大日本雄辯会講談社から発行された『修養全集・第五巻』にあった岡田なみぢの挿絵をスキャンしたもの。横書き用に原画の左右を入れ替えました。90年ほど前の印刷なので、画質が粗末ですが、筋が追いやすくなるかと思って入れました。

 次のページで現代語訳を入れますが、まだ作業中なので、一部分だけです。でき次第追加します。

 曲は、落合直文の詩の「その一」が発表されるとすぐつけられたようですが、作曲者は不明です。
 楽譜は、原詞の2句分、上の表示では1行分しかありません。これをずっと繰り返して歌ったようです。あまりに単調なので、最後の2つの音符を変えて、3行分を1単位として歌うようにアレンジしました。
 曲調は、当時の書生節や、歌謡曲に進化する前の演歌に似ています。

(二木紘三)

孝女白菊の歌・現代語意訳

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(原詞はこちら)

(段落は読みやすくなるように機械的に6行ごとに分けただけで、意味内容によって分けたものではありません)。

          その一

阿蘇の山里では秋が深まり、景色も物寂しくなった夕暮れのことである。
どこの寺の鐘かわからないが、諸行無常の響きを伝えてくる。
そんな折、門を出て父を待っている少女があった。
14歳になったばかりで、きれいな顔立ちを見ると、
大きくなったら、梅か桜かと思うほど美しくなりそうだ。
父は数日前狩りに出たきりで、何の音沙汰もないらしい。

屋根に落ちる木の葉や、樋(とい)を流れる水の響きを聞くたびに、
父が帰ってきたのではないかと思って、夜もおちおち眠れない。
とりわけ、雨の降る真夜中は、庭の芭蕉がざわざわ鳴り続け、
いろいろな虫の鳴き声を聞いていると、いっそう悲しくなってくる。
そんな寂しい夜中には、とてもひとりではいられないのだろう。
菅笠をかぶり杖を手に家を出て行く様は、とてもかわいそうだ。

山また山の路を進んでいくと、雨はだんだん激しくなり、
それでなくても涙にくれていたのに、さらに何度涙を拭いたことだろう。
突然空が晴れて、月の光が射してきたが、
父を捜してさまよい歩く心の闇には、何の役にも立たない。
はるか彼方を眺めると、小さい灯火が見える。
どこの村かわからないが、それを目指して歩いて行く。

松や杉が立ち並んでいる粗末な寺から、
お経を読む声が聞こえるが、どんな人が勤行(ごんぎょう)しているのだろうか。
垣根も半ば崩れ、庭には人がいたようすもない。
月光だけがくっきりと鮮やかで、梢は風に揺れている。
門のところで声をかけると、かすかに答える声がする。
しばらくすると、若い僧が出てきた。

不審な人間だと思ったのだろう、しばらくこちらを見ている。
少女はそれを察すると、近くに寄っていき、
わたしは怪しい者ではありません。父を探しに来たのです。
もしどこにいるかご存じなら、その場所をお教えください。
少女の姿をよく見ると、つやつやと美しい顔に
しなやかな髪の毛が乱れたようすは、この世のものとは思われぬほどだ。

僧は気を許しのだろう、少女を奥に案内して尋ねた、
どこのどなたでしょうか、姓名などを詳しく教えてください。
そのとき、風が強く吹いて、あたりの景色は気味悪く、
軒先の木の梢から、むささびの鳴く声さえ聞こえてくる。
少女はますます辛くなり、流れる涙を拭きながら、
私はもとは熊本のある武士の娘です。

はじめは家も豊かで、気持ちにも余裕があったので、
風雅な物事をたしなみ、楽しく暮らしておりました。
ところが、あるときいくさが始まって、緑の草ぐさも血に染まり、
吹いてくる風は血なまぐさく、大砲の音も絶え間なく響いてきました。
親子がばらばらになってしまい、互いに呼び求めながら
逃げていくようすは、哀れで悲しく、いいようもないほどでした。

私は母とともに阿蘇の奥まで逃げましたが、
そこからは朝晩、懐かしい故郷の空が眺められました。
ある人から、父上は賊軍(注:西郷隆盛軍)に入ったと聞いて、
胸がつぶれるようで、袖が乾く間もないほど泣きました。
毎日父を待っているうちに、早くも秋になり、
雁は大空を帰ってくるけれども、父は消息すらもわかりません。

母は心配が重なって、病気になってしまいました。
日に日に病気が重くなり、とうとう亡くなってしまいました。
父の生死もわからぬうちに、母も帰らぬ人となってしまったので、
まるで夢のなかで夢を見ているようで、辛くてなりません。
なんと不運な我が身かと嘆いていたところ、
神の助けか、去年お春、父がひょっこり帰ってきたのです。

父は、母が亡くなったと聞いて、ひたすら嘆いておりましたが、
これもこの世のさだめと慰めて、何年か暮らしました。
数日前、父は狩りに出かけ、待てど暮らせど帰ってこないので、
また不安になって、このような山道を尋ね歩いてきたのでございます。
私は、姓を本田、名を白菊と申します。
父は昭利、母は竹、兄は昭英と申しますが、その兄は、

素行が悪く、父上の怒りに触れて家出してしまいました。
風の吹く朝も雨の夜も、兄のことを思わないときはないのに、
どこをさまよい歩いているのか、今も行方がわかりません。
これを聞くやいなや、僧は急に顔色を変え、
何もいわずに墨染めの衣の袖を顔に押し当て、泣きだした。
そして、とにかく一晩この寺に泊まりなさいと勧めたのである。

この僧の胸中には、なにか深い悩みがあるのだろう。
少女はそれに気づいたか、気づかなかったかわからないが、
熱心な勧めにいやともいえず、その夜はそこでうとうとと眠った。
寝て少しすると、戸を開けて、不思議なことに父が入ってきた。
枕元に寄ってきて、悲しそうな声で涙ぐんで、
私は誤って谷に落ちてしまい、今深い谷底にいる。

谷は茨が生い茂って、出て行けるような道もない。
いつ死ぬかわからないが、せめて別れを告げたいと、
子を思うという夜の鶴のように、泣き泣きここに訪ねてきたのだ。
その言葉が終わらないうちに、裾をつかんで「父上」と
呼ぼうとすると姿は消え去り、窓辺の灯火が暗く揺れているだけだった。
夢なのか現実なのか思い悩んでいるうちに、
夜明けが近づいてきたのだろうか、木魚の音も緩やかになってきた。

          その二

ようやく夜が明けたが、心は何か釈然としない。
夜明けの月光に照らされて、庭の遣り水の音が物寂しい。
少女は寺を出て、まだほの暗い杉林を
歩いて行くと、遠くのほうに狐の鳴き声も聞こえる。
道の先には、冬枯れのすすきがざわざわと音を立てて揺れ、
吹いてくる風が身を切るようで、寒さがいっそう強く感じられる。

ごつごつした木の根がむき出しになった山坂を、上り下りしているうちに、
山奥に入ってしまったのだろう、人っ子ひとり見えない。
木のてっぺんあたりから聞こえるのは、何という鳥の声なのだろうか。
木陰を走る獣は、熊とかいうものかもしれない。
ここはよほど高い峰なのだろう、白雲が袖のあたりを流れていく。
雲が私を乗せて走るかと思うと、怖くてたまらない。

はるか遠くを見渡すと、どの方向も山また山が続いているばかり。
父はどこにいらっしゃるのだろう。振り返ってみても誰もいない。
そんなとき、後ろのほうから山賊たちが大勢わめきながら押し寄せてきた。
逃げる少女を捕まえて、その手をきつく縛り上げた。
ああ怖いと叫んでも、無人の山の奥なので、
山彦のほかには、応えるものもなかったのだった。

山の崖道をぐるぐる折れ曲がりながら、谷底への道を下りて
連れて行かれると、やがて気味の悪い家に着いた。
破れかかった竹垣に、崩れかけている苔むした壁。
あたりは木々がびっしり生えていて、夕日の光も射してこない。
家の中から乱暴者が出てきて、少女の姿を見るやいなや
素晴らしい獲物と思ったのだろう、腹を打って笑うさまが見苦しい。

あらかじめ用意してあったのだろう、酒と肴を取り出して
飲み食いする様は、世にいう鬼と変わらない。
頭と思われる男がひとり、少女のところに寄ってきて、
お前がここに捕らわれてきたのは、深い縁があってのことだ。
これからはわしを夫として、生きているかぎり仕えてくれ。
我が家に永くしまっておいた、非常に素晴らしい小琴がある。

幾久しく結ばれようとする今日の宴を盛り上げるよう、
それを奏でてわしに聞かせてくれ、歌ってわしを楽しませてくれ。
もしいやだというなら、剣の山に追い上げて、
針の林に追い込んで、このうえなく苦しい思いをさせてやるぞ。
少女はいやだと思ったけれども、断れないと思ったのだろう。
泣きながら小琴を引き寄せて奏で始めたのが痛ましい。

風が梢を吹き渡るようだ。雁が空を飛んでいくようだ。
軒端を雨がしっとり濡らしていくようだ。岸に寄せ来る波のようだ。
絶妙な調べには、尊い神も踊るかもしれない。
みごとな演奏には、淵に潜む龍も出てきて踊ってしまうだろう。
嵯峨野の奥で奏でられたという想夫戀(注:雅楽の1つ)ではないけれど、
父の行方を想うその心は同じはずだ。

山頂の嵐か、松風か、それとも探している人の琴の音か。
ひとり木陰にたたずんで、聞き入っていたのは誰だろう。
探している人の演奏に、これはまちがいないとわかったのだろう、
演奏が終わらぬうちに斬り込んだのは、まことに勇ましいことであった。
刃の光を恐れたのだろうか、あるいは突然のことで怖じ気づいたのだろうか、
斬られて叫ぶ者もいれば、追われて逃げる者もいた。

斬り込んできた人は、顔はわからなかったけれど、
着ているのは墨染めの衣の袖とわかった。
震えている少女の手を取って、月光の射している窓辺まで連れてきて、
驚いてはいけない、私はお前の兄なのだよ。
これから詳しく話してやろう。心を静めて聞きなさい。
父の怒りに触れてから、私は思うところがあって、

京の都に行こうと、筑紫の港から舟に乗った。
波の荒い海を何日も航海して、須磨明石から
淡路島を回り、武庫の入り江に着いた。
そこから陸路を歩いたが、季節は弥生の末だったので、
桜並木に風が吹いて、衣の袖に花びらが舞い散った。
都に着いてからは、ひたすら机に向かって、

さまざまな本を日暮らし読んで、正しい生き方を初めて知った。
父の恩を知るたびに、母の愛を知るたびに、
後悔することばかり多くて、泣きながら毎日を過ごした。
心を入れ替えて父母に仕えようと、故郷へ帰ってきたのだが、
いくさのあとだったので、その寂しさはただ事ではなかった。
どこもかしこも荒れ野になって、昔の面影もなく、荒れ果てている。

すすきの茎さえ折れ曲がり、露の玉だけがあちこちについているばかり。
これは我が家の跡だろうか、あれは父母の亡骸だろうか。
射している夕日の光も弱く、道端の柳では鴉が啼いている。
私には頼る人もいないと、我が身を憐れんでいるうちに、
この世のことがいやになって、あの山寺に逃げ込んだのだ。
朝夕お経を読むたびに、考えてもしかたないことを嘆くばかりで、

読む文字の数よりも、流す涙のほうが多いほどであった。
昨夜お前が訪ねてきて、その話を聞いたとき、
どんなに嬉しかったことだろう、またどんなに悲しかったことだろう。
すぐに私の名前をいおうと思ったが、さすがに
名乗れない我が身の辛さ、名乗るよりいっそう辛かった。
朝早く別れたが、道中何か起こるかもしれないと、

お前を追ってきて、今ここでお前を助けたという次第だ。
お前を助けたからは、もう思い残すことはない。
このあと、どの面下げて父に会うことができよう。
あの世でお待ちしようというと、その言葉も終わらぬうちに、
腰の刀を抜いて、一気に腹を切ろうとした。
少女はそれを見るや大声を上げて、兄の手を固く押さえて、

泣き叫びながらなだめる、その心の内はどんなだっただろう。
そのときちょうど、空がほの明るくなり、夜中の嵐も静まって、
月は雲間に消えていき、遠くから雁の鳴き声が聞こえてきた。

          その三

あちこちから聞こえる虫の音も、ああ静かになってきたと思ううちに、
夜明けの月の光も消えて、横にたなびいていた雲が分かれ始めた。
静かにそこを出て、あたりのようすを眺めると、
軒先の松風も弱まって、荒れ果てた庭には白く霜が降りている。
たがいに手を取り合って、山道を歩いて行くと、
昨夜の山賊の一団であろう、後ろから大勢追ってきた。

僧はそれに気がつくと、少女を先に逃げさせ、
自分はその場にとどまって、山賊たちと激しく斬り合った。
少女は茂った林の中をあちこち辿り、谷に架かった橋を渡って、
どうにか逃げたけれども、兄のことが心配でならなかったのだろう、
斬られて傷を負ってはいないか、兄上どうぞご無事でと、
遠くの高い峰を眺め、兄を思うその心はまことに哀れだ。

道の辺のしめ縄を飾った小さな社(やしろ)は、誰を祭ったものだろう。
涙を流しながら拝礼して、神に祈るその姿は痛々しい。
そこに芝刈りの老人が通りかかって、泣いている少女を見ると、
なんともかわいそうだと思ったのだろう、近くに寄ってきて、
事情を聞いたところ、実に気の毒なことなので、
老人は少女を慰めて、自分の家に連れて帰った。

木の枝を編んだ門は固く閉ざされ、竹垣は崩れかかっている。
へんぴな村は静かで、昼間でも夜と変わらないほどだ。
木の葉が散り乱れ、垣根の菊は色褪せている。
山風は時雨を誘い、虫の音もひどく寒々しい。
父の行方に加えて、兄がどうなったかも、毎日心配でならないが、
老人の深い親切にひかされて、しばらくはそこにとどまった。

時の流れは速く、二、三年が夢のように、
あっけなく過ぎ、またまたのどかな春が巡ってきた。
山里の人たちのように、髪も見た目も粗末だったけれども、
美貌は隠せず、さすがに白菊という名を持つだけあって、
何人かと連れだって若菜を摘みに、近くの沢沿い道を行くときも、
楢の林の中に一本の花が咲いているようである。

村長(むらおさ)のなにがしが、早くもそれを聞きつけて、
仲人をひとり頼んで、結婚を求めてくると、
老人はひどく恐縮して、彼の頼みを受け入れた。
その話を聞いたとき、少女はどんなに驚いたことだろう。
袖で顔を隠したけれども、涙が流れて止まなかった。
思い起こすと、母上がこの世を去ろうとするときに、

私を近くに呼び寄せて、言い遺したことがある。
ある年の秋の末ごろ、お墓参りから帰る際に、
露にぬれた野道を歩いてくると、白菊のいっぱい咲いているところがあった。
美しく咲く白菊の中から、何ということか赤ん坊の泣き声が聞こえた。
このような喜ぶべき子宝を捨ててしまったのは、どんな親だろう。
まことに悲しいことだと、拾い上げたのがお前なのだよ。

菊の咲く野原で出会えたのも、何か深い縁があってのことだろう。
いつまでも幸せに生きていけよと、白菊と名付けたのだよ。
もう一ついっておくことがある。お前はずっと知らなかっただろうが、
お前には兄として頼るとともに、夫とすべき者がいる。
早くに家出してしまい、今もって行方はわからないが、
生きていれば帰ってくるだろう、老いた父もいらっしゃるのだから。

もし帰ってきたら、生涯の契りを結び、
夫、妻と呼びあって、楽しく暮らしてほしいのだよ。
母の言い遺した言葉は、今も耳に残っている。
どうしてその教えに背くことができようか。
そうはいっても、この家に来てから、老人には大変お世話になった。
どうしたらよいだろうと、密かに思い悩むようすは、なんともふびんだ。

ああ思っては泣き沈み、こう思っては嘆いて、
悩みに悩んでいたが、結局死ぬしかないと決心したようだ。
そんなとき、仲人が入ってきて、少女に贈ったのは、
金糸銀糸を織り込んだ絹の晴れ着で、まことにきらびやかなものだった。
少女がどんなに悲しんでいるか、周りの人たちは気づかなかったのだろう。
結納品を見て老人が喜べば、隣の老婆も来てお祝いをいった。

時雨が降って月の光も弱い、薄暗い夜中に、
どこに向かって行くのやら、少女は密かに家を出た。
村を離れて遠くまでくると、寒い川風の吹く笹原があった。
早く死のうと急いで行くと、水音がむせび泣くように物寂しく響いた。
大空を帰る雁も、笹やぶを吹き渡る風の音も、
逃げる少女の心には、追っ手としか聞こえないだろう。

橋のたもとに隠れて、自分が来たほうを眺めると、
遠くの村の小野に、かすかな灯火が見えるだけだった。
橋の下を流れる川水の、意味まではわからないが、
なんとも悲しげなその音は、少女を死へと誘っているようだ。
命は惜しくはないが、私が死んだと聞かされたそのときは、
父はどんなに嘆くだろう、兄はどんなに悲しむだろう。

父上お許しください、兄上お恨みくださいますな。
私はこの世を先だって、母の許でお待ちするつもりでございます。
南無阿弥陀仏と言い終わって、川に飛び込もうとすると、後ろから、
待てと呼んで引き留めたのは、どんな人だろうか。
おぼろ月夜で光が弱く、はっきりとはわからないが、
何年も思い慕ってきた兄だと、少女にはわかった。

夢か現実か幻か、思いが千々に乱れる夜中に、
村の子どもが慰みに吹く笛が、遠くから聞こえてくる。
これまでのことやこれからのことを、訊いたり訊かれたりしながら、
一晩語り明かしたが、それでも話は尽きなかった。
故郷恋しさに、急いで帰ろうと、
野越え山越え歩いて行くと、霞がたなびき花も咲く春になっていた。

何日も歩き、雨に濡れて、旅の着物はみすぼらしくなったが、
家に帰り着いたのは、五月ごろだったと思われる。
山ではホトトギスが盛んに鳴き、門辺では橘が香っている。
茂る夏草を踏み分けて、軒下に近づくと、
昔を偲ぶ忍ぶ草の露が散って、袖にかかるのもしみじみ心に染みる。
板戸を開けて中をのぞき込むと、不思議なことに父がいらっしゃった。

子どもたちはどんなに驚いたことだろう、父もどんなに嬉しかったことだろう。
父上様ご無事でと聞けば、お前たちも無事であったかと答えた。
詳しい事情を聞くと、父もかわいそうだと思ったのだろう、
兄の勘当を許し、妹の貞操を褒めたのだった。
親子三人が集まり、昔のことなどを語り合いながら
酌み交わす酒の杯には、喜び合う姿も映るだろう。

私は誤って谷底に落ち、登る方法もないので、
木の実を拾い、水を飲んで、何か月も過ごした。
ある朝起きて、頂上のあたりを見上げたところ、
藤かずらが上から長く垂れ下がっており、上のほうで猿が鳴き叫んでいる。
その鳴き声がなんとなく意味ありげに聞こえたので、
これは神の助けと藤かずらをよじ登り、やっと谷の上に出ることができた。

やれ嬉しとあたりを見渡すと、先ほどの猿の姿はどこにもなく、
木の生い茂った山陰から、蝉の声が聞こえるだけだった。
世間にはよくあること、ありふれたこととはいうものの、
人には情がすっかりなくなり、それが獣に残っているのは感慨深いことだ。
父の言葉を聞いている二人の気持ちはどんなだったろう。
嬉しいと兄が立って舞えば、楽しいと妹も歌うのだった。

末永く仲良く暮らそうと何度もいいながら、ともに喜んでいると、
後ろの山の松の枝に、夕日が掛かって、鶴が鳴く。
(終わり)

(二木紘三)

悲しい酒

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作詞:石本美由起、作曲:古賀政男、唄:美空ひばり

1 ひとり酒場で 飲む酒は
  別れ涙の 味がする
  飲んで棄てたい 面影が
  飲めばグラスに また浮かぶ

    (セリフ)
    「ああ 別れた あとの心残りよ
    未練なのね あの人の面影
    淋しさを忘れるために
    飲んでいるのに
    酒は今夜も私を悲しくさせる
    酒よどうして どうしてあの人を
    あきらめたらいいの
    あきらめたらいいの」

2 酒よ心が あるならば
  胸の悩みを 消してくれ
  酔えば悲しく なる酒を
  飲んで泣くのも 恋のため

3 ひとりぼっちが 好きだよと
  言った心の 裏で泣く
  好きで添えない 人の世を
  泣いて怨んで 夜が更ける

《蛇足》昭和41年(1966)6月10日に発売。

 別の歌手のために作られた曲でしたが、さっぱり売れず、その後何人かの歌手がカバーしたものの、ヒットすることなく終わりました。
 美空ひばりは、カバー曲だと知らされずに歌ったそうですが、発売後すぐ売れ出し、145万枚を売り上げる大ヒットとなりました。『柔』『川の流れのように』と並ぶ、美空ひばりの代表曲です。

 昭和41年の発売時には、セリフはありませんでしたが、昭和42年(1967)3月、コンパクト盤『美空ひばりの悲しい酒』に収録された際に、セリフが入れられました。だれのアイデアだったのでしょうか。

 古賀政男作曲の失恋歌であることから、『影を慕いて』の戦後版といわれましたが、私には、同じ古賀政男の『酒は涙か溜息か』の戦後版のように思われます。『影を慕いて』には、酒は出てきませんしね。

 近年は、若い女性が、グループではもちろん、ひとりで酒場に行くのも普通になったそうですが、昭和40年代には、ひとりで行く女性はまだ少なかったのではないでしょうか。
 このころ、私は盛んに飲んでいたので、ひとりで飲んでいる若い女性を見ると、(何かよほど辛いことがあったんだろうなあ)と想像を巡らしたものでした。

 酒と縁が切れてから、20年ほどになります。父は酒が一滴も飲めませんでした。その体質を受け継いで、私も弱いくせにやたら飲んでいたので、ほぼアル中といった状態になってしまいました。仕事にも差し障りが出るようになったので、これはヤバイと思って止めたのです。何度も元に戻ってしまい、自己嫌悪に陥りました。

 酒でさえ、止めるのにあんなに辛い思いをするのに、薬物だったら、どんなに大変だろうと思います。K君、がんばってね。

(二木紘三)


泪の乾杯

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作詞・作曲:東 辰三、唄:竹山逸郎

1 酒は飲めども なぜ酔わぬ
  満たすグラスの その底に
  描く幻 彼(か)の君の
  紅き唇 紅き唇 今いずこ

2 暗き酒場の 窓伝(つと)
  雨の滴(しずく)も 想い出の
  熱き泪(なみだ)か 別れの日
  君が瞳に 君が瞳に 溢(あふ)れたる

3 さらば酒場よ 港街
  空(むな)しき君の 影追いて
  今宵また行く 霧の中
  沖に出船の 沖に出船の 船が待つ

《蛇足》昭和22年(1947)4月、日本ビクター(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)から発売。同じ東辰三の『港が見える丘』のB面でした。
 B面ということもあって、すぐにはヒットしませんでしたが、発売後3か月ほど過ぎたころから巷に流れ始め、永く歌われる作品となりました。

 『港が見える丘』と『泪の乾杯』が世に出るについては、「敵に塩を送る」的な心温まる逸話が伝えられています。
 敗戦によって軍国主義のくびきから脱した国民は、純粋に楽しめる歌を求めていました。これに応えて日本コロムビアやテイチク、キングなどレコード各社は、次々とヒット曲を送り出していました。

 そのなかにあって、レコードを作れなかったのが日本ビクターです。戦後最初の作品として『港が見える丘』『泪の乾杯』が決まったものの、2度の空襲で築地のスタジオや横浜のプレス工場を失ったため、レコードを生産できなかったのです。

 こうした苦境を聞いた日本コロムビア社長の武藤与市は、自社のスタジオとプレス工場を日本ビクターに開放しました。これによって、日本ビクターは戦後第1回のレコードをやっと発売できたのでした。
 弱肉強食が普通のビジネスの世界では、なかなかできることではありません。音楽業界史にしっかり刻んでおきたいエピソードです。

 東辰三は、その後、『君待てども』『白い船のいる港』などのヒット曲を作りましたが、昭和25年(1950)9月27日、満50歳で亡くなってしまいました。作詞・作曲の両面における実績から考えると、さらに多くの傑作を生んだはずと思うと、まことに残念です。
 しかし、音と言葉に関わるその才能は、子息の山上路夫にしっかり受け継がれました。あの世で子息の活躍を知ることができたなら、東辰三も満足しているに違いありません。

(二木紘三)

少年の秋

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作詞・補作詞:佐藤春夫、作曲:渡久地政信、唄:三浦洸一

1 わがふるさとの南国も
  祭すぎての夕風は
  肌ここちよい秋袷(あきあわせ)
  君が窓の灯(ひ)なつかしく
  口笛吹いて行きかえり

2 眼はきよらかに色白の
  おさななじみは丈(たけ)のびて
  御船祭(みふねまつり)の行きずりに
  もの云いかけたおもかげを
  慕わしとする少年の

3 君とその兄さそい来て
  王子ガ浜に月を見る
  心たのしいひと時も
  湧くもどかしさ紛らすと
  月夜の海に石投げて

4 熊野の川に遊びては
  水掛けあいし戯(たわむ)れの
  おさなきころの無邪気な日
  みかんの花が咲いていた
  甘く酸っぱい思い出よ

5 離郷のときに別れにと
  君にもらいしお守りも
  今では悲し初恋の
  淡き思いの心かよ
  紀南の郷(さと)の秋のこと

《蛇足》 NHKラジオ歌謡の1つで、昭和34年(1959)11月9日から6日間放送されました。
 作詞は詩人の佐藤春夫。佐藤春夫の詩に曲をつけた歌曲はいくつかありますが、注文を受けて大衆歌謡の歌詞を書いたのは、この曲が最初で最後ではないかと思います。未確認ですが。

 この作詞をしたいきさつについて、佐藤春夫は、『詩の本』(昭和35年〈1960〉、有信堂発行)収録の『少年と秋―歌謡と唱歌』と題する短文で、次のように語っています。以下、原文を現代仮名遣いに直して記載します。
 なお、
『定本 佐藤春夫全集第2巻』(臨川書店)巻末の解題によると、この文章は『詩の本』のために新たに書き下ろしたもののようです。

 NHKの人が来て相なるべくは口語で歌謡を一つ書け、歌う時間の関係で、五行二聯の長さが適当だという。
 十月中ごろに歌う予定で、テーマはわが旧作「少年の日」のようなものが好もしいと聞いたので、それではと「少年の日」のなかの秋の一聯

    君が瞳はつぶらにて
    君が心は知りがたし
    君をはなれてただひとり
    月夜の海に石を投ぐ

 というものを歌謡体に歌い直してみることにして「少年の秋」という題を設けた。「少年の日」のなかの四行に歌謡らしい水を増してみるのである。詩情はおのずと淡くなろうが、わかりよく一般に親しまれる趣をと心がけて初恋の歌というようなものを試みたものである。
 歌謡には何よりも歌い出しの一句が大切と聞き及んでいるが、こんなことではどうであろうか。

(ここに作った歌詞、すなわち上の1~3番が入る。1番3行目の秋袷が初袷になっていますが、これは著者の勘違いだろうと思われます)

 これで詩と歌謡との説明しがたい微妙な区別がわかってもらえたらうれしい。

 (以下省略)。

 歌詞は当初3聯でしたが、詩人自身により2聯つけ加えられました。この補作詞がNHKの依頼によるものか、詩人の意思によるものかは不明です。
 しかし、2聯、とくに第5聯の追加によって、魂のふるさとともいうべき少年時代への懐旧の思いが一段と強まっています。
 大衆向け歌謡ということで、高踏派的性格は抑えられていますが、それでも何か所かそうした傾向を感じさせる表現があり、それがこの歌の格調を高めています。

 この歌は佐藤春夫が生まれ育った紀州・新宮を舞台としていますが、少年時代をどこで過ごしたかに関わりなく、「昔少年」の胸を熱く揺さぶるのではないでしょうか。
 佐藤春夫が少年期を送った明治30~40年代と、私の少年期の昭和20年代とは、時代が大幅に違いますし、
生まれ育った場所の地形や環境もずいぶん異なっています。
 にもかかわらず、幼友達と野山をのたくり遊んだ日々や同級の美少女に心を躍らせたことなどは同じです。

 TBSラジオの長寿番組だった『小沢昭一の小沢昭一的こころ』で、小沢昭一が「夕方、好きな女の子の家の窓明かりを見るだけで胸がどきどきした」と語っていたことを思い出します。小沢昭一は、生まれも育ちも東京です。

 渡久地政信の曲がまたすばらしい。洗練された短調のメロディーは、少年時代への追憶の思いを倍加させ、初恋とはいえないほどの少女へのほのかな憧憬を思い起こさせます。

 不思議なのは、歌詞・曲ともすばらしいこの歌が人びとの記憶の網からすっぽり抜け落ちていることです。昭和2,30年代にヒットしたラジオ歌謡やラジオ歌謡ではない抒情歌は、何人かの歌手によってカバーされています。
 それらに勝るとも劣らないこの曲は、ざっと検索してみたところでは、だれもカバーしていません
(平成28年7月18日現在)。この名曲に光を当ててくれる歌手はいないのでしょうか。

 ところで、佐藤春夫の少年時代は、自伝的小説『わんぱく時代』に生き生きと描かれています。自伝ではなく、自伝的小説なので、かなりの虚構が入っているようですが、新宮時代の佐藤春夫の生活をうかがい知ることできます。
 児童向け文芸全集の偕成社文庫に入っていますが、児童向けに書かれた小説ではありません。
 昭和32年
(1957)10月20日から朝日新聞の夕刊に144回にわたって連載された新聞小説です。文芸評論家の吉田精一は、「新聞小説としては、風変わりといってよいほど読者におあいそのないもので、それだけに気品のあるもの……」と評しています。

 この小説は、昭和61年(1986)に大林宣彦によって映画化されました。舞台を監督の故郷・尾道に移し、タイトルは『野ゆき山ゆき海べゆき』となっていました。このタイトルは、『少年の秋』の発想源となった詩『少年の日』の冒頭の1句から取ったものです。そこで、最後にこの名詩を挙げておきましょう。

    少年の日

     1

野ゆき山ゆき海邊ゆき
眞ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは靑し空よりも。

     2

影おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を戀ひ
あたたかき眞晝(まひる)の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。

     3

君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。

     4

君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰(た)がものぞ。

(二木紘三)

玄海ブルース

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作詞:大高ひさを、作曲:長津義司、唄:田端義夫

1 情け知らずと 嘲笑(わら)わばわらえ
  ひとにゃ見せない 男の涙
  どうせ俺らは 玄海灘の
  波に浮き寝の かもめ鳥

2 紅い灯(ほ)かげの グラスに浮ぶ
  影が切ない 夜更けのキャバレー
  酔うて唄えど 晴れない胸は
  銅鑼(ドラ)よお前が 知るばかり

3 嵐吹きまく 玄海越えて
  男船乗り 往く道ゃひとつ
  雲の切れ間に キラリと光る
  星がたよりの 人生さ

《蛇足》昭和24年(1949)11月にテイチクより発売。
 昭和14年
(1939)の『大利根月夜』、同15年(1940)の『別れ船』、同28年(1953)の『ふるさとの燈台』と同じく、長津義司の作曲。

 バタヤンの愛称で多くの人びとに親しまれた田端義夫は、その長い歌手人生のなかで、古びたギターを晩年まで大事に使い続けました。

 『玄海ブルース』の玄海は、玄界灘の別称。すなわち、玄界灘=玄海ですから、1番にあるように玄海灘とするのはまちがいなのですが、実際には玄界灘と玄海灘が混用されています。
 灘は、沖合の波が荒く、流れが速い場所。

 玄界灘は、九州北西部、対馬海峡から響灘に至る海域で、有数の漁場。玄界灘に面したところに玄海町(げんかいまち)があり、全国にある宗像(むなかた)神社の本宮である宗像大社があります。
 玄海町は、平成の大合併により宗像市の一部となりました。

(二木紘三)

おもいで

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作詞:中原淳一、作曲:石川皓也、唄:高 英男

1 ふたりはうれしくて 笑っていたのに
  なぜだか涙が ほほを流れた
  そよ風がふいていたよ
  雲も流れていたよ
  遠い山なみも見えたよ
  ふたりは楽しくて 夢のようだった
  黙っていても切ないまでの
  しあわせ……

2 ふたりは幸せで 言葉もなかった
  あなたの瞳は かがやいていた
  あかるい空だったよ
  雲が散って飛んだよ
  あなたは花を摘んでいた
  ふたりは幸せで 夢のようだった
  やがて別れの時が来るのも
  知らずに……

3 幸せはみじかく 夢のようだった
  つめたい涙が ほほを流れた
  そよ風がふいていたよ
  花が散っていたよ
  別れの手紙の白さよ
  ふたりの幸せは 虹のように消えた
  別れは人の世のかなしい
  さだめか……

《蛇足》昭和28年(1953)に発表されたNHKラジオ歌謡の1つ。放送後は、ほかの何十というラジオ歌謡と同じく忘れ去られていました。私も、一度も聞いたことがありませんでした。

 自然の中で生い育つ少年を歌った『少年時代』、幼なじみに心を寄せる思春期の少年を描いた『少年の秋』。その延長線上に、青春期の短い恋と別れをテーマとしたこの『おもいで』があります。

 『少年の秋』と『おもいで』は、私が70代半ばになって初めて出会った歌で、その出会いをうれしく思います。青春期の恋と別れを歌った作品はほかにもありますが、というより歌謡曲やフォークのほとんどがそれをテーマとしています。
 
それらのなかでも、この静かな歌は、とりわけ自分の青春期を思い起こさせ、枯れかけた心に一掬の水を注いでくれる歌になりそうです。

 作詞者の中原淳一は、昭和2、30年代に思春期・青春期を送った人、とくに女性ならだれでも知っている名前で、今さら紹介するまでもありませんが、ほんの少し述べてみましょう。

 終戦後、若い女性向けの『それいゆ』『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』『女の部屋』を創刊、編集長として女性誌の基礎を作りました。画家として、それらの雑誌に独特の少女像を描くとともに、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー、人形作家、詩人などとして多彩な才能を発揮しました。

 当時の少女雑誌や女性誌では、日本画の伝統を引いた挿画が主流でしたが、彼の描く少女像は、長いまつげに大きな瞳の西洋人形のような顔立ちでした。黒目の中に白い点を入れる手法は、その後の女性漫画家たちに大きな影響を与え、「大きな黒目の中のキラキラ星」という女性漫画特有の描画法が編み出されました。
 多くの詩や訳詞も書いています。シャンソンのなかで私が最も好きな『ロマンス』の日本語詞は、中原淳一によるものです。

 石川皓也(いしかわ・あきら)は、作曲家・編曲家として多くの作品を作っていますが、とりわけビゼーの曲をベースに編作曲した『小さな木の実』は、彼の創造力が遺憾なく発揮された傑作で、多くの人に感動を与えました。

(二木紘三)

修学旅行

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作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤 実、唄:舟木一夫

1 二度とかえらぬ 思い出のせて
  クラス友達 肩よせあえば
  ベルが鳴る鳴る プラットホーム
  ラララ
  汽車はゆく 汽車はゆく
  はるばると はるばると
  若いぼくらの 修学旅行

2 地図をひろげて 夢見た町を
  僕のカメラで 撮した君を
  思い出すだろ いついつまでも
  ラララ
  汽車はゆく 汽車はゆく
  ひとすじに ひとすじに
  若いぼくらの 修学旅行

3 霧の港に 湖畔の宿に
  名残りつきない 手と手を振れば
  あとを追うよな 小鳥の群れよ
  ラララ
  汽車はゆく 汽車はゆく
  さようなら さようなら
  若いぼくらの 修学旅行

《蛇足》昭和38年(1963)年8月発売。

 この2か月前の6月に発売された『高校三年生』と、2か月後の10月に発売された『学園広場』を合わせて"学園三部作"と呼ばれました。『学園広場』は関沢新一作詞ですが、他の2作は丘灯至夫作詞。作曲は3作とも遠藤実。
 デビュー作の『高校三年生』ほどではありませんが、この歌もかなりヒットしました。

 歌詞に『汽車は行く……』とあるところを見ると、このころはまだ蒸気機関車だったようですね。まあ、路線によって違うでしょうが。
 昭和38年に
は、私は大学3年でしたが、中央西線はすでにディーゼル化されていたと思います。その3年前に受験に来たときには、まだ蒸気機関車だったはずです。長野県側から甲府盆地に下りるあたり(東京側からは登るあたり)に、非力な蒸気機関車用にスイッチバックがあったと記憶していますから。

 私の学んだ高校には、修学旅行はありませんでした。入学のとき、旅行は各自好きなところに行くようにといわれました。旧制中学の気風がまだ色濃く残っている高校だったので、ドイツのギムナジウムのようなwandern(徒歩旅行・遍歴する)を推奨する意図があったのかもしれません。

 しかし、実際には、wandernした同期生がいたという噂は、私の耳には届きませんでした。2級上のTさんが自転車で東京に行き、野宿しながら東京見物をして帰ったという話が伝説のように語られていた程度です。
 Tさんは東京芸大を出て彫刻家になりましたが、残念なことに60代で亡くなってしまいました。

 徒歩旅行ではありませんが、私は高2の夏、友人と2人で中学時代の恩師を訪ねて上田市まで自転車で行きました。松本から北東に向かい、最後の人家を過ぎると、人も車も通らず、杣道より多少ましという程度の蛇行道を5,6時間かけて走りました。
 先生は酒を用意して待っており、2階の先生の書斎で痛飲しました。私がトイレに行きたいというと、先生は「下まで行く必要はない」といって窓を開け、車がビュンビュン通る街道に向かって、3人並んで用を足しました。

 旧制高校の寮では、こういうのを寮雨といったそうです。以前読んだ早坂暁の『ダウンタウンヒーローズ』にも、寮雨の話があったと記憶しています。
 未成年に酒を飲ませたということで、先生の責任が問われるところですが、私の年齢から推測しても、とうの昔に時効でしょう。
 現役の先生は、このようなまねはけっしてなさらないようにお願いします(-_-;)。
 若者の野放図さを愛し、よしとする先生がいた時代の昔話だと思ってください。

 高3の7月には、別の友人と、自転車で夜間塩尻峠を越えて、諏訪清陵高校の学園祭に行ってきました。整備される前の、旧道の痕跡が残っている急峻な道で、何度も自転車を押して登らなければなりませんでした。そのうえ、雨が降ってきて濡れて寒いし、さんざんでした。

 9時ごろ諏訪に着き、入ったラーメン屋で古新聞をもらって、上着の下に入れて、駅で寝ていたら、おまわりさんに不審尋問をされました。身元をいうと、「諏訪の不良はおっかねえぞ。こんなところで寝ていちゃだめだ」といわれ、交番にとめてもらいました。

 5年後に松本から諏訪まで婚約者とバスに乗ったら、完全舗装されていたうえ、坂道程度の緩やかな街道になっていたのには驚きました。彼女に高3の時の冒険譚を語るつもりでいたのですが、まるっきりインパクトがなくなってしまいました。

 この歌の修学旅行のイメージからほど遠い思い出になってしまいました。男女が班に分かれて、それぞれの計画に従って名所旧跡を巡るという爽やかな修学旅行のかたちは、その経験がない私にはピンときません。うちの娘たちは、修学旅行から帰ったあと、とても楽しそうに話してくれましたが。

(二木紘三)

消え去りし友

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Anne Huruguen、作曲・唄:Enrico Macias、日本語詞:岩谷時子

消えていった あたしの友よ
いつもふたりは 顔にある2つの眼のように
暮らしていたのに
ただひとり 消えていった
なにひとつ あなたはいわないで
信じてた あたしなの
あなただけが 心の支えなのに
愛よりも もっと強い
憎しみより もっと強い
ふたりの このきずな
いつまでも 切らずにおきたい

消えていった あたしの友よ
あたしとともに 生きているあなたは
もうひとりの あたしなのに
ただひとり 消えていった
なにひとつ あなたは遺さないで
あたしだけの ああ友よ
消え去りし ああ友よ

  Compagnon Disparu

Compagnon disparu,
Compagnon de mon âge,
On était tous les deux
Les deux yeux d'un visage
Pourtant tu pars seul les nuits
Au pays des yeux perdus.

Comme vient la vie,
Comme vient la mort,
Tu étais venu simplement
Comme on vient au port
Plus fort que l'amour
Plus fort que la haine
Tu étais en moi, compagnon,
Comme un autre moi-même.

Mais on t'a trouvé
Mort au coin d'une rue
Une nuit d'été
Qui criait jusqu'aux nues
Par ton corps troué
Ma peine vivante
A l'éternité
Qui reste indifférente.

Compagnon de ma foi
Compagnon d'espérances
Rien ne tuera en moi
Ta secrète présence
Elle est là comme un démenti
A l'ouvrage des fusils.

Une part de moi
Est sur l'autre rive
Et passe avec toi,
Compagnon, l'heure décisive.
Quand je pense à toi
Ma douleur a tort
Car tu vis en moi
Par delà la mort

《蛇足》この歌は、フランス植民地主義の暗黒面から生まれた名作です。

 1954年5月7日、ディエンビエンフーの敗北で、フランスがインドシナの植民地を失うと、それに刺激されて北アフリカのフランス植民地では一挙に独立闘争が燃え上がりました。
 フランスの保護領だったチュニジアとモロッコは、1956年3月に独立を勝ち取りましたが、その間に位置するアルジェリアでは泥沼の戦いとなりました。その原因は、フランス本国とアルジェリアとの特殊な関係にありました。

 アルジェリアには3つの海外県が置かれ、そこに住むコロンと呼ばれるヨーロッパ系住民(植民者)には、フランス本国の国民と同等の権利が与えられていました。
 いっぽう、住民の大多数を占めるベルベル人やアラブ人などの先住民は、差別と抑圧を被っていたのです。

 1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、同年11月1日に各地で蜂起し、武装闘争を本格化させていきました。
 これに対して、フランス政府は本国から兵力を送り、
独立派やその支持者と見なした人物を激しく弾圧、民族解放戦線側も農場や学校への襲撃、インフラ破壊、軍人や警察官の殺害などを行い、その戦いは凄惨を極めました。

 フランス政府は次々と兵力を増派し、その数は1958年6月には陸海空軍約51万人と補助兵力13万人に達しました。
 これほどの大軍を投入しても解放戦線を屈服させられなかったのは、この戦いが宗主国フランス対アルジェリア解放戦線という単純な図式ではなかったからです。親仏派の先住民対独立派の先住民という民族紛争でもあり、これに先住民に融和的なコロン対強硬派のコロンとの争いも加わりました。

 戦争はいっこうに収束の気配が見えず、フランスの国論も、独立を容認するグループと、アルジェリアはフランスと一体で絶対に失えないとするグループに二分されました。
 フランス政府は独立容認の方針を打ち出しますが、軍部とコロンの激しい反発を受けて、当事者能力を喪失しました。

 この危機を乗り切る切り札として担ぎ出されたのが、対独戦の英雄ド・ゴール将軍。彼は大統領に就任すると、アルジェリアの民族自決を認める政策を発表、国民投票では75パーセントがこれを支持し、流れはほぼ決まりました。

 しかし、極右過激派のコロンや軍人はこれに従わず、OASという秘密軍事組織を作り、アルジェリアやフランス本国でテロ活動を活発化、何度かド・ゴール暗殺を企てましたが、失敗しました。
 ド・ゴール暗殺計画については、フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』や、それを映画化した同名のユニヴァーサル作品
(フレッド・ジンネマン監督)で世界的な話題になりました。

 アルジェリア駐留軍は、ド・ゴールの政策を受け入れず、本土侵攻を企て、あわや内戦という状態になりましたが、ド・ゴールは強硬な態度を貫き、また駐留海空軍の離反などもあって、事態はどうにか収まりました。

 1962年3月に和平交渉締結、その後フランス本国での国民投票、アルジェリアでの住民投票において、圧倒的多数で独立が採択され、独立が最終的に決まりました。
 和平交渉締結後も、OASはアルジェリアにおいてテロを激化させ、解放戦線も報復テロを行ったため、ほとんどのコロンがフランス本国に脱出しました。支持基盤を失ったOASは、敗北を認めざるを得なくなり、やがて停戦に至りました。

 この戦争は何度か映画化されましたが、1966年9月公開のイタリア映画『アルジェの戦い』がとくに有名です。
 ジッロ・ポンテコルボ監督は、当事者や目撃者、残された記録文書に基づき、アルジェリア市民8万人と軍の協力を得て、この戦争をドキュメンタリータッチでリアルに描き、世界に衝撃を与えました。
 同年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。授賞式のとき、フランス代表団は"反仏映画"だとして反発、フランソワ・トリュフォー監督を除く全員が退席したという逸話が残っています。

 戦争の記述が長くなりましたが、これによってこの歌が生まれた背景がわかりやすくなるかと思います。

 エンリコ・マシアス(Enrico Macias)は、本名ガストン・グレナシア(Gaston Ghrenassia)。エンリコ・マシアスという芸名を使うようになったのは、フランス本国に移住してからです。
 1938年12月11日、アルジェリアのコンスタンティーヌで生まれました。父はヴァイオリニストで、ガストンも15歳のときから父と同じオーケストラでギタリストして舞台に立つようになりました。
 ガストンは、オーケストラの指揮者で
音楽上の師でもあったシェイキ・レイモンの一人娘スージーとのちに結婚しました。

 1961年、ガストンが22歳のときから戦争が狂乱の度を深め、アルジェリア独立に反対していた義父シェイキ・レイモンが解放軍によって暗殺されます。それと前後して、同年の親友や親類の何人かも次々と殺されました。
 ガストンはアルジェリア脱出を決意、1961年7月29日、妻スージーとともに難民船でフランスに渡りました。
 その船中で、郷里や亡くなった友への思いをテーマとした曲を作ります。

 フランスでは、一時パリ郊外のアルジャントゥイユに住み、次いでパリ市内に移転し、生活の資を得るためにカフェやキャバレーを回って演奏しました。要するに流しをしていたわけです。
 そんな生活のなかで、運良くレコード・映画会社パテの音楽プロデューサー、レイモン・ベルナールの知己を得ることができました。

 1962年、初吹き込み。そのときの作品は『さらばわが故郷よ(Adieu mon pays)』で、これは難民船で作った曲の1つでした。テレビでこの歌を披露すると、大評判になり、この歌はアルジェリアから移住したコロンたちのシンボルソングのようになりました。
 『消え去りし友
(Compagnon Disparu)』をリリースしたのは翌年で、これも難民船で作った曲の1つでした。

 その後、『恋ごころ』『思い出のソレンツァラ』など、世界的ヒット曲を連発して歌手としての地位を確立したマシアスは、50年間にわたって世界中を演奏旅行して回りました。しかし、アルジェリアへの入国は、ついに認められませんでした。

 岩谷時子の日本語詞は、友という言葉は使われているものの、女性の失恋歌のような印象を受けます。
 しかし、原詞では「同い年の友」「街角の死」という言葉が使われています。また、末尾は「君のことを考えるとき、私が苦しむのはまちがっている。なぜなら、君は死を超えて私のなかに生きているからだ」となっており、同年の友の死を悼む歌だとわかります。

 作詞のアンヌ・ユルグェンについては、調べましたが何者かわかりませんでした。マシアス自身か妻スージーの筆名、もしくはふたりの共同筆名かと思いますが、正確なところは不明です。

(二木紘三)

港町ブルース

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:深津武志、補作詞:なかにし礼、作曲:猪俣公章、唄:森 進一

1 背のびして見る 海峡を
  今日も汽笛が 遠ざかる
  あなたにあげた 夜をかえして
  港、港 函館 通り雨

2 流す涙で 割る酒は
  だました男の 味がする
  あなたの影を ひきずりながら
  港、宮古 釜石 気仙沼(けせんぬま)

3 出船 入船 別れ船
  あなた乗せない 帰り船
  うしろ姿も 他人のそら似
  港、三崎 焼津(やいづ)に 御前崎

4 別れりゃ三月 待ちわびる
  女心の やるせなさ
  明日(あす)はいらない 今夜が欲しい
  港、高知 高松 八幡浜(やわたはま)

5 呼んでとどかぬ 人の名を
  こぼれた酒と 指で書く
  海に涙の ああ愚痴(ぐち)ばかり
  港、別府 長崎 枕崎(まくらざき)

6 女心の 残り火は
  燃えて身をやく 桜島
  ここは鹿児島 旅路の果てか
  港、港町ブルースよ

《蛇足》昭和44年(1969)4月にビクターから発売。森進一の最大のヒットで、シングル盤を250万枚以上売ったといわれます。同年の日本レコード大賞の最優秀歌唱賞と日本有線大賞を受賞しました。

 雑誌『平凡』が公募して最優秀賞を受けた歌詞に、なかにし礼が補作したもの。各聯の末尾に港町名を並べる構成が印象的。地理の勉強になります。
 港町とはいうものの、横浜や神戸のような多機能な大海港ではなく、漁港がほとんど。輸送や観光などにも使われていますが、漁業の町という印象が先立ちます。

 いずれも太平洋側の港町で、日本海側の港町は入っていません。日本海側にも、境港のような大漁港があるのですが。
 船乗りの男を追いかけて、北から南まで港町を渡り歩くという筋立て。旅費や生活費が大変でしょうな。酒場などで稼いでは、次の港町に向かうのでしょうか。
 これはストーカー的執念なのか、深い恋心なのかわかりませんが、男が女の気持ちを十分知っていながら、何らかの事情でそれに応えられず、避けているのだ、と思いたい。

 メロディは、いわゆる"ピョンコ節"で、調子がよく、歌いやすい。森進一の持ち歌のなかでは、カラオケのリクエスト回数1位というのもよくわかります。
 ピョンコ節については、『お富さん』のところでも触れましたが、1拍を8分音符2つでなく、付点8分音符+16分音符の組み合わせにしているような曲のことです。これによってスイング感が強まり、リズミックになります。4分や8分の3連符でも、先の2つをつなげるように歌うと、似た効果が現れます。

 ジャズプレイヤーは、譜面では8分音符が2つ続いている箇所で、「弾んで」などの曲想記号がついていなくても、ごく自然に付点8分音符+16分音符で演奏するといいます。
 ピョンコ節は七五調の歌詞と相性がよく、明治時代から童謡や唱歌によく使われました。

 『港町ブルース』は、哀調を帯びた曲であるうえに、森進一が演歌特有のベタッとした歌い方をしているので、スイング感は弱まっていますが、それでも「」と、ピョンコ節の特徴が出ています。

 上の写真は焼津港。焼津駅からバスで30分ほどのところに焼津青年の家があります。昭和38年(1963)の春休みに、ここで学生エスペランティストの全国合宿がありました。それが終わったころから、歓びと惑いの9か月が始まり、ついに昇華できなかった懊悩をもって終わりました。忘れられない地名です。

(二木紘三)


美しき天然

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:武島羽衣、作曲:田中穂積

1 空にさえずる 鳥の声
  峯より落つる 滝の音
  大波小波 鞺鞳(とうとう)
  響き絶えせぬ 海の音
  聞けや人々 面白き
  此(こ)の天然の 音楽を
  調べ自在に 弾き給(たも)
  神の御手(おんて)の 尊しや

2 春は桜の あや衣(ごろも)
  秋は紅葉の 唐錦(からにしき)
  夏は涼しき 月の絹
  冬は真白き 雪の布
  見よや人々 美しき
  この天然の 織物を
  手際(てぎわ)見事(みごと)に 織りたもう
  神のたくみの 尊しや

3 うす墨ひける 四方(よも)の山
  くれない匂う 横がすみ
  海辺はるかに うち続く
  青松白砂(せいしょうはくさ)の 美しさ
  見よや人々 たぐいなき
  この天然の うつしえを
  筆も及ばず かきたもう
  神の力の 尊しや

4 朝(あした)に起る 雲の殿
  夕べにかかる 虹の橋
  晴れたる空を 見渡せば
  青天井に 似たるかな
  仰げ人々 珍らしき
  此の天然の 建築を
  かく広大に たてたもう
  神の御業(みわざ)の 尊しや

《蛇足》日本で最初のワルツといわれています。

 明治35年(1902)、佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)に勤務する将校たちの子女教育のために、私立・佐世保女学校(長崎県立佐世保北高等学校の前身)が開設されました。鎮守府は海軍の根拠地。
 同校の校長は、当時佐世保鎮守府の軍楽長を務めていた田中穂積
(ほずみ)に音楽教師就任を要請、受諾した田中穂積が教材用に作曲したのが、『美しき天然(下記注参照)』です。

 詞は、『花』(春のうららの隅田川……)の作詞者として今日まで名が伝わっている武島羽衣。田中は、小山左文二・武島又次郎が著した普及舎刊『新編 國語讀本 高等小學校兒童用巻二』(明治34年6月28日発行)で、この詞を知ったようです。

 武島作詞・田中作曲のこの作品は、樂友社の雑誌『音楽』8巻6号(明治38年〈1905〉10月10日発行)に掲載されたこと、および海軍の催しでよく演奏されたことから、広く国民に知られるようになりました。
 昭和20年代初めまでは、音楽教科書にも載りました。

 とくに無声映画上映時の小楽団やチンドン屋、サーカスの呼び込み等の演奏で頻繁に使われ、ジンタとして庶民には親しまれました。
 ジンタは、ワルツやポルカ、行進曲など欧米音楽の演奏がジンタッタ、ジンタッタと聞こえたことから遣われるようになった言葉です。

 戦後も、昭和3、40年代ぐらいまでは、チンドン屋の演奏で耳にすることがよくありましたが、現在ではその数も激減し、この曲を懐かしく思う世代も消えつつあります。

 歌詞について少し。3番にある「横がすみ」は、辞書には「横にたなびく霞」としか出ていませんが、私は、この歌では「遠くに見える満開の桜並木、もしくは横に広がった桜の森」だろうと思います。
 その根拠は、横がすみにかかっている「くれない匂う」という修飾句。「匂う」は、『朧月夜』や『夏は来ぬ』でも述べましたが、「匂いや香りがする」ではなく、「鮮やかに映えている」という意味。
 ドイツ民謡のメロディに日本語詞をつけた『霞か雲か』でも、「かすみか雲か/はた雪か/とばかり匂う/その花ざかり」と謳っています。

 同じく3番の「うつしえ(写し絵)」は幻灯、すなわちスライド映写機のこと。幻灯機は、1671年にドイツ人のA.キルヒャーが発明したもので、日本にはオランダとの交易を通じて伝わりました。
 西欧の幻灯機は、静止画を映すだけのものでしたが、日本では三笑亭都楽
(本名:亀屋熊吉)が画像が動くように工夫し、説経節・義太夫節や口上をつけて芝居風に上映しました。
 動くといっても、今のアニメのように動くわけではなく、画像の位置が移動するだけでしたが、「描いた絵が動くとはキリシタン・バテレンの魔術ではないか」と江戸庶民を驚かせ、熱狂させたといいます。

 明治20年代までは、盛んに上映されましたが、無声映画が入ってくると衰退しました。といっても、まるっきり消えてしまったわけではなく、私の子どものころ(昭和20年代)には、子供会などでよく上映されました。
 今日でも、マイクロソフト・パワーポイントで作ったプレゼン用のスライドも、ハードやソフトが上等になっただけで、幻灯機の進化版にすぎないといっていいでしょう。

(注)この曲のアップロード時には、『美しき天然』に「うるわ(しき)」とルビを振りましたが、各種文献には「うつく(しき)」と「うるわ(しき)」の2種類があり、「うつく(しき)」のほうが優勢であること、およびJASRACのデータベースには「うつく(しき)」で登録されていることから、「うつく(しき)」を正題と改めます。(2016-12-03)

(二木紘三)

アイルランドの子守歌

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:James Royce Shannon、
日本語詞:二木紘三、唄:ビング・クロスビー他

1 ずっと昔に キラーニーで
  優しく静かに 歌ってくれた
  お母さんの ひなびた歌
  もう一度聞けたら
  なんにもいらない
  トゥラ ルラ ルラ
  トゥラ ルラリ
  トゥラ ルラ ルラ
  おねんねなさい
  トゥラ ルラ ルラ
  トゥラ ルラリ
  トゥラ ルラ ルラ
  眠れいとしご

2 夢は巡る ゆりかごへ
  やわらかな腕の 中で聞いた
  お母さんの 優しい歌
  ねんねとあやす声
  遠い想い出
  トゥラ ルラ ルラ
  トゥラ ルラリ
  トゥラ ルラ ルラ
  おねんねなさい
  トゥラ ルラ ルラ
  トゥラ ルラリ
  トゥラ ルラ ルラ
  眠れいとしご

  Too-Ra-Loo-Ra-Loo-Ral
    (That's An Irish Lullaby)

Over in Killarney
Many years ago,
Me mither sang a song to me
In tones so sweet and low.
Just a simple little ditty,
In her good ould irish way,
And l'd give the world if she could sing
That song to me this day.

Too ra loo ra loo ral,
Too ra loo ra li,
Too ra loo ra loo ral,
Hush now don't you cry!
Too ra loo ra loo ral
Too ra loo ra li
Too ra loo ra loo ral,
That's an Irish lullaby

Oft in dreams I wander
To that cot again,
I feel her arms a-huggin' me
As when she held me then.
And I hear her voice a-hummin'
To me as in days of yore,
When she used to rock me fast asleep
Outside the cabin door.

Too ra loo ra loo ral,
Too ra loo ra li,
Too ra loo ra loo ral,
Hush now don't you cry!
Too ra loo ra loo ral
Too ra loo ra li
Too ra loo ra loo ral,
That's an Irish lullaby

《蛇足》一般にはアイルランド民謡として知られ、愛唱されていますが、実はアメリカ産です。
 俳優で作曲家のジェイムズ・ロイス・シャノン
(James Royce Shannon 1881–1946)によって、1913年に作詞・作曲されました。翌年、ミュージカル『シャミーン・デュー(Shameen Dhu)』のなかでチョーンシー・オルコット(Chauncey Olcott)によって歌われると大評判になり、そのレコードはミュージック・チャートの1位になりました。

 その後、4半世紀ほどは、ほとんど忘れられていましたが、1944年公開のパラマウント映画『我が道を往く(Going My Way)』のなかでビング・クロスビー(Bing Crosby)が歌うと、再び評判になり、そのシングルはミリオンセラーとなり、ビルボードのチャートで4位まで上がりました。

 シャノンは、アイルランド系であり、父母もしくはそれ以前の先祖から受け継いだケルト・ミュージックの音感がこの曲に表れたのでしょう。何人ものアイルランド系の歌手がカバーしています。

 日本では、ペギー葉山が英語で歌っています。
 また、昭和37年
(1962)8月には、NHK『みんなの歌』で歌われました。このときの歌詞は日本語だったと思いますが、どんな歌詞だったかはわかりません。

 歌える日本語詞が見つからなかったので、私がつけました。もう少しましな日本語詞が見つかったら差し替えます。

 歌詞に出てくるキラーニー(Killarney)は、アイルランド南西部、キラーニー国立公園のなかにある美しい観光都市です。

(二木紘三)

星降る街角

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作詞・作曲:日高 仁、唄:敏いとうとハッピー&ブルー

1 星の降る夜は
  あなたと二人で 踊ろうよ
  流れるボサノバ ふれあう指先
  ああ恋の夜
  いたずら夜風が 頬にキスしても
  二人は
  何も言わないで 瞳見つめあう
  あの街角

2 月の青い夜は
  二人であてなく 歩こうよ
  そよぐプラタナス 二つのくつ音
  ああ恋の夜
  いじわる夜霧が 行く手じゃましても
  二人は
  何も言わないで ほほえみを交わす
  あの街角

3 風の香る夜は
  朝まで二人で 話そうよ
  揺れてるキャンドル 寄り添う肩先
  ああ恋の夜
  やきもち夜露が 頬を濡らしても
  二人は
  何も言わないで くちづけ交わす
  ああ街角

《蛇足》 昭和47年(1972)1月、中井あきらの唄でポリドールから発売、続いて同年10月、「ハッピー&ブルー」名義でテイチク(ユニオンレコード)から発売。
 昭和52年
(1977)には、「敏いとうとハッピー&ブルー」と、リーダー名を頭につけたグループ名でトリオレコードから発売されヒットしました。

 敏いとう(本名:伊藤敏)は元獣医。作曲家遠藤実の愛犬を診たのがきっかけで芸能界に入ったそうです。

 作詞・作曲の日高仁(まさし)は、かつて有楽町にあった日本劇場、通称日劇がステージ・エンタテインメントのメッカ(映画も上映)だったころの演出家。日劇退社後は、テレビや舞台の歌謡ショー・バラエティの演出・構成も手がけました。
 この曲の快調なリズムや大衆受けするメロディーは、そうした経歴から生まれたものでしょう。

(二木紘三)

田舎の冬

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作詞:不詳、作曲:島崎赤太郎

1 ましろにおく霜 峰の雪
  しずかにさめくる 村の朝
  ほういほい ほういほい むら雀
  かり田のかかしに ひの光

2 ひなたにつづるは 古ごろも
  軒にはたるひの とくる音
  ほういほい ほういほい かん烏
  門辺の枝には 柿二つ

3 いろりにほだたく 夕けむり
  枯野に風立ち 日のくるる
  ほういほい ほういほい 渡り鳥
  鎮守(ちんじゅ)の林に 宿かさん

Inakanofuyu

《蛇足》昭和6年(1931)10月、『新尋常小学校唱歌(五)』に掲載ということ以外はわかりません。10月は発行時期を示すものだと思われます。

 小学校時代(昭和20年代)に習った歌のうちでも、好きな歌の1つです。
 むら雀は村の雀だと思っていたし、「つづる」「たるひ」などわからない言葉が多かったけれども、
とくに疑問ももたずに歌っていました。先生も説明してくれなかったと思います。

 今の子どもたちがこの歌を歌うことはもうないでしょうが、いちおう意味を書いておくと、「むら雀」は群れている雀であり、「かり田」は稲を刈り取ったあとの田んぼ、「ひなたにつづるは古ごろも」は日の当たる縁側かどこかで古い衣服を繕っている光景を示しています。
 「たるひ」は垂氷と書き、氷柱
(つらら)のことで、それが解けて水がしたたっている光景です。「かん烏」は寒烏で、冬の烏のこと。
 「ほだ」は、漢字では榾と書き、「ほた」ともいいます。薪
(たきぎ)、すなわちいろりやかまど(「くど」とも)で燃やす木のことです。『田舎の四季』に出てくる「そだ」も同じですが、ほだは割った木(まき)、そだは木の枝をいうことが多いようです。

 作曲の島崎赤太郎(明治7年〈1874〉-昭和8年〈1933年〉)は、日本最高のオルガニストといわれた人で、唱歌のほか、仏教関係の宗教歌を作曲しています。

 上の絵は2017年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。亡母の生家をイメージして描きました。
 実際の生家は、右端に居間があり、左側には土間と縁側がありました。庭には植え込みと、池に流れ込む遣り水があり、川縁には農具小屋がありました。
正月や春休みに遊びに行くのがとても楽しみでした。
 
その家は、何回か建て直され、とうの昔になくなっています。

(二木紘三)

500マイル

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作詞・作曲:Hedy West、日本語詞:忌野清志郎、唄:PPM他

If you miss the train I'm on,
You will know that I am gone.
You can hear the whistle blow a hundred miles,
A hundred miles, a hundred miles,
A hundred miles, a hundred miles.
You can hear the whistle blow a hundred miles

Lord, I'm one, Lord, I'm two,
Lord, I'm three, Lord, I'm four,
Lord, I'm five hundred miles away from home.
Away from home, away from home,
Away from home, away from home.
Lord, I'm five hundred miles away from home.

Not a shirt on my back,
Not a penny to my name,
Lord, I can't go back home this a way
This a way, this a way, this a way, this a way
Lord, I can't go back home this a way.

                 (Interlude)

If you miss the train I'm on,
You will know that I am gone,
You can hear the whistle blow a hundred miles.
A hundred miles, a hundred miles,
A hundred miles, a hundred miles.
You can hear the whistle blow a hundred miles.

 

            (忌野清志郎)
次の汽車が 駅に着いたら
この街を離れ 遠く
500マイルの 見知らぬ街へ
僕は出て行く 500マイル

ひとつ ふたつ みっつ よっつ
思い出数えて 500マイル
優しい人よ 愛しい友よ
懐かしい家よ さようなら

汽車の窓に 映った夢よ
帰りたい心 抑えて
抑えて 抑えて 抑えて 抑えて
悲しくなるのを 抑えて

次の汽車が 駅に着いたら
この街を離れ 500マイル

《蛇足》シンガー・ソングライター、ヘディ・ウェスト(Hedy West 1938-2005)のファースト・アルバムに収められた作品のうちの1曲。発売は1961年。

 アメリカやイギリスでは、2度フォークソング・ブームが起こっています。第一次ブームは1940年代で、このときはアメリカ各地で伝承されてきた民謡や俗謡に光を当てたもの。

 いっぽう、第二次ブームは、そうした伝統歌謡に加えて、戦争や社会的不平等に異議申し立てをするメッセージソングないしプロテストソングが脚光を浴びたのが特徴です。ちょうどこのころ、アメリカが直接関わったベトナム戦争に若者の批判精神が鋭く反応して、そうした歌が生まれました。
 前者はトラディショナル・フォークソング、後者はモダン・フォークソングと呼ばれています。

 第二次ブームでは、キングストン・トリオ、ジョーン・バエズ、PPMことピーター・ポール・アンド・マリー、ボブ・ディランなどそうそうたるメンバーが活躍しました。ヘディ・ウェストもその1人ですが、彼女がおもに歌ったのはトラディショナル・ソングで、その代表曲がこの『500マイル(Five Hundred Miles)』です。
 非常に多くの歌手やグループがカバーしていますが、最もヒットしたのが、キングトン・トリオ版とPPM版でした。

 歌詞は、歌手やグループによって少しずつ違っていますが、上にはPPM版を掲載しました。タイトルも、オリジナルの"Five hundred Miles" のほか、"500 Miles Away from Home" "Railroaders' Lament"などいろいろです。
 参考までに、ヘディ・ウェストのオリジナル版を下に掲載しておきます。

 ヘディ・ウェストは、ランブリン・ジャック・エリオット(Ramblin' Jack Elliott 1931年- )が歌ったトラディショナル・ソング『900マイル』に触発されてこの曲を作ったといわれます。

 『900マイル』は、アメリカ南部でさまざまな歌詞で歌われてきたバイオリン曲のうち、"Reuben's Train"と "Train 45"を合わせて作られたそうです。
 『900マイル』も『500マイル』も、放浪者の望郷心がテーマになっていますが、『500マイル』のほうが、歌詞・メロディとも単純かつ繰り返しが多いため、より古い民謡ぽくなっています。

 『500マイル』の最初のほうは、単なる郷愁の歌のようになっていますが、第3聯に、「シャツ1枚、びた銭一文もなくて、こんなざまじゃ故郷に帰れねえ」とあるように、落ちぶれた放浪者の悲哀が感じられます。
 私は、1973年公開のアメリカ映画『北国の帝王
』(リー・マーヴィン、アーネスト・ボーグナイン主演)や『スケアクロウ』(ジーン・ハックマン、アル・パチーノ主演)に描かれた浮浪者を思い浮かべました。

 日本語詞はロック・ミュージシャンの忌野清志郎いまわの・きよしろう 、1951- 2009)
 忌野清志郎は、ロックやJポップスのシンガー・ソングライターのなかでは珍しく、日本語のアクセントを大事にした曲作りをしていたといわれ、それがこの日本語詞にも表れています。
 ただ、上のmp3は英語詞に合わせて作ったので、日本語詞では多少歌いにくいかもしれません。英語詞では、1番と2番・3番とで音符の数ないし長さが違うところが何か所かあるのです。


   Five Hundred Miles

If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles!
A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles!

Lord, I'm one, Lord, I'm two
Lord, I'm three, Lord, I'm four
Lord, I'm five hundred miles away from home!
Away from home
Away from home
Away from home
Away from home
Lord, I'm five hundred miles away from home!

If my honey said so
I'd railroad no more
I'd sidetrack my engine and go home!
And go home
And go home
And go home
And go home
I'd sidetrack my engine and go home!

Not a shirt on my back
Not a penny to my name
Lord, I can't make a living this a way!
This a way
This a way
This a way
This a way
Lord, I can't make a living this a way!

I told my little letter
Just as plain as I could tell her
She'd better come along and go with me!
Go with me
Go with me
Go with me
Go with me
She'd better come along and go with me!

My shoes are all worn
My clothes are all torn
Lord I can't go back home this a way!
This a way
This a way
This a way
This a way
Lord I can't go back home this a way!

If this train runs me right
I'll be back tomorrow night
I'm coming down the line on number nine!
Number nine
Number nine
Number nine
Number nine
I'm coming down the line on number nine!

If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles!
A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles!

(二木紘三)

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